本当の気持ち [クララの視点]
殿下に見送られて、私は王女様の部屋を出た。顔を上げると、通路の少し先にカイルが控えているのが見えた。
「クララ、幸せになってくれ」
「はい」
カイルのいる場所までは、5メートルかそこらだろう。殿下の視線には気がついていたけれど、私は振り返ることができなかった。
カイルのもとにたどり着き、白い毛皮のコートを着せかけてもらったとき、背後でドアが閉まる音が聞こえた。
私は立っていることに耐えきれなくなって、その場にしゃがみこもうとした。それを抱きとめて支えたのは、カイルだった。
殿下の抱擁とは違う、ただ触れて支えるだけの。私はその距離感にほっとした。
「大丈夫か」
「うん」
カイルに支えられて、私はゆっくりと歩きだした。前にもこんなことがあった気がする。
ああ、そうか、殿下の部屋に行ったあの夜だ。あのときも私をこうやって支えて、立たせてくれたんだっけ。
でもたぶん、もっと前にも、どこかでこういうことがあったような気がする。思い出せないけれど。
「いつもありがとう」
「気にしなくていい」
私は驚いてカイルを見た。数日前の礼儀正しいカイルとは打って変わって、まるで学園にいた頃のような言い方だったから。
「口調が、違う」
「専属護衛の任務は解かれた。主従関係じゃない」
「え?じゃあ、なんでここにいるの?」
カイルは少し間を置いてから、無表情で答えた。
「いては悪い?」
「そんなことはないけど、別の仕事があるんじゃないの?」
「ああ。王女の命で、お前のお守りだ」
「何それ。じゃ、特に今までと変わらないじゃない」
カインは呆れたような顔をして、私の頭をコツンと叩いた。
痛っ…私は頭を抱えた。
「話、聞いてた?専属騎士じゃなくなった。もう主従関係じゃない」
「じゃあ、どういう関係?」
「対等」
……対等。それを聞いて、私は少し笑ってしまった。
学園ではずっと、他人以上友達未満みたいな関係だった。私の味方だと言ってくれたけれど、仲良くしていたわけじゃない。
それなのに、騎士になったらいきなりご主人様扱いだったのだ。
そして、ここに来てやっと対等か。すごく長い道のりだ。
「少しは元気が出たか」
カイルは私のほうを見ずに、真っ直ぐ前を見て言った。
ああ、そっか。私を心配してくれたんだ。言い方はそっけないけれど、カイルは優しい人だ。
「うん」
私は黙ってカイルの後に続いた。
カイルと一緒にいるのは心地がいい。学園のときも、いつも思っていたけれど、ずっと昔からこうやって、後ろを歩いていたような気がする。
扉をあけて外へ出ると、そこは主に業者が使う西門へと続いていた。
雪はますます強くなっている。王女様の部屋で殿下と見た雪よりも、降り注ぐ雪はずっとずっと白かった。
深夜になってから、殿下は私のいる王女様の部屋を訪れた。王女様の采配で、私は殿下に別れの挨拶をしてから、王宮を去ることになっていたから。
その少し前から、外は雪が降り出していた。私は窓から景色が白く染まっていくのを見ながら、殿下が来るのを待っていたのだ。
「殿下、雪が降っているようです」
「初雪か」
殿下はそういって私の側に立って、窓の外を眺めた。
「寒くはない?」
「はい」
寒さを感じてはいなかったのに、なぜか手が少し震えてしまった。
「冷えているじゃないか」
殿下はそう言って、私の手を両手で包み込んだ。その手は温かくて、私は自分の手が冷えていたことを認めた。
たぶん、私は緊張していたんだ。
「違います!殿下の手が温かいんです。本当に寒くないんですよ」
慌てて言い訳をしたけれど、殿下はただ、優しく笑っただけだった。
「そうだね。とにかく暖炉の側へ行こうか」
殿下がそのまま手を引いてくれたので、私たちは暖炉の側へと移動した。
この時期によく飲まれるグリューワインが、暖炉の灯で暖められていて、甘いスパイスの香りがあたりを漂っていた。
「今日は、いや、もう昨日か。ひどい目に合ったね」
「いいえ、もう大丈夫です。それに、ちょっと怖かったけれど、ローランドとレイ様もいたし」
レイ様が助けてくれなかったら、ローランドは殺されていたかもしれない。
努めて明るく言ったつもりだったけれど、あのときの恐怖を思い出して、またすこ手が少し震えてしまった。
殿下は、私が凍えていると思ったのだろう。暖炉の前のソファーに私を座らせ、自分は床に膝をついた。
そして私の両手を取って、自分の首筋に当てた。
「殿下!それ、冷たいですよ!やめてください。殿下が冷えちゃう」
「私のことはいい。君に温まってほしいんだ」
殿下はいつも優しい。いつもいつも優しかった。身分差など気にせずに、甘やかしてくれた。
もしも彼が、殿下じゃなくて、アレク先輩のままだったら、私はこの人を愛していたかもしれない。
何も言わずに、ただ私の手を温め続ける殿下を見て、私はようやく気がついた。
殿下はいつも、私のためを思ってくれた。なによりも私のことを優先して。
それはたぶん、単なる後輩への親愛の気持ちではなく、もっと別のものだったんだ。
今頃になって気がつくなんて、私は本当に馬鹿だ。どれだけの期間、殿下はこうして思いを寄せてくれていたんだろうか。
それでも、もう殿下の気持ちに応えることはできない。私は自分が、ローランドを好きなことに気がついてしまったから。
「どうして泣くの?可愛い顔が台無しだよ」
殿下が私の手を離して、そう言うまで、私は自分が泣いていることに気が付かなかった。
殿下は私の隣に座って、優しく肩を抱き寄せてくれた。その肩に頭を乗せると、殿下の体の熱を直に感じた。
これは家族愛なんかじゃなかった。男性として伝えてくれる愛だったんだ。
そして、殿下は私の涙を吸い取るように、頬に優しくキスを落とした。あのときと、学園の丘の上と同じに。
これは事故チュー。
だから、殿下を突き放すことは、どうしてもできなかった。
そして、そのとき私は、殿下の部屋を訪ねた夜のことを思い出していた。
王女様の命とはいえ、私は何の自覚もなく、殿下の閨を訪ねた。殿下はどんな気持ちでそれを見て、そして追い返してくれたのか。
知らなかったでは済まされない。私は殿下の気持ちを弄んだんだ。
ローランドの誤解を解いてほしいなんて、もう殿下には頼めない。殿下の気持ちを知った今は。
今となっては、私の行動はローランドに誤解されて当たり前だったと分かるから。
殿下へのこの感情は、愛ではないと思う。それでも、私を求める殿下を、突き放すことができなかった。
どんなに止められても、私がローランドを求めてしまうように、殿下もどうしようもないんだと分かるから。
それが恋だということを、今はもう知ってしまったから。
やがて殿下は私から体を話して、私の顔をじっと見つめた。そして静かに目を閉じた。
「殿下?」
そう尋ねると、殿下は少し苦しそうな表情をみせて、そのまま立って暖炉の方へ行ってしまった。
私は、少しだけ乱れた服を正した。
「すまない。もう発つんだったな。雪が深くなる前に出たほうがいい」
殿下はこちらを見ずにそういった。
それでも、その後姿は深く傷ついていた。殿下は知っているんだ。私が、殿下の気持ちには応えられないということを。
「はい」
それ以外に、私が殿下に何を言えただろう。もうここにいてはいけない。殿下を苦しめるだけだ。
私はソファーから立ち上がり、外への通路に繋がるドアのほうへ歩いてった。
そして、ドアノブに手をかけたとき、後ろから殿下に抱きしめられた。
「そのままで聞いてくれ。二度と口には出さない。だから、聞いたら忘れてほしい」
「はい」
それは、本当は聞いてはいけないことだった。でも、そうする以外に、私には選択肢はなかった。
殿下は私の耳元で小さく言った。
「君を愛している。私が愛するのは、生涯君だけだ。何があっても」
殿下が首筋に口付けたので、思わず体が震えた。見なくても分かる。ローランドのつけてくれた印が、消されてしまった。
殿下は抱きしめる腕をほどくと、私の後ろから腕を伸ばして、そっとドアを開けた。
それが殿下との別れだった。
二度と交わることのない人との、永遠の決別。私たちはもう、先輩と後輩には二度と戻れなくなってしまった。
「学園、楽しかったね」
男爵家に向かう馬車の中で、私はつぶやいた。
ほんのちょっと前の話なのに、なんだかもう遠い昔のことのように思える。
この数週間で、あまりにいろいろなことがありすぎた。
「うん」
向かい合って座るカイルは窓の外の雪を見ながら、そっけない相づちを打った。
すっかり雪に包まれた世界で、私は学園の輝くような新緑の庭を思い出していた。