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Maria  作者: おでき
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Chapter.5‐2

「軍部の中には、現体制に不満を持っているのが大勢いるんだよ」

 背後から幾分ひそめた声で告げた彼に、私はピタリと足を止めて振り向いた。

「……ドクター・ペトレスク」

 ルサリィ……いや、マリアの部屋を後にした私は、私室の鍵を開けようとしていたところだった。

 音もなく現われ後ろに佇んでいる彼に、若干の気味悪さを覚える。

「ミスター・マキ。少し話をしよう」

 そんな私に気付いているのかいないのか、口元を上げた彼は、私の部屋へと顎をしゃくった。

 

 半ば強引に部屋に入ったドクター・ペトレスクは廊下を過ぎて、ベッドが奥にある手狭なリビングのソファに座った。

「コーヒーでもいいですか? あいにく紅茶がないんです」

 昼間に持って来てくれた紅茶の礼を言いつつ、その時の彼の姿を思い出し笑っていた私は、彼にそう告げた。

「構わないよ。スタリーチナヤがあれば、そっちのほうがいいけれど」

「残念ながら、ヴォトカはありません」

 ヴォトカとはウォッカのことだ。スタリーチナヤはソ連メーカーのウォッカで、国内外問わず人気商品のため、酒の品種に疎い私にもその銘柄は分かった。

 いじけたように肩をすくめるドクター・ペトレスクに苦笑しつつ、キッチンでコーヒーの準備を始めた。

 

 淹れたてのコーヒーを彼の前に置き、私は向かい合うように設置していた一人用の椅子に座る。

 自室でもないのにくつろいでいるように見えるドクター・ペトレスクは、どういうわけか世間話ばかりを振ってきた。しかしコーヒーを半分くらい飲むと、ようやく本題に入るつもりなのか、彼は今回のマリアに関する決定について、上層部の内情を話し出した。

「明後日……いや、もうすぐ日付が変わるが、二十一日の大統領の支持集会、君は正直なところどう思う?」

「どう、と言いますと?」

 慎重な返答を心掛けようと思えば思うほど、何も返せないものだ。そんな私に、彼は目を伏せてゆっくりと言葉を紡ぐ。彼もまた、言葉遣いを吟味しているようにポツポツと吐き出した。

「支持集会なんて官製デモだ。その気がなくても民衆は集って、時の権力者を崇めなければいけない」

 独裁政治を敷く者は、求心力がものをいう。それがたとえ作り物や見せかけであっても、だ。

 私は口を開かずに、彼の話に耳を傾けた。

「しかしね、ミスター・マキ。今回はどうやら反政府組織が集会で何かをするみたいだよ。そこに国軍であるはずの軍上層部の一部が加わる、という話だ。つまり、ここの研究所を統括している軍のお偉いさんは、現政権に牙を剥く気だってことかな」

 あまりに柔らかな口調に、大した話ではないように思えるが、実際はとてつもなく大きな話だった。何故なら現政権からすれば、国家転覆を企むクーデターに発展する可能性を示唆しているのである。

「国賊になる可能性もあるでしょうに」

「もうあの男に国の実権を握っていて欲しくないと思う連中が多いんだよ」

 孤児を多く作る結果を招いた政策をした、チャウシェスク。彼がいなければ多くの孤児は生まれなかったかもしれない。実の親に捨てられるということを味わう必要もなかったかもしれない。しかし彼がいなければ、マリアは生まれなかったかもしれない。彼がいなければ、私はマリアに出会わなかったかもしれない。だが彼がいなければ、マリアが実験体という人生を送ることもなかったかもしれない。

 私は複雑な気分に駆られた。

「……しかし、ドクター・ペトレスク。事が発覚すれば、現政権に対する国事犯として処刑されるでしょうね。その軍付属の研究所も、もちろん私達もただでは済まなさそうだ」

 自嘲気味に言うと、彼は考える素振りを見せた。

 もう私としては、彼女の行く末が決まってしまったため、自身の今後についてどこか投げやりになっていた。自分の命すら危険なこの状況に、大して動じていなかった。

 私は手元のカップを眺め、椅子の背に深くもたれる。それからしばらく互いに口を開かなかった。やがてコーヒーカップをテーブルに置いたドクター・ペトレスクがおもむろに立ち上り、腕時計を見つめていた。

「ごちそうさま。私はそろそろ部屋に戻るとするよ」

 私も立ち上がると、彼をドアまで見送った。

 ドアを開け、私の横を通り過ぎる瞬間、彼は私を見た。そして意味深に笑んだ。

「……君にはマリアがついているよ。慈悲深き聖母マリアと同じ名の、君の守護天使が」

 その言葉に思わず目を見開いた。

 聞き違えるはずはない。彼は今、マリアといったのだ。私はドクター・ペトレスクをまっすぐと見つめ返して、慎重に言葉を発する。

「ドクター。……あなたはどこまで知っているのですか」

 そう。ルサリィ、と研究者から呼ばれるマリアのことを。

 だがその問いに答えは返ってこなかった。彼は先程の笑みを崩さず、背を向けた。

「幸運を」

 そう投げかけた彼は右手を軽く上げると、去っていった。

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