残された希望
「その姿は目立つ。こっちに来い」
暗い廊下で、僕の腕を掴んだのはカイルだった。
カイルは僕を近くの部屋に引き入れ、そこから隠し通路に導いた。
「お前の部屋にも続いている。怪我はしてないんだろう?」
「大丈夫だ」
「それにしては、顔色が悪いぞ。クララも無事だと聞いたが」
「無事だ」
カイルはそれ以上、何も聞かなかったが、何かを感じ取ってはいるようだった。
長い沈黙の末、先に口を開いたのはカイルだった。
「レイはどうだった?」
「北方の魔術師と、対峙したところまでしか分からない。そのまま転移魔法でここに飛ばされた。無事だといいが」
「北方の魔術師。シャザードか?」
「そうらしい。一人だけ軍服を着ていた」
カイルはまた押し黙った。詳しくは知らないが、カイルはレイとは旧知の仲だったようだ。
ほんのたまにだが、二人が話しているところを見かけて、僕はそう確信していた。
「すまなかった。こんなことに、レイを巻き込んでしまって」
「レイは北方を追ってたはずだ。巻き込まれたのは、むしろお前のほうだろう」
カイルは少しすまなそうな顔をして、そして少しだけ笑った。
「シャザードに襲われて無傷で帰ってくるなんて、実際には奇跡に近い。よくやったな」
僕は口の端をちょっと上げて頷いた。
こんな状況でも、慰めてくれる友がいるというのは、やはり嬉しいものだった。
「狙いは、クララか?」
「お前、知ってたのか?」
自分の声が、思った以上にきつく響いた。カイルは一瞬動きを止めたが、訝しげにこう言った。
「殿下がクララにご執心なのは、お前も知ってたろ?北方は手段を選ばないからな。クララに目をつけてもおかしくはない」
「ああ、ご寵愛の側室だからな」
僕はなるべく皮肉っぽく聞こえないように、努めて軽い口調で言った。
だが、カイルは僕の肩を掴んだ。
「誰がそんなことを言った?王女か?」
「いや、シャザードが」
「シャザード?やつが何と言った?」
「閨に呼ばれた、ただ一人の愛妾だ……と」
「お前、それを信じたのか?」
カイルは殿下と、全く同じ質問をした。
信じたのは、シャザードの言葉じゃない。クララの首筋に残った印と、その言葉を聞いて怯えた彼女の小さな姿だ。
だが、そんなことはカイルに言うべきことじゃない。
「せっかくのお前のアドバイスだったが、殿下に先を越されたよ」
無理におどけて言う僕を、カイルは黙って見つめていた。
そして、腕から手を離し、まるで吐き捨てるように言った。
「本気で言っているのか?クララが殿下と寝たと?」
「下品な言い方をするな!」
僕は思わず声を荒げ、カイルに殴りかかる寸前で、その動きを止めた。
そして、カイルが真っ直ぐに僕を見ているのに気がついた。
「すまない。俺は今、どうかしているんだ」
僕はカイルから目を逸らした。だが、カイルは「いや」と、少し首を振っただけだった。
「クララに確かめたのか」
「妾になるほど、殿下を愛しているのかと聞けっていうのか?愚問だろ」
「そうじゃなく」
「そんなもの!あのクララが、愛していない男に抱かれるわけないだろう」
「そんなことは、言われなくても分かってる! だから本人に聞けと言ってるんだ!」
カイルは、そう言って僕を睨みつけた。僕はその目に一瞬ひるんだ。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だろう」
「堂々巡りだな」
僕はそう答えた。聞いたところで、答えは分かっている。
あの印は殿下の所有欲だ。休暇中に虫がつかないように、わざと見える場所につけた。
男なら誰でもそうするだろう。僕のような不埒なものが、クララに近寄らないように。
「王女も、クララが閨へ行ったことを否定しなかった。話は決まりだ」
カイルは黙って聞いていたが、そのままゆっくりと歩きだした。僕も黙って、その後に続いた。
しばらくして、一つのドアの前でカイルが立ち止まった。
「ここからすぐに、お前の部屋にいける。この通路のことは国家機密だ。誰にも言うな」
「ああ、助かった」
僕はドアノブに手をかけようとした。そのとき、カイルがそれを手で遮った。
「俺は言ったよな。お前がいらないなら、俺がもらうって」
「ああ。だが、クララはもう……」
カイルは、心底呆れたように頭を振り、前髪をぐしゃっと掻きむしった。
「俺は、そんなことを聞いてるんじゃない。お前がもうクララはいらないかと聞いているんだ。いらないのか?」
僕は答えなかった。答えられなかった。
いらない……という一言で片付くのに、それを口に出すことはできなかった。だが、僕の沈黙を、カイルは肯定に取ったようだった。
「お前がそういう気なら、俺はもう遠慮はしない。クララは、俺がもらう」
「おい、殿下に聞かれたら」
僕が慌ててそう言うと、カイルは口の端を歪めるようにして笑った。
「この馬鹿が。付き合いきれない。後悔しても遅いからな」
カイルはドアを開けると、人気のないことを確認し、僕を送り出した。
そこは僕の部屋から少し離れたところにある部屋のドアだった。他の部屋とまったく同じ作りになっていたので、隠し通路につながっているとは思いもしなかった。
「もう行けよ」
「ああ」
ドアを締める直前に、カイルは僕にそっと耳打ちした。
「俺はクララの気持ちを尊重する。俺に惚れるなら奪う。いいな?」
馬鹿なことはやめろと言おうとしたが、その前にドアは閉じられてしまった。
そして、ドアはこちら側からは開かない仕組みになっていた。
僕はすぐに自分の部屋に入ると、内側からドアにもたれて、その場にしゃがみこんだ。手足が震えていた。
クララが無事でよかった。クララを守れてよかった。
太陽の光の元で見たクララは美しく、抱きしめた体は温かかった。
クララのことで頭がいっぱいになり、ついに僕は自分が泣いていることに気がついた。
僕は最愛の人を、永遠に失ってしまった。
あの卒業パーティーの日に、もし僕が彼女に愛を伝えていたら、あるいは違った今があったのかもしれない。
だが、それはもう仮定の話でしかない。そして、今の僕ができることは、クララが愛する人の元で、笑顔でいられるようにすることだ。
なんとしても、北方の脅威を取り除かなくてはならない。また今日のように、クララが危険に晒されるなど、あっていいことではない。
側にいて抱きしめることだけが、愛し続けることではない。僕は僕の愛し方を貫く。
そう思うと、こんなところでボヤボヤしているわけにはいかなかった。
執務室へ行こう。国の平和のために、いや、クララの幸せのために動けるということに、僕は一筋の光を見たような気がした。