Chapter.5‐1
十九日。
この日はルサリィの希望通り、仕事をせずに彼女の部屋でひたすら話をしていた。昼食も一緒にとり、午後もずっと二人きりだ。
正午を過ぎてしばらくすると、ドクター・ペトレスクがやって来て、何故か紅茶を淹れはじめた。どうやら彼はポットやらティーカップやらを持ってきたらしく、大きなバスケットの中身から得意げに笑ってそれらを出し、ルサリィを驚かせていた。
建物から建物への移動と言えど、冬の風は凍てつくように冷たく、また痛い。保温が万全なポットでも、少しの移動で冷めてしまう。そのため彼はポットを布で包んでバスケットに入れて持って来たらしい。
ドクター・ペトレスクによってティーカップに注がれた紅茶は少しばかり苦味が多く、そのままでは飲みにくかった。彼も私達の反応を予想していたようで「ちょっと待ってくれ」と言うと、ライティングデスクに置いたバスケットに手を突っ込んでいた。
ベッドに座っているルサリィと、近くのパイプ椅子に座っている私は互いに見合わせて、首を傾げる。
彼はおもむろに、ある物を取り出した。小皿二枚とジャムの小瓶のようだ。
「これと一緒に召し上がれ」
陽気な声で小瓶のジャムを小皿へと適量移した彼は、バスケットから小さなスプーンを取り出し、小皿の横につけた。
「秘伝の自家製ジャムだよ。仕事の合間にこっそり作っていたんだ」
そう言って目を細めて笑った彼は、紅茶を淹れるだけ淹れて、颯爽と立ち去っていった。
私とルサリィは、思わず吹き出していた。
ドクター・ペトレスクの突然の来訪による楽しいお茶の時間も終わってしばらく、時刻は夜の七時を指していた。
私達は昼食の時と同じように、軍人が運んできた夕食を一緒にとった。もうすぐ彼女との時間も終わる。日が変わらぬ内に、私室に戻らねばならない。お互いにそれが分かっているのか夕食をとったあと、話すこともないまま無言で向かい合っていた。
そうしてどれくらい経ったのか、彼女は突然ポツリと話を始めた。
「私ね、ここに六歳で来たの。今から十一年前、ね」
「うん」
その言葉に彼女があと数日で、十八歳と言える日が来ていることを突きつけられた。
「それでね、突然だけど、私の名前……知っている?」
彼女は微笑み、ルサリィじゃないほうよ、と付け足した。
ルサリィじゃないほう。それは本当の名前だ。私は首を横に振った。
「いや、知らない」
この研究所で暮らし始めたルサリィに関する資料はあっても、それ以前に関する、つまり彼女の出生地や本名等は資料には記されていなかった。もしかすると上層部が管理する書類にはあるかもしれないが、少なくともこちらに回ってくる資料には「ルサリィ」としか記述されていない。
じっと彼女を見つめていると、彼女は視線を落とし、太腿の上で軽く組んでいる指を解いた。
「私、覚えているの、ちゃんと覚えているの……だからね」
彼女は顔を上げて口を開いた。
「呼んで欲しい」
「え?」
「ケイジに呼んで欲しい」
お願い、と呟いた彼女の茶色い瞳に私が映っている。
「……マリア、と呼んで」
その瞬間、息ができなかった。
「ケイジ……」
呼吸が一瞬止まった私の耳に、彼女の声がいやに響いた。
「ケイジ。……マリアと呼んで」
彼女は再び懇願する。
私は少しだけパイプ椅子から身を乗り出して、ベッドに座る彼女に近付いた。彼女の頬にそれぞれ自分の両手をそえて、そっと包み込む。彼女はそのまま瞼を下ろした。まるで時が止まったままの絵画か石膏像のように、瞳を閉じた彼女の姿は美しかった。
私は、私自身の何かを内から絞るように息を吐いて、小さく呟いた。
「……マリア……」
その途端、彼女は肩を震わし、胸を上下させる。
「……マリア」
もう一度、確かめるように呼ぶと、私の両手は温かく穏やかなものに濡れていた。