茜さすテラス [クララの視点]
「ちょっと、痛いよ。どうしたの?」
パーティー会場の中、私をずんずんと引っ張っていくローランドは、明らかに不機嫌だった。
掴まれた手首に、ローランドの指がくいこむ。ローランドの耳は真っ赤だ。
こういうときのこいつは怒っている。そういうのは子供の頃から見ていれば気がつく癖みたいなものだ。
普段は澄ましていて「エメラルドの貴公子」とか呼ばれているが、こいつは意外と怒りっぽいのだ。
「ねえ、ちょっと離してよ。殿下、出てったよ?ついていかなくていいの?」
「ちょっと黙ってろ!」
普段のローランドは口は悪いけど、声を荒げることはほとんどない。だから今は、かなり怒っているということだ。
私、何かしたっけ? ああ、そうか。パートナーのローランドを差し置いて、殿下とファーストダンスを踊ったから?
でもあれはアレク先輩との約束だったし、だいたい殿下の誘いを断るとか、臣下の私たちには無理だよね?
そもそも、ローランドが承諾したせいでもあるんだから、後で怒るくらいなら、あのとき止めてくれればよかったのに。
「ローランド、腕、痛いよ」
私は努めて穏やかな声を出した。
怒っているローランドはちょっと怖いけど、私が怖がっているのを知られると後が面倒だった。
こいつは後になって怒ったことを後悔して、くよくよ気にする性格なのだ。そうなると、落ち込んで手に負えなくなる。全く、子供か。
とにかく、ここは上手くなだめるに限る。
手首の締め付けが一瞬だけ緩んだ。少し冷静になったかなと思ったのに、私はテラスの奥の、会場からは死角になった壁に寄せられた。
片方の手首を顔の横の壁に押し付けられているので、自然とお互いの顔の位置は近くなった。
もちろん、身長差があるので、私は彼を見上げることになるのだが。
「少し黙ってくれないか」
ローランドの声は、無理に感情を抑えているみたいで苦しげだった。
いつもきれいにセットされている髪が乱れている。
私は掴まれていないほうの手で、ローランドの瞳にかかる柔らかい髪の毛を払ってあげようとした。
なのに、それはあっさり拒否されてしまった。
その手もローランドに掴まれて、壁に押し付けられてしまったから。
なんというか、この体勢はよろしくないと思う。壁ドンどころじゃなく、磔というだろうか?
両手が自由にならないというのは、胸のあたりが無防備で不安になる。
いくら幼馴染でも、男女は男女。体の中でも特定の場所の接触は避けたい。
そんなことを考えると、体がカーッと火照った。何を意識してるんだろう、私ってば恥ずかしすぎる!
ローランドが私の胸を触ったりするわけないのに!
「お前、王妃になりたいのか?」
はい?こんな状況で、何を言い出すんだ! 突拍子なさすぎる。なんて殿下とダンスを踊ると王妃に?
飛躍しすぎだよ!殿下とは、アレク先輩とは、約束していたダンスを一曲踊っただけでしょう?
「そんなわけないでしょ?何ばかなこと言ってるの?」
「は…」
ローランドは鼻で短く笑って、私の両手首を握る両手に力を込めた。
ますます私は逃げられなくなってしまった。何がローランドの気に触ったんだろう?
それにしても、あのちっちゃな弟分はいつのまにか、もう力では絶対にかなわないようになっていた。
もちろん、そんなことは知識では知っていたけど、こんな風に実感したことはなかった。ちょっとさみしい。
「殿下はお前がお気に入りみたいだな。嬉しいか」
「え?そりゃ、人に好かれて、嬉しくないわけはないけど…」
私は思ったことをそのまま口にした。人から好かれたら、普通に嬉しいと思う。
アレク先輩は本当にいい人で大好きだった。だから、好かれているのは嬉しい。
でも、それは殿下じゃなくて、アレク先輩の話。この二人は、私の中では別人。殿下には特別な感情はない。
なのに、その返答はローランドの勘に触ったようだ。吐き捨てられるようにこう言われた。
「だからお前は馬鹿なんだよ。ちょっとちやほやされていい気になって。自分の顔、鏡で見たことあんのかよ。殿下と一緒にいたら、どーみたって、美男と野猿だろうが!自覚あんのかよ」
ちょっと!いくらなんでも野猿っていうのはないでしょ?殿下のことはともかく、レディーを猿呼ばわりするとはひどすぎる!
こいつ、私に喧嘩売ってる。そう判断した私は、すかさず応戦することにした。普段からいつもそうしているように。
「はあ?自分がちょっとモテるからって、サル山のボスみたいに、いい気になっているのはそっちでしょ?あんたには関係ないじゃない!それとも何? 私が王妃になると、何か困ることあるの?」
売り言葉に買い言葉とはまさにこのことだった。
強まった両手首の縛りに、言い過ぎたと思った瞬間。まるでスローモーションのようにローランドの顔が近づいてきた。
さっきとは違って、その目には怒りではなく、もっと別の熱がこもっていた。
ローランドの行動は不可解なのに、なぜかその煌めくエメラルドの瞳に見入ってしまう。
いい匂いだな。綺麗な顔だな。混乱したまま硬直していると、私の口が彼の唇で荒々しく塞がれた。
私は驚いて離れようとしたけれど、両手首と唇で壁にガッチリと抑えつけられていて、身動きが取れない。
なにこれ。どうしたらいいの?
ローランド唇は容赦なく私の唇を噛むように包む。押し付けられる唇の熱さと、息ができない苦しさで、私の思考は停止してしまった。
あれだ。窒息死殺人未遂事件のときと同じ。まさか、このまま私は死んでしまう?
それはダメ!ローランドが殺人犯とか、それはダメ!
「やめて」
なんとかそれだけは言えたけれど、意識が途切れそうになった。その場にへたりこみそうになった私を、ローランドが両腕でささえたので、やっと唇が離れた。
これで息はできる!
それでも、私の両腕はローランドの厚い胸に閉じ込められている。ローランドを振り払うことはできなさそうだ。
さらに唇を重ねてくるローランドの顔は上気していて、体は炎のように熱くなっている。
これは、あれだろうか。怒りで我を忘れておるんじゃ、こうなったらもう誰も止められん……という感じ?
力では敵わないことを悟った私は、諦めて力を抜いた。
なんでこいつは怒るとキスするんだろう。まさか、今度の恋の相手は殿下……ということはないよね?
それはカイルよりももっとダメでしょ。見込みゼロでしょ。相手はノーマルなんだから!
殿下は閨で女子を喜ばそうと勉強頑張っている人なんだから!男子じゃなく!
とりあえず、冷静になろう。それには観察だ!
ローランドの伏せたまつげは長くて綺麗だ。普通の女子だったら、心臓バクバクで悶絶死決定だ!そう言えば、私もバクバクしてる。
ローランドの心臓なのか、自分の心臓なのか区別がつかないけれど、とにかく音は大きくなっていて、すごく速い。
これはドキドキ展開だ!もうパニックで他人事としか思えない!
それでも、さすがにもう無理だ。
いくら冷静に冷静にと思っても、こんなのはやっぱり無理。
ローランドは相当の場数を踏んでいるようだし、そんなやつのキスを、初心者が受け流せるはずがない。
このままだと溺れてしまう。
そう思ったとき、ふいにローランドが私を引き離した。長い情熱的なキスで、私はすっかり腰がくだけてしまい、その場にしゃがみこんだ。足がガクガクして、全く力が入らない。
腰が抜けるなんてこと、本当にあるんだ……。
ローランドはそのまま私のほうを見ずに、さっと踵を返した。
「殿下には婚約者がいる。早く諦めるんだな」
そう言うと、ローランドはそのまま会場のほうへ、スタスタと歩いていってしまった。
私はその場に座り込んだまま、何が起こったのかを冷静に考えようとした。
ローランドは私にキスをした。私に殿下を諦めさせるために? なぜって殿下には婚約者がいるから。婚約者がいる人を好きになっても、私が辛いだけだから。
じゃあ、ローランドは私のために?
いや、待て!そもそも私は殿下に恋をしているわけじゃないので、前提がおかしい。
ローランドは誤解しているんだ!人の話も聞かない、単なるバカだ!
自分の中でやっと結論が出たとき、誰がが近づいてくる足音が聞こえた。
そして、私の目の前に手が差し出された。
「平気か?」
私はその手を取ってなんとか立ち上がった。その人はカインだったから。
「ローランドは帰った。頭を冷やすべきだな。あんたも少し落ち着いたほうがいい」
「どうして、ここに?」
「殿下の命令。それとバリケード。痴話喧嘩はゴシップになるから、気をつけろよ」
そうか。会場から死角とはいえ、物陰でゴソゴソしていたら、それは色々とゴシップ的な要素満載だ。
カインはテラスの入り口で、さりげなく人を遠ざけてくれていたんだろう。
でも、どこから見られていたんだろう。元カレのキスなんて、しかも相手が女子なんて、見たくなかったよね。
それとも、もう過去の話?いや、むしろ、男じゃなくて女とキスしていたのは朗報かも?
いやいや、その相手が私っていうのは、なんか違うかもしれないけど。
とりあえず落ち着こうよ、私。
そう思って、私はカインが持ってきてくれたグラスの水を、一気に飲み干したのだった。