殿下の想い人
殿下と王女様の婚約式は、明日に迫っていた。
王宮には準備のために、いろいろな業者が入っている。
それぞれの持ち場には専門の担当者がいるが、殿下の側近が定期的に見回ることで士気が上がる。
だが、この巡回の目的はそれだけではない。側近と円卓には極秘任務がある。
不穏な動きをするものがいないか、注意深く監視しているのだ。
「明日、会場で何かが起こる。暗殺者が潜入している可能性があるし、テロの危険性もないとは言い切れない。できるだけ警備を強化してほしい」
側近だけを執務室に集めて、殿下がそう言ったとき、その場の空気が張り詰めた。
予想はついていたものの、殿下から言われるということは、諜報機関からの確かな情報だろう。
つまり事が起こることが前提で、それを未然に防ぐ、または未遂に終わらせるという意味だ。
「招待客には女性もいます。今からでも、出席者を厳選し直すべきでは!」
何が起こったとしても、会場にいる者たちに危害が加わる可能性がある。それは至極真っ当な意見だった。
だが、殿下は申し訳なさそうに首を振った。
「こちらに情報が漏れていることが知れれば、敵は計画を変更してくる。そうなると、もう対策を取ることもできない。なんとか秘密裏に対処してほしい」
殿下の言うことも分かった。この情報を掴むために、おそらく多くの犠牲を払ったことは、容易に想像できる。
その犠牲を無駄にしないためにも、そして、さらに多くの民を巻き込まないためにも、この機会に徹底的に計画を潰さなくてはならない。
「標的は私だ。何があっても、私に狙いが定められるように誘導する。無関係なものたちを、敵の襲撃が私に向いている間に逃がしてほしい」
殿下は、自らを囮にすると宣言した。国でも最高峰の魔力を持つ殿下なら、多少の時間稼ぎはできる。
殿下のそばには、腕に覚えのある円卓の騎士も盾として警護に入る。避難の際の誘導には、訓練された近衛兵が当たる。
僕らは結局、殿下の案に賛成した。今は議論している暇はない。むしろ早急に決断して、それを実行するほうが理がある。
外部には全く知らせないままで、僕らは見えない敵と対峙することを選んだのだった。
会場となる中広間は、収容人数200人を超える。王宮のしきたりで、カップルでの参加になるため、その半数は女性だ。
なるべくパートナーから離れることがないよう、料理や飲み物はビュッフェではなく、トレイで給仕していく方法になる。
細かな変更はあるものの、会場の準備はちゃくちゃくと進められていた。
たくさんの生花が運び込まれ、シャンデリアは磨きあげられている。壁に貼られた鏡は、一点の曇りもなかった。
一番奥にある壇上には、国王と王妃など王族の玉座がある。
近い将来、殿下の子を抱いたクララがそこに座るかもしれない。
そう思うと、その場から逃げたい衝動に駆られた。僕はなんとか平静を保ち、ゆっくりと深呼吸をした。
今はまだ無理だが、いつかはクララの幸せを共に喜べる臣下となる。そして、生涯をかけてクララとその子の行く末を見守っていく。
それが、僕の幸せになっていく日が来る。それを信じて、今を一日ずつ生き抜いていくしかない。
「ローランド!探したわ」
ヘザーがよそ行きの一段高い声で、僕の名前を呼んだ。そして、淑女らしく右手を差し出すので、僕は少し屈んで、その甲にキスを落とした。
「我が愛しの婚約者殿には、本日もご機嫌うるわしく」
僕がわざと大げさに、敬愛表現を見せたので、ヘザーはできるだけ優雅に、微笑み返してきた。
もちろん僕にはそれが、きもい!かゆい!と鳥肌を立てているくせに、なんとか取り繕っている笑顔だとバレバレなのだが。
役者としては、やはり僕が上手だ。
「ちょっと出られる? 薔薇を見ながら、すこし話したいの」
かわいらしく、頬に人差し指をあててお願いしているが、どこでこんなアホっぽい仕草を仕込んできたのか。こいつなりに、演技の勉強をしているようだ。方向はずれているが。
「もちろん。喜んでご一緒しますよ」
僕はヘザーが取りやすいように、左腕を曲げた、ヘザーは当然のように、その腕に手をかけた。
お互いに「なんだこの茶番は」と思っているが、まあ、これが正しい婚約者のありかただろうというのは理解している。
広間からテラスに出ると、そのまま庭に続く石の階段を降りる。
温室までは、噴水のある庭園を横切るのだが、王宮の庭は、初冬の屋外であっても、魔法で気温が調節されていた。
僕らはわざとゆっくり歩きながら、にこやかな笑顔で話し続けた。
もちろん、話の内容は穏やかなものではなかったが。
「王女様から、お願いされたの。明日はあんたの側から離れないようにって。でもね、私はなんとかなると思うのよ。むしろ危ないのは」
「ああ、分かってる」
ヘザーが言うことは想像できた。狙われるのは王族とそれに準じるものだ。
クララは北方に目を付けられている。いや、殿下の子を宿している可能性を考えれば、確実に標的の一つになる。
「とにかく、私は殿下と共に王女様をお守りする方に回るわ。あんたは好きに動いていいからね。婚約者に変な義理立てしないでよ。そんなことで失敗したら、後で殺すから」
和やかに微笑みながら、ヘザーは物騒なことを言った。婚約者の自分ではなく、クララを守れと脅迫されたわけだが、これは彼女特有の気遣いだった。
「大丈夫なのか?お前になんかあったら、クララが俺を殺すぞ」
「クララに殺されるなら、本望でしょ?そのときは諦めて、私の後を追いなさい」
「そうだな。じゃ、来世で必ず、また結ばれような?」
僕らは、胸に広がる不安を押さえ込むように、わざと陽気に、冗談を言い合って笑った。
そうしているうちに、温室に到着した。外が適温に調節されているだけに、中に入るとほんの少しだけ熱を感じ、薔薇のよい香りが溢れていた。
そして、そこには意外な人物がいた。
温室の中心にあるバラ園で、殿下が薔薇を見ていた。
驚いてヘザーを見ると、ごめんねという目をしながら、スカートをちょっとつまんで、殿下に礼をとった。
そして、そのまま出口のほうへ引き返していってしまった。
「ローランド。薔薇を見立ててくれないか」
殿下は僕のほうを見ずに、そう言ってバラ園の中を歩き始めた。僕は急いでその後を追った。
何か話したいことがあって、殿下は僕を呼んだのだ。
「お前なら、自分の婚約者に、どの薔薇を贈る?彼女に似合う薔薇を、教えてくれないか」
ヘザーに似合う薔薇。彼女は白でも赤でもピンクでもない。もっと柔らかく温かい色のイメージだ。妹のような、姉のような、母のような。
僕は、花弁がクリーム色から尖端のオレンジへとグラデーションしている、香りのいい薔薇を選んだ。
殿下はそれを、鋏で一本刈り取ると、パキパキと棘を取ってから、僕に差し出した。
「これは、私からの婚約祝いだ。もらってほしい」
「ありがとうございます」
僕がそれを受け取ろうと手を伸ばしたとき、その腕を殿下がグッと掴んだ。僕は驚いて殿下を見た。
「殿下?どうされましたか」
「どうしても、今、言っておきたいことがある。クララのことだ」
「その件でしたら……」
「すまないが、黙って聞いてくれないか」
殿下の手に更に力が込められ、僕はかすかな痛みを感じた。殿下の真剣な目を前に、僕は黙って頷いた。
「シャザードが言うように、確かにクララは私の寝所に来たことはある。だが、それは間違いで起こってしまったことで、私とクララの間には、何もない。クララの名誉のために、それだけは信じてほしい。彼女は潔白だ」
それが嘘でないことは、僕にもある意味で確信できた。
殿下の側に仕えるようになって十年以上だが、その間に殿下が嘘をついたことはない。
殿下は嘘をつかない。嘘をつかなくてはいけないときは沈黙する。
幼馴染として育った僕には、それは容易に分かることだった。
「私は彼女を愛している。それも本当だ」
僕は黙って頷いた。そのことは知っていた。もうずいぶん前から。殿下はずっとクララを愛し続けていた。
そして、北方にそこを弱みとして突かれたのだ。あの襲撃は、愛妾だの側室だのという地位の問題ではなく、殿下の心をえぐるためだけの攻撃だった。
「私は自由に動ける立場ではない。明日はお前が、クララを守ってほしい。お前にしか頼めない。頼む」
殿下は、臣下の僕に頭を下げた。
この国の王位継承者である殿下が、クララの身を守ってほしいと懇願している。
これだけでも十分だ。殿下はクララを心から愛している。
「承知いたしました。私の命に代えましても、必ず彼女を、お守りいたします」
「ありがとう。どうかクララを頼む」
僕の返事を聞いて、殿下は安心したように僕の腕から手を離した。
そして、少しだけ間を置いてから、その場を立ち去った。
「婚約おめでとう。君たちの幸せを祈る」
殿下が最後に残していった言葉に、僕はなぜか無性に胸が詰まった。
僕たちのしていることは、本当に正しいのだろうか。これでよかったのだろうか。
それでも、今は迷っている暇はない。明日を乗り切る。それが今の僕らのすべてだった。