月に願いを
クララにひどいことをしてしまった。
殿下がいるだろう執務室へ続く廊下を歩きながら、僕は自分の行動の愚かさに辟易していた。
あれは暴力だ。クララはなにも悪くない。彼女をあんな風に追い詰めてはダメだ。
罰するためだけのキス。あんなことをして、嫌われこそすれ、好かれることはない。
僕は最低だ。
昔からずっと、クララは自分のものだと思ってきた。それなのに、市場で再会したとき、可愛い妹分だったクララは、すっかり大人になっていて、僕はらしくもなく戸惑った。
しばらく見ない間に、驚くほど綺麗になったあいつに、僕は不思議な執着を感じていた。
そして、それが恋だと気がつくのに、そんなに時間はかからなかった。
執務室に戻ると、ドアが空いたままになっていた。殿下は書簡を握りしめたまま、なにか考えごとをしているようだ。
殿下は、アレクは、いいやつだ。
公平無私な人柄、穏やかな気性、人を従える統率力、神に祝福されたような美貌も魅力だろう。
たとえ仮そめの恋の相手であったとしても、こいつに愛されて、幸せを感じない女などいない。
それでも、どうしても譲れないものがある。クララだけはダメなんだ。
殿下は入り口に控えていた僕に気がつくと、書簡を持ってこちらに来た。
そして感情のない声で言った。
「宰相殿からだ。お前も支度を」
「はい」
僕は書簡を受け取り、父の筆跡を眺めた。
やはり、隣国の王女が来訪する旨が記されていた。かねてから協議されていた、殿下との婚姻による同盟のためだ。
僕はそれを腕に抱え、執務室を辞そうとした。だが、僕の横をすり抜けて先に退出したのは、殿下だった。
パーティーのことはなにも触れずに。
殿下のその余裕が逆に腹立たしかった。
とにかく、これだけは言っておかなくてはいけない。クララは愛妾になれるような子じゃない。戯れで手折っていい花じゃないんだ!
もしもそんなことになったら、あの笑顔はもう見れなくなってしまう。
すぐではないかもしれないけれど、正妃から寵を盗む罪悪感で、いつか確実にあいつは自分を壊す。
そういうやつなんだ。
僕はそのまま、殿下の私室へと足を運んだ。そして今度はピッタリと閉じられたドアを軽くノックした。
「入れ」
殿下は僕が来るとは思わなかったのかもしれない。一瞬だけ意外そうな目をしたが、すぐに普段のポーカーフェイスを作った。
「どうした。何かあったか」
「クララをからかわないでください。あいつはまだ子供だ。夢と現実の区別がない」
僕は単刀直入に言った。殿下に対しても、あいつに対しても、誠実であるべきだと思った。誰でもなく僕自身のために。
そうじゃないと、僕はきっと後悔する。
「どういう意味だ」
「こういう意味です」
僕は殿下の目の前に書簡をかかげて見せた。
「隣国の王女は、殿下との婚姻同盟のために来る。クララに馬鹿な夢を抱かせないでほしい」
「彼女の夢は、お前が決めることじゃないだろう」
殿下は静かな声で言ったが、それにはわずかな怒気が含まれていた。
それでも、殿下はそれを見事に隠した。冷静な態度を崩さずに、個人の感情制御して。
だから僕は、いつもこいつに負けた気分になる。絶対に勝てない。
「それでは殿下は、あいつの夢を叶えてやれるとでも?『お姫様は王子様と結婚して末永く幸せに暮らしました。めでたしめでたし』って? そんなものは幻想だ。これが現実でしょう!」
僕はもう一度、書簡を掲げたが、殿下はもう何も言わなかった。
「たとえ殿下であっても、あいつを傷つけるようなことは許さない。側近を辞すことになっても構わない。貴方にあいつは任せられない」
いつのまにか、カイルが後から僕の腕を掴んでいた。
「ローランド、言い過ぎだぞ。殿下、申し訳ありません。こいつは殿下と美しい許婚のダンスを見て、少し妬いているんです。王女との婚姻も近いことだし、今は女性のことでもめるのはいささか都合が悪いかと」
僕は、邪魔をするなとばかりカイルを睨んだが、急に、こいつに託してきたクララのことが心配になった。
あの後、クララは大丈夫だったのだろうか。
僕はカイルの手を払い、その場にひざまずいて頭を垂れた。
「申し訳ありません、殿下。臣下としてあるまじき振る舞いを。いかようにもご処分ください」
下をむいている僕には、殿下の表情を見ることはできなかった。
きっと、僕の子供っぽい行動にあきれていることだろう。
「いや、私こそすまなかった。クララが妹のように可愛らしくて、ついかまいたくなってしまったんだ。パートナーがいる令嬢にたいして、気安すぎる態度だったろう。この件は不問だ」
「寛大なご沙汰に感謝いたします」
殿下は大人だ。年齡は同じでも、精神的にはずっと大人だった。僕が敵う相手ではない。
それでも僕は逃げない。クララは絶対に渡さない。
「僕はクララを守りたい。あいつの笑顔を守るためなら、なんだってするつもりです」
殿下は黙って聞いていたが、もう十分だと言わんばかりに目を逸らした。
「もういいだろう。業務に戻ってくれ」
「承知しました」
そうして、僕は陛下の私室を辞した。
明日までにやることは山のようにあったが、今すぐクララに会いたかった。
クララの様子を聞こうにも、カイルは殿下の私室にとどまっていて、今は接触できない。
クララは泣いていなかっただろうか。怖がらせたことを謝りたい。
それで許してもらえるなら、僕の気持ちをきちんと伝えたい。
お前が好きだから、愛しているから、殿下に嫉妬したんだ……と。
だが、その願いは叶えられなかった。業務に戻った僕たちには、他のことに心も体も費やす余裕などなく、仕事に忙殺されてしまったから。
やがて夜が更け、朝方の一番冷え込む時間が来た。
3時をちょっと過ぎたところか、殿下は僕らを引き連れ、王女を迎えるために門へと向かった。
国王陛下が外交で不在のため、この国の代表として来賓を迎えるのは、第一王位継承者である王太子殿下の役目だった。
王女が乗っているとは思えないような、簡素で地味な馬車が到着し、僕たちは頭下げた。
もちろん、不意の襲撃に備えて、完全に跪くことはできない。
馬車のドアが開かれ、鈴を転がすような美しい声が聞こえた。
「おひさしぶりね!アレク。会いたかったわ!こんな時間にごめんなさいね」
頭をあげると、まるで月の女神アルテミスのような美しい女性が立っていた。
隣国のセシル王女は、殿下とは幼い頃から交流があったと聞いていた。
王女の天真爛漫な振る舞いと、それににこやかに対応する殿下は、誰が見ても似合いの婚約者だった。
二人が仲睦まじい恋人同士のような親密さで殿下の私室に消えていくと、我々はそれぞれの持ち場に戻った。
その道すがら、誰かが言った。
「あの様子じゃ、殿下も王女も昼までは出てこないな」
たぶんそうだろう。それを見越して昼までに仕事は分配してあった。
美しい婚約者殿との久しぶりの逢瀬だ。いくら時間があっても足りないだろうというのが、皆の意見だった。
だが、僕にはそれが解せなかった。
殿下はこれまで婚約にそれほど乗り気ではなく、むしろ先延ばしにしていた。
宰相である父の話では、セシル王女も特に殿下に関心があったということはない。
それなのに、まるで絵本の中の恋人たちのような振る舞いに、なにか、作為的な匂いがした。
殿下が求めているのは王女ではなくクララだと、僕がそう疑っているからだろうか。
しかし、その勘は外れていたようだった。僕は嫉妬のせいで、疑心暗鬼になっていたのかもしれない。
ずいぶんと日が高くなってから、相当疲れた様子で政務室に姿を現した殿下からは、月の女神のやわらかい残り香が漂っていた。
二人はすでにそう言う関係なのだと、誰もを納得させるかのように。そして、そうであって欲しいという、僕の願いに応えるように。