ローランドの誤解 [クララの視点]
私が目を覚ましたとき、ローランドはそこにはいなかった。
側の椅子で眠っていたのは、王女様だった。私の様子に気がついて、王女様は私に抱きつき、涙声で謝罪を繰り返していた。
そのときの私は、正直、何が起こったのか、よく理解できていなかったんだと思う。
ただ、心臓は早鐘のように鳴っていた。ローランドはどこ?怪我はない?
「ローランドは無事ですか?」
私はすぐに、王女様に尋ねた。王女様は微笑んで言ってくれた。
「もちろん、無事よ!無傷だったわよ!」
よかった!ローランドは無事なんだ!
安心すると同時に、あのときの恐怖がフラッシュバックした。
北方に襲われたとき、何よりもローランドを失うことが怖かった。身を貫くような恐怖で、体が震えたのを覚えている。
私の命よりも、ローランドの命のほうがずっと大切だった。
あの光景を思い出して、また体が少し震えた。私は大きく息を吸って、気持ちを落ち着けた。
北方と大きな政治摩擦があることは、私でも知っていた。でも、情勢がそんなに悪かったなんて、全然知らなかった。
そんなことも深く考えずに、うかうかと日々を過ごしていた自分が恥ずかしくなった。
でも今は、とにかくローランドに会いたい。無事な姿を見れば安心できる。
「ローランドには、政務に戻ってもらっているの。今はちょっと忙しくて、会えないと思うわ」
政務に戻れるほど元気なら、それでいい。
そう思うおうと努力したけれど、本当はやっぱり寂しい。そばにいて、あの笑顔を見せてほしかった。
『今日は泊まっていくよな』
果樹園で、ローランドはそう言った。
あのまま北方の襲撃がなければ、今、私と一緒にいるのは、王女様ではなくローランドだった。
そして私は、一晩中、ローランドに愛されるはずだった。そのつもりだった。
ローランドの温かい抱擁を思い出して、私は自分で自分の腕を抱きしめた。
王女様と二人で夜食を食べ、食後の紅茶を飲み終えたところで、王女様が言いにくそうに話を切り出した。
「私のせいでこんな目に合ったのに、こんなことは言いたくないんだけれど」
確かに、王女様の命で殿下の寝室に行くよう言われたときは、私もすごく驚いた。最初は冗談かと思ったくらいに。
でも、たとえ私が行ったところで、殿下とどうにかなるとは思えなかった。むしろ恥をかくだけだと。
殿下は王女様を愛していて、片時も側を離さないし、王女様も、いつも殿下にピッタリとくっついている。
それでも、政略結婚だとされている二人には、普通の恋人にはない不安や葛藤があるのかもれない。時には相手の気持ちを試したくなることも。
殿下が他の女を、きっぱりと拒絶するところを見れば、王女様の気が済むだろうと。あのときの私は、あまり深く考えずに、当て馬の役目を引き受けてしまった。
迂闊だったと思う。案の定、殿下には危機感がなさすぎると怒られたし、さっさと追い払われた。
殿下は私を、侍女にはふさわしくない軽薄な人間だと思ったはずだ。
私は自分のバカさ加減に、穴があったら入りたいほど恥ずかしかった。つい泣きべそをかいて、カイルに慰さめてもらったくらいだった。
王女様の気持ちを考えれば、むしろあんな命令に従うべきじゃなかった。殿下に直接、気持ちを確認するように諭すべきだった。そういことも、侍女という職務には含まれていたはずだ。
それにもかかわらず、王女様は自分のせいだと主張し続けた。
「あれは私が浅はかだったの。どこからどう情報が漏洩したのかは、調査中よ。でも事の真偽はどうあれ、あなたがここにいると、困ったことになるの」
それは、マリエルに聞いた書簡の件だった。
王女様の侍女が、側室候補だったということは、今はもう公然の事実となってしまった。
つまり、私がここ戻ったというだけで、もう愛妾だと思われてしまうということだった。
「みなに逃げ道を作ったつもりだったのよ。なのに、貴方だけ逆に追い込まれてしまった。私が愚かだったせいで。本当にごめんなさい」
王女様のせいじゃない。たまたま北方がつかんだ情報に間違いがあり、それで事件が発生した。
そして、その対応のために、こういうことになっただけなのだ。
むしろ、王女様が誘拐されるようなことにならなくてよかった。もしそんなことになっていたら、北方どころか隣国との関係も危なくなっていたのだから。
愛妾だと勘違いされたことは驚きだけれど、それで王女様の身の安全を確保できた。私の馬鹿な行動も、囮というか、敵の標的を逸らしたという意味では、そう悪い結果にはならなかった。
頭を下げる王女様に、私は急いで言った。
「そんな。謝ったりしないでください!あれは事実無根なのだし」
「事実無根ではないわ」
「は?それはどういう」
「アレクは、貴方を愛している。彼が愛しているのは、貴方だけよ。気がついていたでしょう?愛しているからこそ、アレクはあなたを危険に晒したくなくて、だから閨を拒んだのよ。こういうことが起こるって分かっていたから」
王女様の言っていることが理解できなかった。殿下が私を?そんなはずはない。王女様の勘違いだ。
そのとき私は、ローランドの言葉を思い出して、衝撃を受けた。
『頼む。僕のために、いや、国のために走ってくれ』
私はローランドのために走った。ただローランドを助けたくて。他のことなんて、どうでもよかった。ローランドが無事なら、それでよかった。
でも、あの言葉。ローランドはなぜ、国のためと言い換えたんだろう。
『お前、こんな目立つところにキスマークなんて付けてんじゃねえよ』
私はローランドが噛んだ首筋に手を当てた。
もしかして、この痣をローランドは殿下のキスマークだと誤解した?
じゃあ、ローランドは、私が殿下の愛妾だと思っている?私が好きなのは、自分じゃなくて殿下だと……。
『我が代表が所望するのは、お飾りの正妃ではなく、王太子ご寵愛の令嬢だ。閨に呼ばれたのは、そこにいる男爵令嬢のみ。王太子のただ一人の愛妾だ』
軍服の男がそう言ったとき、ローランドは私を見た。私はあのとき何を言った?
『私が奴らと行くわ。ローランドは王宮に知らせを』
あれはどう取れただろう。私が愛妾として囚われると宣言したように聞こえた?
まさか、うそでしょう?だって、あんな情報、事実無根なのに。
王女様はまだ何か言っていたけれど、私は自分の失敗に打ちのめされていた。もう何も聞けるような状態じゃない。
混乱して震える私のそばに王女様は跪いて、しっかりと私の手を握った。その手がとても温かくて、自分の手足が冷え切っていることに気がついた。
どうしよう。早くローランドに会って誤解を解かないと!だって、やっと分かったのに。
私はローランドが好き。大好き。誰よりも大事。ずっとそばにいたい。
王女様が私をそっと抱きしめたそのときまで、私は自分が泣いていることに気が付かなかった。
「すぐに王宮を出ます」
殿下の閨に行ったのは事実。そして、あのときにあったことは……何もなかったことは、私と殿下しか知らない。
そんな状況でここにいたら、私は殿下の愛妾と扱われてしまう。
たとえ間違いであっても、そうなったらローランドは、それでも私の潔白を信じてくれるだろうか。まだ私を、好きでいてくれるだろうか。
そんな自信はない。自信が持てない。
だって、私はローランドの気持ちを、何も聞いていない。自分の気持ちを、ローランドに伝えてもいない。
私たちの間には、なんの誓いも約束もない。
「どうしても婚姻同盟は必要なの。たくさんの命がかかっているのよ。もし失敗したら、アレクの治世どころか、国の存亡にも関わってくるの」
とにかく、私はここにいてはいけない。たとえ誤解であっても、愛妾なんていう婚約同盟の障害になるようなものは、存在してはいけないんだ。
「今からアレクがここに来るわ。最後にきちんと別れてほしいの」
私は黙って頷いた。
すべては誤解なのだ。殿下はきっと、ローランドの誤解を解いてくれる。最後にきちんと挨拶をして、そして王宮を去ろう。
まだきっと間に合う。あの果樹園から、私たちはまた始められる。
部屋から出ていく王女を見送りながら、私はその後ろ姿に頭を下げた。
私が侍女として王宮に戻ることは、もう二度とないと思いながら。