カイルのプロポーズ [クララの視点]
「ローランドのことは私に任せて」
ヘザーは私の耳元で、こっそりと囁いた。婚約者であるカイルの前で、ローランドの名を出すのを遠慮したのかもしれない。
それでも、その声には嬉しそうな響きがあった。
「王女様と殿下にも、きちんと伝えておくから。驚くと思うけど」
「うん」
「カイル様、クララをよろしくお願いします」
「こちらこそ。これからもクララと仲良くしていただければ、僕も嬉しいです」
紳士らしく頭を下げるカイルに、ヘザーも淑女の礼を取った。
ヘザーはますますきれいになった。もともと美人だったけれど、生き生きとした輝きが増している。
愛する人に愛されるというのは、こんなにも幸せなことなんだ。
それはもう、私には起こることのない変化。その幸せも知ることはない。
馬車から手を振るヘザーに手を振り返しながら、私はそっと隣に立つカイルを盗み見た。
いつものカイルなら、こんなふうに私の肩を抱いたりしない。でも、そんなカイルのおかけで、私はヘザーの前で立っていられた。
「大丈夫?」
ヘザーの馬車が見えなくなると、私は屋敷のほうへ戻ろうとした。足元がおぼつかずに、ふらつく私の腕を、カイルが掴んだ。
カイルは私の額に手を当てた。そして、すぐにその手は私の頬に回され、カイルはコトンと額を合わせてきた。
「やっぱり熱がある。顔が赤い」
そう言うと、カイルは私を、横抱きに抱き上げた。
「危ないから暴れないで」
「あの、だ、大丈夫だから。お、重いし、は、恥ずかしいので……」
私がそう言うと、カイルがほんの少しだけ微笑んだ。
「僕は君の婚約者なんだから、こういうことは別に恥ずかしくはないよ」
その言葉に反論しようと思ったのに、体が言うことを聞いてくれない。
具合が悪い。目が回って、吐き気がする。呼吸が苦しい。
でも、これは病気じゃない。だって、痛いのは頭でもお腹でもない。心臓だ。
たぶん、心が痛いんだ。胸が苦しいんだ。
ヘザーの前で、何でもないフリをするのは、本当はすごくきつかった。それでも、なんとか泣かずにやりおおせた。その緊張が解けたせいで、気が緩んだのかもしれない。
私はゆっくりと息を吸って、そのまま目を閉じた。
それから、どれくらいの時間が経ったのか。感覚的には、まだ夕方だろうか。外は薄暗くはなっているけれど、日はまだ落ちきっていなかった。
「お嬢様!クララ様!起きてください!」
聞き覚えのある声に、私は薄く目を開けた。
「マリエル?なんでここに?」
私の質問に答えることなく、マリエルは窓を開けて空気を入れ替えた。
私、どうして寝ていたんだろう。
「そういう自堕落な生活をしていると、婚約者様にも愛想尽かされますよっ」
マリエルはいつものように、私にブチブチと文句を言っていた。
「なんか、状況よく分かんない。あれ?なんで寝間着なの?ドレスどうしたっけ?」
私、どうしたんだっけ。ヘザーとお茶をして、その後に熱が出て。
マリエルが「やれやれ」と大きなため息をついた。そして、ようやく私の最初の質問に答えてくれた。
あの後、ヘザーは男爵家のタウンハウスに寄って、お父様に私の様子を知らせてくれたらしい。そして、マリエルをここへ送ってくれたのだった。
「で、こちらに到着したら、執事様にお熱を出したことを聞いて」
そうだった。熱のせいで、私は歩けなくなってしまったんだ。それをカイルが……。
なんども抱っこでベッドに運ばせるとか、私はカイルにどれだけ迷惑をかけているんだろう。
自分の醜態を思い出して、カーっと頬に血がのぼった。
それなのに、赤くなった私の姿は、マリエルの目には別の意味に映ってしまったらしい。
「お嬢様、やっぱりお熱ってそれだったんですね。それ、はっきり言って、知恵熱です!お子ちゃまお嬢様には刺激が強すぎたのかと」
私とカイルが相思相愛だと思わせることは、確かにヘザーの誤解を解くのに有益だった。
でも、マリエルすら全く疑っていないなんて、一体どうしてなんだろう。
マリエルは、カイルのことが気に入ったらしい。マリエルが来るまで、カイルが私にずっとついていてくれたというのも、彼女が絆された理由だった。
カイルはとても優しい人なので、きっと私を心配してくれたんだと思う。昨日から、私は泣いたり落ち込んだりして、みっともない姿ばかり見せていたから。
マリエルは、カイルの同情を、愛情だと勘違いしたんだ。
今も、カイルが当面必要だからと買ってくれた服を、マリエルは褒めちぎっている。
「今夜はこれにしましょう。カイル様が、お嬢様の具合が良くなったなら、一緒に晩餐をって」
それは、シンプルな紫のビロードのマーメイドドレスだった。
あまり着たことのない、大人びたドレス。カイルはどんな気持ちで、これを買ってくれたんだろう。
マリエルは、カイルが私の婚約者だと思っている。家の中でも婚約者のフリをしなちゃいけなくなったら、カイルもきっと気詰まりだと思う。
早いうちに訂正しておこう。大丈夫。マリエルなら秘密を守ってくれる。
「マリエル、あのね。えーと、婚約っていうのは、たぶん私に恥をかかせないようにっていう配慮であってね。あと、なんかヘザーが色々と誤解していたから、それに助け舟を……」
カイルは、私の嘘に乗ってくれただけ。あれ以上ローランドの話をしてほしくなくて、私は咄嗟に、カイルが好きだと言ってしまった。カイルはそれをフォローしてくれたんだ。
「ヘザー様の婚約のことは知ってますわ。あのローランド様が?と驚きましたけど」
マリエルも知っているなら、もうみんな知ってるんだ。私の胃がグッと重くなった。
もしかして、ローランドは、最初から私なんか好きじゃなかったのかもしれない。嫌われたんじゃなく、最初から愛されてなかったのなら、少しは気持ちが軽くなるのかな。
マリエルは私の様子をじっと見てから、思い切ったように先を続けた。
「でも、それより萌えたのは、それを知ったカイル様が、ローランド様を殴ったってことですわ」
「え?カイルがなんで、ローランドを?」
「ローランド様は、許嫁だったクララ様から、あっさりヘザー様に鞍替えなさったんですよ!カイル様としたら、そりゃ、お嬢様に対する誠意がないって怒るでしょうよ」
それはつまり、カイルは私のためにローランドを殴ってくれたってこと?
だから、マリエルはカイル贔屓だったんだ。
ローランドが私を嫌いになったのは、殿下の寵愛を受けたと思っているから。それを彼の心変わりだと思って、糾弾してくれたんだ。
私のせいで喧嘩を。そんなこと知らなかった。
マリエルは私のドレスの着付けをしながら、まだブリブリと鈍感だなんだと文句を言っている。
喧嘩のせいで、カイルが謹慎中だっていうのも、マリエルから聞かなければ気が付かなかった。
だって、私が家にいるときは、いつもカイルは出かけていたから。仕事をしているのだとばかり思っていた。
カイルに言わなくちゃ。ローランドは悪くないって。だから、こんな無茶なことは二度としないでって。
カイルはいつもいつも、私のために貧乏くじを引いている。
今回の婚約のことだってそうだ。そんな嘘が流れたら、カイルの縁談にも差し支えるのに。
これ以上、カイルに迷惑をかけちゃだめだ。カイルに事情を説明して、私は明日にでも領地へ引っ込もう。
そして、修道院へ入る準備を進めよう。もう誰の邪魔にもならないように。
私はそう決意した。
晩餐での料理は、とても美味しかった。テーブル・セッティングもすばらしく、いくつもの燭台に灯るロウソクの火が、柔らかく私たちを包んでくれた。
それでも、私はあまり食べられなかった。
王宮を出てから、食欲がわかないというものある。そして、ヘザーの婚約を知ってからは、夜もあまり眠れていない。
こんなときは、できれば一人でいたいのだけれど、この晩餐でカイルにきちんと伝えるべきことがあった。
そのミッションが終わらない限り、私はここを動けない。
デザートを食べ終わった頃、私はやっとカイルに話しかけることができた。
「あの、カイル。謹慎中だって聞いたんだけど。喧嘩したって……」
「未熟な人間なのを恥じてるよ。でも、相手に怪我はない」
「カイルは?怪我はしてないの?」
「ないよ。謹慎も明日までだし」
よかった。カイルもローランドも、怪我がないんだ。数日だけの謹慎なら、それほどの大事にはなっていないのかもしれない。
「謹慎中なのに、家にいなくてよかったの?」
「王宮への出入りを差し止められただけで、外出は問題ない」
「そうなの。よかった。今日はどこに行ってたの?」
「預けていたものを取りに行ってたんだ。ヘザーが来たときに、家にいなくてすまない」
「わ、私こそ。勝手にヘザーを家に入れてしまってごめんなさい。その、あのときのことなんだけど……」
私がそう言うと、カイルはちょっと頷いて立ち上がった。そして、私をサロンへ移動するように促した。
カイルも私に、話したいことがあるんだと思った。
何から言えばいいだろう。領地に引っ込みたいということ?違うな。その前に婚約のことを訂正してもらわないと。
そんなことを考えながら暖炉の前に来たとき、急にカイルは私の前で片膝をつき、ゆっくりと私の右手を取った。
カイルの想定外の行動に、一瞬私の思考が停止した隙をついて、カイルがこう言った。
「クララ、僕と結婚してほしい」
頭が真っ白になった。結婚してほしいって言った?カイルが私にプロポーズしている。
「どうして、私と?」
カイルはいつも優しかったけれど、私を異性として好いているようには見えなかった。
どちらかというと、ローランドとの仲を応援してくれている感じだったのに。
「北方から君を守りたい。今それができるのは僕しかいない。王女にも頼まれている」
カイルの返答を聞いて、私はすべて納得した。
これは任務なんだ。王女様の命令では、私たちに決定権はない。
王女様と殿下の婚約を確固たるものにし、私が殿下の愛妾であるという猜疑を晴らす。
そのための偽装婚約。
「分かりました」
急なことで、私はうまく笑顔を作れなかった。カイルが婚約者らしく振る舞ってくれているのだから、私もそうしなくちゃいけないのに。
この役目がうまくこなせなかったらどうしようと、私は不安に思った。そんな私を安心させるように、カイル優しくこう言った。
「今すぐに結婚するわけじゃない。当面は婚約者になるだけだ」
「形式だけの婚約者……ということ?」
「そう思ってくれていいよ」
それを聞いて少しだけ安心した。情勢が落ち着いたら、修道院行きを実行しよう。
そうすれば、カイルを少しでも早くこの任務から解放できる。
「……よろしくお願いします」
これは国家への忠誠。貴族としての任務。私たちは駒としての役目を果たさなくてはならない。それが私たちを支えてくれる国民への義務だから。
私の答えを聞いて、カイルは少し申し訳なさそうに微笑んだ。
この婚約に私が異を唱えるようなことがあれば、カイルは自分が困ったはずだ。
それにもかかわらず、求婚の形を執ることで、私の気持ちを尊重してくれた。たとえそれがカイルの失態となっていたかもしれなくても。
カイルはそういう人だ。そんなカイルに迷惑をかけたくない。私は嬉しそうに見えるといいなと思いながら、なんとか笑顔を返した。
カイルはポケットから小箱を取り出して、私に渡してくれた。今日、引き取ってきたというそれは、見事な意匠を凝らした婚約指輪だった。
中心に金で丸く雌しべが細工され、それを銀の花弁が取り囲み、その周囲を花弁に見立てたガーネットを配置してあった。貴石を留める部分は銀細工で葉に見立てられ、花弁はそれぞれ五枚。
とても可愛い指輪だ。ガーネットは私の誕生石で、大好きな石だった。
「ありがとう。嬉しい」
私がそう言うと、カイルも嬉しそうだった。
カイルは私の薬指に婚約指輪をはめると、まるでそれが婚約者の義務であるかのように、自然に私に口付けをした。
婚約が解消できるようになるまでは、カイルの婚約者を立派に演じきってみせる。それが駒としての私の役目で、唯一、この国の役に立つことだから。
次第に深まっていくキスに応えて、私はカイルの首に腕を回した。せめて婚約期間だけは、誰よりもカイルを愛そうと思いながら。