猫のいる映画館
僕は映画を観ようと思った。自分でも何故だか分からなかったが、僕はその日、ひどく映画を求めていて、それもあまりメジャーなものではなく、マイナーなものを観たいと心の底から思っていた。
そう思い立つと、僕は今日が休日であることをよいことに、夕暮れの景色の中で電車に乗り、池袋へと向かった。
現在の仕事が上手くいっていないということから逃げ出したかったのかもしれない。しかし逃げる場所がどこにあるというのだろう。そうだ。映画だ。映画なら僕を別の世界に誘ってくれる。僕はそんなことを考えていたのかもしれなかった。
池袋という町は不思議な町である。何度も訪れていても、一度も見たことのない奇妙な裏路地を見つけることができる。その日僕が迷い込んだのはまさにそんな裏路地だった。
その裏路地には、一見すると廃墟のような古めかしい建物が建っていた。僕は気味が悪く思って通り過ぎようとした。しかし僕は通り過ぎるとすぐに、なぜか気になって振り返った。
廃墟だったはずのその建物は、今では琥珀色の明かりがいくつもともり、「NEKOJARASHI PARADISE」と記された赤い看板が入り口の上に掲げられていた。いつのまにかレトロな映画館がオープンしていたのだ。
(あれ、おかしいな……)
僕は首をかしげた。
おかしいのはそれだけではなかった。入り口の横に、トレンチコートを羽織った猫が立っていたのだ。僕は奇妙なものを目の当たりにした、その怪異を分かっていながら、ついつい声を出して笑ってしまった。
(あの猫、よく太ってら……)
僕は子供の頃から、太っている猫を見るとおかしくてたまらなくなってしまうという変な癖があった。
僕は、その風変わりな映画館に惹かれて、その建物にのそりのそりと近付いていった。トレンチコートの猫は人見知りなのか、ぎこちなく動いて、僕に背を向けた。
受付で、僕は何の映画をやっているか、尋ねることにした。受付のガラスの向こう側に座っているのはこれもまた猫の少女だった。
「今日は何の映画をやっていますか」
「今から始まるのは……です」
僕にはそのタイトルがよく聞き取れなかった。おそらく猫の少女も人間に尋ねられて緊張してしまい、声が出なかったのだろう。
「わかった。じゃあ、その映画を観るよ」
と僕は言った。どんな映画かなんて質問はもういらないと思った。猫のいる映画館に入ること、これだけでも十分に面白い体験じゃないか。
僕は千五百円を支払うと、自分の置かれている状況に興奮するあまり、猫の少女の手を握ろうといた。猫の少女は驚いてチケットを持った手を引っ込めた。
「失礼しました。あまりにも可愛いかったから」
「手が可愛くても、突然、掴まれたらびっくりします」
猫の少女はおどおどしながら言った。
「そうかもしれないね」
僕は今こそ反省しなければいけないときだと思った。だけど、猫の可愛いらしい手を掴むことにどうしても罪悪感を抱けなかった。僕からしたら、手というよりも前足だった。トレンチコートの猫が、やれやれといった表情でこちらを見ている。
「お兄さん、場合によっては痴漢ですよ」
「それは違う。僕はけしてこの子が女の子だから手を掴もうとしたんじゃない。僕から見たらあなただって可愛いよ。可愛い猫ちゃん。抱きつきたいぐらいだ」
「これだから人間は……」
トレンチコートの猫は不気味そうにこちらを睨み付けると、ひとりで裏路地へと歩み出て、どこかに消えてしまった。
僕は猫の少女からチケットを受け取ると、正面の赤い観音開きの扉の向こうへと進んだ。そこは正方形の部屋で、左側には大きなガラスのケースが置かれており、キャラメルポップコーンが甘い香りを漂わせていた。白い簡易的なコック帽みたいなものをかぶっている黒猫が、そのキャラメルポップコーンを大きな紙コップに移し変えているところだった。
「やあやあ、美味しそうだね。一つくれるかい?」
「こんな甘ったるいもの、ほしけりゃいくらでもくれてやりますよ」
店員にしてはぶっきらぼうな言い方である。
「そんなふてくされたこと言うなよ。なあ、美味しそうじゃないか」
「毎日、同じことの繰り返しじゃ、こんな気持ちにもなりますよ」
「まあ、そうかもしれないね。しかし仕事ってそういうものよ。さあ、キャラメルポップコーンを僕に一つください」
黒猫はへんっと笑って、僕にキャラメルポップコーンの入った紙コップを一つくれた。僕はそれを抱えると、ペットボトルのオレンジジュースも受け取って、その部屋の奥にある上映室に入っていった。これでよいのだ、最高の休日だ、と僕は笑った。
僕はスクリーン正面の椅子に深々と座り込むと、キャラメルポップコーンを三粒ほどつかんで口に放り込んだ。甘い。実に甘い。オレンジジュースを飲むと、それが酸っぱく感じられるほどだった。
しばらくしてブーっと音が鳴り、上映室が暗くなって、映画が始まった。
猫が二匹、スクリーンの真ん中に歩み出てきた。一匹は白衣を着ていて、口ひげを生やし、年寄りのようだ。もう一匹は痩せていて、チョッキを羽織っている。ここはどこかの研究所のようである。
「博士、それは事実ですか」
「ふむっ。これはまぎれもなき事実だ。確かに宇宙人たちは侵略を開始している」
「すると、今朝の屈斜路湖の怪光も……」
「あれはクッシーのものだ。宇宙人とは関係ない」
「はあ」
「とにかく、われわれにできることは侵略してくる宇宙人の乗り物を砲撃して、全部、とにかく全部を撃ち落とすことだよ」
「われわれにできますでしょうか」
「できる。われわれには神がついている」
すると、奥から魚を咥えた年寄りの猫が現れた。二匹の猫はその猫にお辞儀をした。ここから聞いたこともない賛美歌の歌唱が五分続いた。そのシーンが終わると、うろこ雲の美しい青空が映り、そこに黒い胡麻の影のようなものが浮かび上がってきた。それらはだんだん大きくなるにつれ、空飛ぶ円盤の軍勢であることがいよいよ明らかになった。
「きたぞ!きたぞ!ヒャッハー!」
スクリーンの中の猫が飛び上がって叫んだ。
僕は、次第にこの映画に夢中になっていった。猫たちが必死に空飛ぶ円盤を砲撃するシーンには相当な見応えがあった。円盤を砲撃する度に、周囲の建物が爆風に巻き込まれて、粉々に吹き飛ぶシーンはとても猫が作った映画とは思えないほどのクオリティーだった。
(がんばれ!)
僕はキャラメルポップコーンを頬張ったり、オレンジジュースを飲むのもすっかり忘れて、右手を強く握りしめて、スクリーンを凝視していた。
その時、僕はあっと叫んだ。落下してきた円盤がふたつに裂けて、中から人間が三人飛び出てきたのだった。猫たちは大きなショベルカーに乗って、猛スピードで人間に接近すると、ベシっと音を立てて、人間を叩き潰してしまった。上映室の至るところからどっと歓声が起こった。
「これは……!」
僕は叫び声を上げると、しばらく画面の向こうで何が起きているのか見つめていた。そしてキャラメルポップコーンを床にぶちまけて、オレンジジュースの入れ物を転がし、全力で上映室の出入り口に走った。その時、逃げ出した僕を見て、猫たちが笑い声を上げたような気がした。
(殺される!殺される!)
この事態に気づいた従業員の猫たちは驚いて僕を押さえると、
「どうしたのですか。落ち着いてっ!」
と口々になだめるのだった。
「殺される!これは人間を殺す映画だ。君たちは僕をそんな風に見ているんだ!」
目の前に立っていた黒猫が対処に困ったのか、僕の右頬を思いきりパンチした。
「うわ! やめて!」
「お客さん。これはただの映画です!」
「映画だって? 何が映画なものか!」
振り反ってスクリーンを見ると、空飛ぶ円盤が次々と不時着し、次々と裂けて、人間が飛び出し、必死に逃げ惑う。それを猫がショベルカーで追いかけて、ペシャリペシャリと潰してしまうのだった。次から次へと人間の肉塊が山を成してゆく。
「うわああああ!」
僕は頭を押さえて叫んだ。そして気を失って倒れた。そのあと、僕はどこにいたのだろう。しばらくして僕は見たことのない狭い部屋で目を覚ました。やたら胃がムカムカするのでトイレの個室で吐いた。血ではないなにかが出てくる。ふらふらと個室から出てくると、受付にいた猫の少女が男子トイレの中に立っていて、
「ご気分はどうですか」
と尋ねてきた。
「もう、最悪だよ。ねえ、僕はこの場所で殺されるんじゃないだろうね」
「そんなこと絶対にありませんよ。大体、あれはただの映画じゃないですか。本気にするなんて馬鹿らしい」
と猫の少女はさも可笑しそうに笑った。僕は急に恥ずかしくなった。確かに僕が見ていたのは映画で、単なるフィクションなのだった。それなのに僕はまわりにいる猫がすべて僕の敵で、僕を憎んでいるものだと思い込んでしまった。そんなはずはないのにね。
「でも、本当に怖かったんだ……」
「映画を本気にするなんて、子供っぽいところがあるんですね」
猫の少女は悪戯っぽい目つきで僕を見つめた。僕は思わずドキリとする。
「子供っぽいかな。そうかな」
「ふふふ」
僕は、男子トイレでこんな話をしているのもなんだと思って、猫の少女を連れて、廊下に出た。
「さっきはごめんね」
「え?」
「いや、無理に手をつかもうとしてさ」
「いいの。あなたは変わったわ」
「反省してるんだ」
「今のあなただったらわたしの手を握ってもいいよ」
僕はこんな可愛らしい猫の娘を見たことがなかった。僕は彼女と甘い言葉を交わした。彼女はオレンジジュースで汚れた僕の上着を受け取ると、代わりの上着を貸してくれた。
それからも僕は猫の少女のことを考えながら上映室に戻った。スクリーンの中では今も、人間が次々と潰されていく映像が続いている。僕はもう抵抗を感じなかった。これを映画だとちゃんと理解して見れるようになっていた。
(いいぞ。いいぞ。どんどん潰してしまえ)
ショベルカーはまるで鼠を捕らえようとする猫のように、人間に飛びかかってゆくのだ。これを見て、不快になる人がいたら、それはきっとフィクションとノンフィクションの違いが分からない人間なのだと僕は思った。
映画が終わると、自然と客席から拍手が沸き起こっていた。僕も大変満足し、心地よくなって、上映室を後にした。そして僕はもう映画のことなどどうでもよくて、まっすぐに受付の席に座っているあの猫の少女のもとへと急いだ。
「見終わったのね」
「うん」
「けっこう面白かったでしょ?」
「そうだね」
僕は妙に緊張してしまって、上手く言葉が出てこなかった。しばらくして、
「ねえ、また会えるかな」
と尋ねた。
「うん。じゃあ、次の日曜日、わたしお休みだから、どこかに遊びに行かない?」
「いいね。来週の日曜日だね。夕方でいいかな。そう。じゃあ、僕はそこの公園で待ってるよ」
僕は笑うと、猫の娘は恥ずかしそうにうつむいた。なんて可愛いんだ。
その時、目の前に一人の人間が立っているのが見えた。その人は僕のほうを見ながらのそりのそりと歩いてきたので、僕は緊張して、ぎこちなく彼に背を向けた。彼は、受付に向かうと、
「今日は何の映画をやっていますか」
と尋ねた。