偽装婚約
「ローランド!ちょっと、ひどい顔よ。大丈夫?」
執務室へ続く廊下で、僕は聞き慣れた声に驚いて顔を上げた。
心配そうに僕の様子を伺っているのは、ヘザーだった。
「なんでここに。今日まで休暇だろう? それに戻ってきたりしたら」
殿下の側室に加えられると言いそうになり、僕はあわてて口を噤んだ。
今はクララを思い出すようなことは、一切思考から排除しておきたかった。
「ああ、うん。でも、あんた……と、クララが心配で」
「知っているのか?」
驚いて聞き返した僕に、ヘザーはちょっと肩をすくめて、そして僕にしか聞こえないように小声で言った。
「近隣の領地で、あんな大きな魔法戦があったら、そりゃね。うちからも隠蔽工作に魔術師を派遣したし」
知らなかった。僕たちを転移させた後、レイはシャザードと魔法戦を。
執務室には報告がなかったので、レイはうまく逃げおおせたと思っていたのに。
呆然と立ち尽くす僕の肩を、ヘザーはとんとんと叩いた。
「無事でよかったわ。それに人的な被害はなかったって。ただ果樹園は……。クララが残念がるわね。元に戻るまで、何年かかるか分からない」
「クララはもう、二度と来ないよ」
「どういうこと?クララは無事なの?一緒だったんじゃないの?」
そうだ。昨日の今頃、僕とクララはまだ一緒にいた。あれからまだ1日も経っていないなんて。
この先の日々は、一体どれだけ長いのか。絶望的な予感が走った。
「無事だよ。でも、クララはもう、僕らのクララじゃない。後宮に入ったんだ」
「は?何、言ってんの?意味、分からないんだけど」
「クララは殿下と結ばれた」
「はあ?」
ヘザーは全く令嬢らしくない、素っ頓狂な声を上げた。僕は「しっ」と彼女の口を手で抑えたが、ヘザーはその手を掴んで、ずんずんと空き部屋へと僕を引っ張っていった。
物置になっている部屋に誰もいないこと確認して、ヘザーは僕の手を離した。
「で、何でそういうことになってるわけ?」
ヘザーの目が据わっている。こういうときの彼女は怒っている。
昔から、たいていは僕とクララが無茶をしたときに、こういう目をして叱ってきた。僕らはこの目に見据えられるだけで、震え上がったものだった。
「何でと言われても。お前のほうが知ってるだろ。始終クララと一緒にいたんだから」
「だから聞いてるのよ。何でそんなことになってるの?ひどくない?クララは何て、言ってるのよ。教えなさいよ!」
「クララからは、何も聞いてない」
ヘザーから、グーのパンチが飛んできた。いつものことで予想はしていたので、避けることもできた。
でも今日は、僕が殴られたい気分だった。
ヘザーは僕を思いっきり殴った後、ハアハアと息を切らしていた。
「本人に確かめずに、噂で判断したってこと?最低ね!その程度だったわけ?」
僕は、殴られた頬をさすりながら、黙っていた。
いくら相手はヘザーとは言え、僕の口からクララのプライベートを、色々と話すことはできない。
第一、殿下にも関わることなのだ。余計なことは言えない。
「俺とクララの間には、何もない。今までもこれからも」
ヘザーは、深い溜息をついて僕を睨んだが、僕はこの態度を突き通すしかない。クララの未来のために。
そんな僕に向かって、ヘザーは冷水のような声で言った。
「予想以上のヘタレね。見損なったわ」
「もう用がないなら、これで行くよ」
これ以上は、話をしても無駄だ。僕はヘザーに背を向けて、ドアのほうへ向かった。
「待ちなさいよ。本当にクララのことを捨てるわけ?こんな簡単に?」
簡単だって?そんなわけないだろう。
こいつだって、昔から俺がどれだけクララを思っていたか知ってるはずだ!
「捨てたんじゃない!だから、僕たちはもともと何の関係もなかったんだ」
「許婚だったじゃない!」
「それは名目上だろ。正式な婚約でも何でもない」
「じゃ、もうあんたはクララが好きじゃないのね?」
何を馬鹿なことを。好きに決まっているだろうが!
この気持ちは、生涯変わることはない。たとえ、何が起こっても。クララが殿下のものであっても、それは僕の気持ちとは関係ない。
それでも、好きだと口にすることはできない。それは殿下への不敬だし、クララの耳に入れば、あいつのことだ、それを気に病むかもしれない。
「ああ。殿下の女になんて、興味ない」
ヘザーはそれを聞いて俯いた。肩が細かく震えている。もしかして泣いているのだろうか。
僕はヘザーの肩にそっと手を乗せて、様子をうかがった。
「あ、ははは。あ、そう。好きじゃないんだ。あー、そうなのね。あはははは」
驚いたことに、ヘザーは腹をかかえて笑っていた。こいつ、このタイミングでなぜ笑える?
昔から突拍子もない女だったが、さすがに僕も呆れてしまった。
だが、笑われるほうが同情されるよりもずっとよかった。僕もつられて笑った。
二人でひとしきり笑った後、僕らはやっと冷静になってきた。そして、唐突にヘザーが言った。
「ほんと、冗談きついわ!……ま、いいや。冗談ついでに、私と婚約してよ」
「は?」
こいつ、なんかネジが外れたか?どこからどうなったら、そういう話になるんだ?
理解の範疇外の提案に呆然とする僕を見て、ヘザーはやれやれいう感じで首を振った。
「あんたねえ。クララがあんたをボッチにしてどっかに行けるわけないでしょ?殿下だろうが誰だろうが、元婚約者もどきのあんたがフリーだったら、それこそ気になるでしょうが!クララの相手だって、あんたに嫉妬するかもしれない。嫉妬深いのは、あんただけじゃないのよ」
色々とひっかかる部分はあるが、言われてみればそうかもしれない。
クララには僕の気持ちはバレているはずだし、殿下にはきっちりと知られている。
僕の存在が二人の邪魔になってはいけない。それは僕の意に反することだ。
「それに私も助かるし。婚約者がいれば、後宮に入らなくて済むから」
ヘザーの言葉に驚いた。王女から侍女たちに、後宮入りを示唆する書簡がでているのは聞いた。
だが、クララを得た殿下が、他の女を愛妾になどするものか!
「その話は、消えたんじゃないか?」
「特にそういう通達は、来てないわね、残念なことに」
「でも、別にお前が入ることはないだろう。伯爵がそんなことを望むとは思えないが」
「兄はね。でも義姉の考えは違うのよ。もともと馬が合わない小姑を追い出す、いい機会だと思ってる。恋人も婚約者もいないのに、殿下の後宮入りの話を蹴って王女様の秘書になるのは、外聞が悪いんですって」
僕は伯爵夫人を思い出した。公爵家から嫁いだ、美しいが非常に気が強い女性だ。
確かにヘザーとは衝突するとは思えるが、それは近親憎悪というやつではないのか?
「それは大変だな。だけど、そんなことで結婚を決めていいのか?」
「誰があんたと結婚するって言った?」
「お前さっき婚約したいって」
「だから、婚約だけ。偽装婚約!」
「偽装?」
今度はヘザーが、僕の口に手を当てて「しっ」という番だった。
「そうよ、お互いに運命の相手が見つかるまでの偽装!私は別に一生結婚しなくてもいいし、あんたにそういう人ができたらさっさと婚約解消してあげるわよ」
「おまえ、ほんっと昔から全然変わんねえな」
ニカっと男前に笑うヘザーを見て、なんだか僕もおかしくなってきた。
いいじゃないか。おもしろいじゃないか。乗ってやろう。
「わかった。その話乗るよ」
子供の頃によくしたように「ディール?」「ディール!」と言い合って握手をした。
契約成立だ!まさに悪戯計画を立てたときのノリだった。
「あー、助かった。私、早速、王女様に知らせてくるわ!あんたも、安物でいいから婚約指輪買ってきてね!」
「婚約指輪か」
そういえば、クララに渡すはずだった指輪はなくしてしまった。だが、さすがにあれを使い回すわけにはいかないだろうし、そんな気もなかった。
ただ、またあの店で買うのは、いくらなんでも憚れる。行きつけのベルダの店なら、適当なものがあるだろう。
「今日中に用意する。石は何がいい?」
ヘザーは「あら?」という顔をしたが、にっこりと微笑んで言った。
口を開かなきゃ、それなりに可愛い娘なのに、まったくもって残念だ。
「エメラルドじゃなければなんでもいいわ。あー、じゃ、ルビーでよろしく!」
「了解」
公爵家の象徴であるエメラルドを外してくるとは、やはり本気で偽装なんだなと僕は妙に納得した。
だが、これで僕も、諦めがつくかもしれない。ヘザーには悪いが、今はありがたくこの話を利用させてもらおう。
とにかく、クララからできるだけ離れなくてはいけないのだから。心理的にも物理的にも。
ヘザーが部屋を出てから少し間をおいて、僕も執務室へ戻ることにした。
昨日から徹夜をしているので、今日はもう引き上げようと思っていたとき、カイルがこちらに歩いてくるのが見えた。
そして、カイルが手に持っているジャケットを見て、僕はその場に凍りついた。
それは、僕が果樹園でクララに着せかけてやったものだったのだ。