殿下の愛妾
初心なクララには、どうやら展開が早すぎたようだ。
果樹園で、ブランケットの上で、僕に押し倒されたまま、クララは全く動けなくなっていた。
この顔から察するに、たぶん頭の中は「どうしたらいい?」とか、そこらへんを彷徨っていると思われる。
だが、体の反応ほうは意外と正直なので、僕を好きなのは確かだ……と思う、たぶん。
もう一押しで落ちる……はずなので、僕の愛情をはっきりと意識できるように、ダメ押しをした。
これを承諾すれば、クララはもう僕のものだ。
「今日は泊まっていくよな?」
それを聞いたクララは、さらにカーっと体を火照らせた。よし、これで決まりだ!
僕はクララの唇にキスをしようと、耳元から頭を離した。
その瞬間、僕は自分が見たものが信じられなかった。
クララ首筋には真新しいキスマークがあった。ピンクに上気した肌に、まるでピンクの薔薇の花びらのように落ちたそれを見たとき、僕はザーッと頭から血の気が引く音を聞いた。
待て、落ち着け。これは何かの間違いだ。
僕は起き上がり、クララのそばに座ったまま、片膝に自分の額をつけた。
そんな僕を行動を不審に思ったのか、固まっていたクララも上半身を起こした。
「ローランド?どうかしたの?」
僕はつとめて平静を装って、彼女の髪に手を伸ばすと、その髪を耳にかけた。
クララはそれでも状況がつかめないらしく、ただ心配そうにこちらを見るだけだった。
「お前、こんな目立つところに、キスマークなんて付けてんじゃねえよ。萎えた」
頼む。これはキスマークじゃない……と笑ってくれ!そうしたら、僕も、だよな……って笑ってやるから。
じゃないと、僕は自分を抑える自信がない。今すぐこいつを、めちゃくちゃにしてしまう。
僕の言葉に、クララはハッとしてキスマークを隠した。その動作に迷いなかった。
ああ、そうか。クララはそこについているのが何か、知ってたんだ。
そう思ったとき、僕の中で、何かが音を立てて壊れた気がした。
僕はクララの手首を乱暴につかむと、自分のほうに強く引き寄せた。
そして、クララの襟元を無理やり開いた。その拍子にワンピースのボタンが数個飛んだが、僕は構わずそのままクララの首筋に噛みつき、強く吸い付いた。キスマークに上書きするように。
驚きと痛みのせいだろう、クララが悲鳴をあげ、僕から体を離そうともがいた。だが、僕は構わずに続けた。
しばらくすると、クララからの抵抗が止んだ。僕は力が抜けたクララを支えながら、彼女の首筋から唇を離した。
そこには、もう髪の毛などでは隠しようがないほどはっきりと鬱血痕がついていた。
僕はクララを突き放して、そのまま立ち上がった。
そして嫉妬を抑えることができず、思うままにクララに暴言を吐いた。
「誰につけられたか知らないが、それを見たらそいつも驚くだろうな。他の男に上書きされた女なんて、もういらないんじゃねえ?」
それは、嫉妬と不安が爆発して、悪意を持って投げた言葉だった。
だが、僕はすぐに、それを後悔することになった。クララが泣いていたから。
呆然と立ち尽くす僕を見上げ、クララは声を絞り出すように言った。
「なんで」
クララの様子はひどかった。ドレスは芝生が擦れて緑の汁がつき、胸元までボタンがちぎれていた。
特に、耳元の内出血が酷く痛々しい。
僕はあわてて上着を脱いで、クララに着せかけた。そうして、クララを抱きかかえて起こそうとした。
ひどいことをしてごめん。そう謝ろうと。
そのとき、周囲から登り立つ殺気を感じ、僕はクララをかばって、咄嗟に身構えた。
「誰の手のものだ!名を名乗れ!」
三人、いや四人か。この気配はその辺のごろつきではない。訓練された兵士だ。
僕一人なら、なんとかなるかもしれないが、クララをかばいながらでは、戦うのは難しい。
金か僕が狙いならば、クララを先に逃がすのが得策だろう。
「欲しいものがあるならくれてやる!俺の命でもだ!だが、女には手を出すな」
クララは僕の背後で震えていた。僕の言葉を聞いて、僕の腕を掴んだ手に、更に力がこもった。
なんとしても、クララだけは逃さなくてはいけない。
僕は魔法で救援信号を飛ばした。近くに魔術師がいれば、加勢をしてもらえる可能性もある。
「残念だが、貴方のお命などいらない。そちらのご寵妃様をお渡し願おう」
僕たちの目の前に姿を表したのは一人だったが、一目でこの国のものではないことが分かった。
この軍服は北方のものだ。白昼堂々と軍服で敵国に乗り込むなど、正気の沙汰ではない。
「北方か。こんなところまでご苦労なことだ。だが、人違いのようだ。彼女はセシル王女ではない」
それなのに、軍服の男は無表情でこう言った。
「我が代表が所望するのは、お飾りの正妃ではなく、王太子ご寵愛の令嬢だ。閨に呼ばれたのは、そこにいる男爵令嬢のみ。王太子のただ一人の愛妾だ」
僕は耳を疑った。クララがなんだって?愛妾?
とっさにクララを振り返ると、彼女は真っ青になって震えていた。そうか、あのキスマークは殿下の。
「クララ、抜け道を覚えているだろう。合図をしたら全力で走れ。ここは僕が止める」
「だ、だめよ。私が奴らと行くわ。ローランドは王宮に知らせを。北方が領内に……」
こんな状況で、こんなことを言うのか。自分の身よりも、国家のことを優先すると。
殿下のために、死ぬ気なのか?
「頼む。僕のために、いや、国のために走ってくれ」
クララの返事を聞く前に、敵が一人、こちらに切りかかってきた。
僕はクララを突き飛ばし、その男の剣を躱し、鳩尾に拳を入れた。
「走れ!」
僕の声にビクッと体を震わせたクララは、そのまま後方へと走っていった。
それを目の端で確認しながら、僕は一人目の敵が落とした剣を拾った。だが、息をつく暇もなく、次の敵が切りかかってきた。
それを剣で制したとき、次の敵が突進してきた。僕は剣が刺さる一瞬前に体勢を変え、自分と剣の間に対峙していた敵を挟んだ。
敵の剣は、うまくもう一人の敵の腹にささった。
「よくも、私の部下を」
軍服の男が前方に手を伸ばし、僕だけを攻撃対象とした魔力を放った。
間に合わない!そう思ったとき、背後から強力な魔力が放たれたのを感じた。
「加勢する」
そう言って僕の前に立った男は、旅の魔道士のようだった。黒いマントについたフードに隠れて、顔は見えない。
持っている杖は一般の魔道士の杖だったが、放たれる魔力は強力で、一瞬で敵は一掃された。
地面に転がる兵士たちを、軍服の男が魔力を使って消した。
転移魔法を使うとは、この男はただ軍人ではない。名のある魔術師だ。
そして、その男の魔力を凌駕したこのマントの男も。
「こんなところに、高名な魔術師様がいるとは。どちらへ行かれるつもりか。よろしければ、私が代表の元へご案内しましょう」
軍服の男がそう言うと、マントの男は静かにこう答えた。
「私は旅の魔道士です。たまたまここを通りかかったら、こちらのご令嬢から助けを求められたので、加勢したまでのこと。それ以上の関わりはございません」
後ろを振り返ると、すぐそこには傷だらけのクララがいた。
抜け道の茨で切ったのか、体中に擦り傷だらけで、足からは血が出ていた。
「クララ!」
僕が駆け寄って抱きしめると、クララはそのまま気を失った。
倒れたクララを支える僕に、マントの男がささやいた。それは、聞き覚えのある声だった。
「王女の部屋に飛ばします。ここは私にまかせて」
「……レイ殿?」
僕はそう聞き返したが、それに返事はなかった。
彼は北方の魔術師と対峙したまま、彼は僕らに転移魔法を使ったのだった。