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Maria  作者: おでき
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Chapter.1‐1

 この小説はフィクションであり、実在の人物、地名、団体等とは一切関係ありません。

 大きな敷地を取り囲む鉄柵の中に広がる景色は、地獄とも、ましてや楽園とも呼べる代物ではない。

 カッターシャツに白衣を引っかけた私は、正面ゲートから一番遠い建物へと赴いた。近付くと、外界を遮断するようにそびえ立つコンクリートの壁。薄汚れたその建物に足を踏み入れれば、外観と似合いの古びたリノリウムの床がある。ギュッギュと擦れる靴底の摩擦を聞きながらも、私の神経は別のところに向いていた。

 手にしている書類を持ち替えない、無闇に手を動かさない、前を向いて歩き、不必要な動作は一切しない。注意を怠れば、ここでは不審に繋がるからだ。

 建物内では、大柄の男達が監視の目を光らせる。彼らに疑いの色を持たせるのを避けるには、無駄のない歩みで足を進めるだけだった。

 私は東洋人――更に言えば日本人――であるので、この国の人間の平均身長からすればいくらか背丈が低い。おまけに今、この敷地内にいるアジア系は私ひとりだ。言い草に人種的な問題もあるだろうが、どこを見渡しても白人(コーカソイド)というのは、なんとも言い難い圧迫感がある。ここに勤務している白人はラテン系とゲルマン系が半々で、目と髪の色が入り乱れている。一見して多いのは、髪が栗色から深い茶色・黒・ブロンドの順で、目はブラウン・ヘーゼル次いでグリーンにブルーといったところか。肌の色はみな白人種だが、髪や虹彩の色にしても「ブルネット」とカテゴライズされるダーク系が占めている。

 アジア系も虹彩はブラウンであるので、体格は違えど、ここで多数派を占めている瞳の色に親近感は持てる。が、やはり人種という差異にどうも神経がすり減るのは致し方ないところだ。

 壁際に立つ男達はなおも好奇と不躾の色を滲ませてこちらを見ている。物珍しいのは確かなようだ。果たしてそれがアジア系……黄色人種だからそうさせるのか、こんな場所に出入りしている存在そのものが奇異なのか、判断つかないが。

 長い廊下を歩き終え、突き当りの階段を上がっていると、数段上の踊り場で知った顔を見つけた。顔を上げ、こちらから挨拶する。

「おはようございます、ドクター・ペトレスク」

 ソ連の大学院で生理学の博士号を取得したという四十過ぎの中肉中背、白髪交じりの白衣を着用した男。切れ長の瞳のため、いささか眼光がきつく見えるが、笑うと目尻に大きく皺が寄り、気さくな雰囲気をかもし出している。

「おはよう、ミスター・マキ。ここには慣れたかな?」

 踊り場に立っているドクター・ペトレスクは、柔和な表情で声をかけてきた。

「仕事内容は」

 苦笑しながら簡潔に答えた私も、踊り場で立ち止まった。彼は口元に笑みを浮かべていた。

「仕事内容、か。なるほど。軍人の目にも慣れたかい?」

 わずかに声の調子を落とした彼に、尋ね返す。

「と、言いますと?」

「配慮の足りない視線を君は浴びているようだからね。……まあ、私もここに来た当初はそうだったが」

 肩をすくめたドクター・ペトレスクに、私は一度だけ頷いてみせた。

 軍人とは、この敷地内にいる警備の人間達のことである。先程から感じる視線は、彼らのものであった。まさに今も、階下の彼らはこの踊り場を注視しているだろう。いい気分ではない。だが監視されているのに、まったく視線が気にならないほうが気味悪い。見られていると分かるだけマシといえた。

「どうにもならなくなったら、ワインでも持ち歩いて親善を図りますよ」

 笑いながら言うと、彼も乗り気な声で「その時はチーズも携帯してくれ」と口角を上げた。

 ここで話し込むのを切り上げて、「では」と彼の横を通ろうとする。彼もそのつもりか軽く手を上げ、階下の方へ体の向きを変えた。すれ違う瞬間、彼は「そうそう」と私を引き止める。

「ミスター・マキ。今日の『彼女』は、ご機嫌のようだ」

 行ってみるといいよ、と振り向いた私の肩に手を置いたドクター・ペトレスクは、今度こそ階段を下りていった。

 

 一九八八年、秋。ルーマニア社会主義共和国の首都ブカレスト。

 この時代、資本主義の風が大きく吹くなか社会主義はいささか廃れていた。一昔前は「マル経」と略され盛んに研究されていたマルクス経済学も、今や経営・経済の中心ではない。母国日本では民主主義が定着していたが、ここルーマニアではニコラエ・チャウシェスクによる独裁政治が敷かれていた。

 一九六五年、ルーマニア共産党の総書記を皮切りに、現在に至るまで国家元首の地位にあり続けているチャウシェスク。

 この政治家の政策について注目すべきは四つある。縁故によって国家の主要ポストを固めたこと、外貨獲得のために物資を輸出し、国内消費の不足により飢餓が発生する「飢餓輸出」を招いたこと、秘密警察セクリターテを使いルーマニアを監視社会にしたこと、そして中絶の制限を行ったこと……の四つだ。

 この四つ目が、私の仕事と関係していた。

 中絶に関しチャウシェスクの政策は、ことのほか厳しかった。六六年の限定的措置のあと、翌年に完全な施行がなされ今日まで続いている。結果、四十五歳以下の女性の合法的な中絶を制限し、避妊薬の輸入禁止措置や離婚の制限を設けた政策は、多くの孤児を生んだ。膨大な孤児の数と無理な政策ゆえに奇形児も多かった。あわせて孤児院も増加の一途を辿っている。

 飢餓輸出を招いてまで輸出を行っている状態に、人口増加の一環で大した避妊も出来ないうえ中絶は禁止され、生まざるを得ない状況で子供が生まれても、満足な食事も与えてやれない。その末路は当然、予想できる。

 子供を捨てる……悲しいながら、それが現実であった。

 国民は慢性的な食料不足に陥り脱出できず、その間も孤児の数は膨れ上がるばかりだ。チャウシェスクの政策は、生活水準の低下という円環を作り上げた。

 更にその膨大な孤児について、国家が面倒を見きれるかというと、財政を逼迫する要因になるであろう孤児に、十分な保障は元より無理な話である。そうして満足な生活水準を満たさない孤児院で、ぞんざいな扱いを受け、彼らは成長していくのだ。

 だが孤児が多い場所というのは、孤児で成り立つ商売も多い。濁さずに言ってしまえば、奴隷だ。どこもかしこも子供というのは、特に孤児というのは奴隷扱いになるのがほとんどである。大人に抵抗しない純粋な労働力としては、子供は価値のある代物だった。性的対象として国外取引され、自然といなくなっていくのもしばしばある話だ。

 それを思えば私も心は痛む。しかし、人のことを言えたものではない。それも承知している。

 ……私の仕事は、孤児を使った観察と人体実験であるからだ。

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