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その街の星川

作者: 小萩珈琲

 ランドセルを背負った黄色い帽子の少年が、頭の上で手を大きく振っていた。

もちろんそれは私に向けられたものではなく、大衆の、主に少年たちの心を躍らせる、公的な交通機関に向けられたものだということは自明である。

 

車窓の外を足早に抜けてゆく住宅街と、社会の喧騒から隔離された田園風景が、今まさに、先程の少年と同様に右から左へと流れてゆく。軌道レールの切れ目に差し掛かるたびに、カタンカタンと小刻みに揺られている我々は、さながらホカホカの小籠包の如く、ぎゅうぎゅうに詰まった人の体温によって大変おいしく蒸されているのである。試しにこの電車に乗り込んでみるといい、ナイスな体臭でむんむんであるから。


都内のゼネコン会社の設計グループに配属されて五年目となるが、ベテランぞろいの部署ではたかが五年というキャリアでは、まだまだ若手の枠を出られずにいる。最近では部署異動で我が部署から人が抜けては補填されず、遂にはどうにも手が回らず、ほとんどの課員が休日に出勤して、何とか業務をこなすという状況。「ここが踏ん張りどころ」と言う課長の言葉を信じて、ここ連日の激務に、部署一丸となって奮闘しているのである。ただ、倒れる者を踏み越えてゆく精神の持ち合わせていない平成の弱小青年日本代表の私は、大変疲弊しているのも事実で、この偕老同穴ともいえる硬い決意の、熱い土俵に立っていては、そのうち干からびてしまう未来は目に見えている。ただただ、今日のトゥドゥに従い、宵も耽る冷え切った帰り道を想像するだけで、黄土色のため息が出るのであった。


皆が手元の四角い情報媒体に夢中になっている異様な車内も今は見慣れてしまったが、私はそんな文明の悲しい結末に巻かれてしまわないように、車窓の外の景色を眺めてはのどかな風景に心を潤し、車内に垂れ下がる下品な週刊誌の広告に、目を向けては妙な嫌悪感を抱いていた。

顔も知らぬベテラン有名女優が舞台を抜け出し、そのまま行方不明になっていたり、国会議員が経費で不倫相手と旅行に行ったり、中学生間のいじめが原因で学生が不登校になったり。目まぐるしい速度で情報が更新されてゆく社会の喧騒から隔離されているのは、我々の方かもしれないと感じながら、やはりどこか違う世界の出来事のように眺めていた。


電車が止まった。空気の抜ける音と共にドアが開く。

肩の重なりが波のようにドアの方向へと流れる。その波の一部になり、私もドアの方へと流れて行こうとした。

だが、驚くことに足が全く動かない。ぶつかる肩共に舌打ちされながら、無力にも私は鉛のように重い足をぶら下げて、そこに立ち尽くすことしかできないのである。

ドアの向こうから吹き込む春の柔らかな風によって、外に向いている私の気持ちごと車内に押し返されるかのような気がした。

ああ、春の顔が見える。

ホーム越しの、ビルの合間に広がる青空と、少し強い生暖かい風が、蒸れた車内を循環する。

そうしているうちに車内のドアが閉まった。悪戯が見つかった子供の様な顔をした私が、閉まる窓に映っているのが見えたのであった。


        ○


 会社に電話しようにも私はずうっと電車に乗っていたので、やかましく振動する携帯電話を、電車内での通話はお控えしなければならないという当然の社会のルールの元、頑として無視し続けたのであった。無断欠勤は社会のルール違反ではないのかといった、葛藤も一瞬存在したが、都合の良い事に、電車の進む速さにはついて来られなかったのである。

 結局私がたどり着いたのは、千葉県の南にある無人駅であった。駅からは下り坂になっており、その先には白波が経つ海が広がっていた。

 このまま、どこか遠くに行って帰らないでみようか。とにかく、私は順風満帆の風薫るこの街に降り立った縁をないがしろにできない感情が芽生え始めている。


「星川」


 塗装が剥がれ、木目がむき出しになっている無人改札の外壁に彫られていた落書きを、おもむろに声に出して読んだ。潮風で錆びたのか、長い月日で汚れたのか分からない時刻表が、私の帰るべき時刻を圧倒的黙秘権により、頑なに情報の開示を拒んでいた。駅のロータリーにはぽつんと寂しく、これも錆びている自販機が電車の往来を迎えていた。

 電源を切ってすっかり静かになった携帯電話をポケットの上から撫でて、海辺の街を見下ろし、私は磯の香る坂道を下って行った。

 コンビニで発泡酒を買い、防波堤の上のベンチに腰を下ろした。

 世界が空になったように雲一つない青空の下で、ボーダーコリーと浜辺を散歩している年配の女性を眺めて、ちびちびと発泡酒を舐めた。


        ○


 オセロのコツは、隣接するマスに空きが少ない箇所を選ぶべしと心得た。しかし、それは勝つための必要条件であるが、十分条件ではないということは明白であろう。

ほら、分かっちゃいるけどまた負けた。


「おじさん、弱いね」


 そういう彼女は春子ちゃんである。オセロ的超絶技巧の持ち主であるが、本当に得意とするのは囲碁であるらしいから、本来であれば囲碁的超絶技巧の方を発揮したいはずである。春子ちゃんとはさっき知り合った。


「でも、コンビニに囲碁は売ってなかったからしょうがないね」


 シール状のオセロの駒をペタペタと盤から剥がしながら彼女は言った。くるくると巻かれた癖っ毛が潮風に漂って、杏子色の頬が見え隠れする。

 彼女は小学二年生であるから今頃学校に行っているはずである。でも、可愛そうな事にそんな気分ではないらしいのだ。何故、そんな気分ではないのか、それはとても悲しい理由なのだ。


 春子ちゃんは大変優しい子で、決して他人の悪口を言わず、人を貶めるようなことはしない。それゆえに誤解されることもしばしばであるらしいのだ。

 女の子は生まれた頃から女の子であるらしく、「○○ちゃんとは仲良くしちゃダメ」「春子ちゃんはどっちの味方なの」と女性特有の集団意識の悩みに苛まれているというのだ。けれども春子ちゃんは、誰の味方でもないその精神を貫くのであった。つまり、春子ちゃん自身、福蔵の無い態度でいることで意思を表明し続けた。


「それで、なんだか次は私の方が仲間外れになってきちゃって」

「なんと、それは理不尽だね」

「みんなでひそひそ私の事を話すのよ。八方美人って」

「よくそんな言葉知っているなあ」

「我慢できなくて、ひっぱたいてやったの」


 思わず、うむと声が出た。当然、彼女にも堪忍袋の緒があるわけで、緒があるからには必然的に切れるわけである。一見寡黙に自分の美学を貫き通したかに見えた彼女自身も、内なる心の主張の具現化の為に、


「ひっぱたく」という一つの手段に出たわけである。

「星川さん、あたしいけないことをしたのかな」

 彼女はそのビー玉の様に煌めく瞳でじいと私を見上げるのであった。

「星川さんは学校の先生なんでしょ」

「もちろん、私は大変偉い教師であるから、そういった相談はよく受けている」


 チーカマを煙草のように咥えて、今朝剃ったばかりの顎髭の剃り残しをチョリチョリと弄った。この場所に私と言う肉体と精神は存在しない、であるならば私の本心を呟いたとて全く問題ないのである。


「まず、ひっぱたくというのは、非常に良くない。うむ、教育上もよくない。頭を攻撃するのは良くないな」

 彼女は相槌こそ打たなかったが、小刻みに頷いて、時折唇をへの字に曲げて雛のように首を竦めるのであった。

「分かってるもん、暴力が良くないことは、やっぱり、どの大人も同じことを言うのね」

 そればかりは、私は早急に否定した。

「そうではないよ。私が言いたいのは、そういう輩には手を出すのではなく、足を出すべきだと言っているんだ。君はローキックと言うものを知っているか」


 彼女は首を横に振った。梅の花の様な甘酸っぱい髪の毛の香りが漂った。

 彼女の前に立ち、私はベンチ脇の、首を垂らした街灯の足元に、つむじ風の如く鋭いローキックをくらわした。ぎゃんと鳴る鉄の音と私の小さなうめき声が残った。


「これがローキックだ」

「それをやればいいの」

「うむ」


 弁慶の泣き所をすりすり、私はベンチに再び腰を下ろした。変わって彼女が立ち上がり「こう?」と右足を振り回した。勢い待って体が反転する。か弱き少女のヒノキの棒のような細い足では、虫も殺せない威力ではあるけれど、目の前の憎き敵をめがけて何度も足を振っていた。


「まだまだ力が足りないな、こうだ!」


 私は再び街灯にローキックをくらわした。ぎゃんと言う音と、鈍い私のうめき声が響いた。首を垂らす街灯はびくともせず、平然と私を見下ろしている。あと、なん十発非力なサラリーマンのローキックを打ち込もうとて、彼の顔色が橙色に変わるのは夜になってからであろうと思う。

 海から登ってくる潮風が、防潮堤に生える背の低い草花を優しく撫で上げた。はるか頭上を飛行機が飛んで行き、空に細い境界線を引いたのだった。


「砂浜をでっかく掘ろうか」

「掘ってどうするの」

 足を振るのに飽きた彼女が、飛行機の残していった白い雲を指で撫でた。

「いや、なんとなく言ってみただけ」


 私も白い雲を撫でてみた、雲の穂先に進むにしたがって淡く、空に溶けていた。今頃、会社にいる人たちは、「空に線を引いて利益になるかいな、そんな暇があるならば計算書を書け、図面を描け」とキーをせわしなく打っているのだと思う。


「あたし、学校行ってくる」


 お尻を両手で払い、ランドセルを背負った。中で教科書がぶつかる音がした。


「本当はあたし、いじめられてなんかいないの、全部嘘なの」


 満面の笑み、顔に明かりがついたかのように私に笑いかけた。


「今日は午前中家の手伝いで、休んでたの。私の家はこの近くで海苔を作っているのよ。学校に向かっている途中で、変なおじさんがいたから声かけてみただけ」


 あっけらかんというので、変なおじさんは非常に反応に困った。


「変な人には話しかけちゃだめだよ」


 変な人はそう注意せざるをえないのであった。それから、嘘をつかれていたことが妙に空しく感じたが、それは彼女が先制的に打ち明けただけの話であって、私も教師などではないし、星川というのは偽名である、という最後の打ち明けを手札に持っているのである。

 言ってしまおうと思った。君は僕を教師だと思ってからかったかもしれないが、そもそもが見当違いだと。この駆け引きは、この告白によって全く空しいものである、と。


「おじさんだって、先生じゃないんでしょう」


 彼女は既に階段を下りて、学校へ向かおうとしていた。途中振り返って、私にそう言った。栗色の髪の毛が潮風になびいていた。


「いや、私は正真正銘、学校の先生さ。ちょっと足が痛くて、今日は休んでいたんだ」


 私は脛を撫でてそう言った。

 彼女は笑い、手を大きく振って階段を下りて行った。そのまま、振り返ることなく、彼女は学校へと向かったのだと思う。


        ○


「いやあ、星川さんも負け組かい。いやあ、参ったねえ」と語るのは今しがた出会った男性で野口さんと言う。

「全くやられましたよ。今日はなんだか出そうな気がしたんですけどね」


 目の前にある横三列のボタンを、ちょんちょんちょんと押す振りをして我々は大いに笑い、乾杯した。

 私の事を「星川さん」と呼ぶ野口さんは、防潮堤の裏にある小さなパチンコ店から出てきた男性である。重そうな肩をぶら下げて、店から出てきた彼は、ベンチで一人酒を飲んでいる私を見つけて、「やってるね」と近寄ってきた。

 白髪交じりの短い口髭ををぼりぼりと掻いて、にかっと笑うと銀色に輝く前歯の一つがきらりと顔を出した。空いた缶を灰皿代わりにして、しわくちゃの煙草の箱から一本抜き取り、すうはあとため息をつくように煙を吐き出した。


「負けも負けると、かえって清々しいもんだ」

「全くですなあ」


 野口さんが買い足してくれた酒とつまみに、私はひたすら舌鼓を打った。特にハマグリのように大きく平たい貝の缶詰が大変美味で、私はその残り汁まで吸い尽くす勢いであった。残り汁もまた、品があり力強く、これであれば残り汁を水筒に入れて、会社に持参したいと考えた次第である。


「どうだい、いい息抜きになったかね」


 じりじりとしっかり根元の方まで煙草を堪能し、濃い紫煙を吐き出しながら野口さんは聞いた。


「ええ、とてもいい気分転換になりました」

「いやあ、ご立派だ。そんなに若いのに起業しているなんて。たまにはパチンコなんかで息抜きも必要だよな」


 そして乾杯する。

 野口さんは海から駅へと続く坂道を、ずうっと登った丘の上にある旅館の主人である。今は息子とその嫁が野口さんに変わって宿の経営の船頭に立ち、野口さん自身は事実上の引退となっている。


「この時期は客が集まらんで、暇なんですわ。ほれ」


 野口さんは防潮堤下を指さした。クロマツの防風林が連なる中に、一台の車が停まっている駐車場が浮かび上がっていた。クロマツの枝がさわさわと揺らいでいる。

 その駐車場に一人、細身の男がカラーコーンを二つ持ち歩いている。その傍らにはスケートボードが一つ、主を待つ犬のように転がっていた。


「あれが息子」

「ほう」


 息子さんは、カラーコーンを互い違いになるように重ね、スケートボードでそれを飛び越えようとしていた。


「あれを飛ぶと、何かいいことがあるのですかね」

「いや、残念ながら、俺にはさっぱりあの行動の意味が分からない」


 カコンと板がアスファルトにはじける音が響いては、カラーコーンが崩れ、彼は無邪気に転び、また積み上げ直して崩れる。試行回数を重ねても同じ結果になる実験を見ているように、あるいはテープを巻き戻しては、同じ映像を流しているように、退屈ではあるけれど、私はビールを飲みながら鑑賞し続けた。


「なんだか、見続けてしまいますな。成功する気がしないのだけれど」


 ここに座って、四十の男性のにわかに残った青春の残骸を見ているのは滑稽ではなく、むしろ一人の男として、羨ましさに似た感情がこみあげてくるので不思議である。大半の男性諸賢が学生時代に置いてきた、無我夢中の時間の中に彼はいるのだなあと、自分の首元のネクタイを不図眺めた。


「最近始めたみたいで、何に影響されてかしらないけど。もうおじさんなのに、子供だよ」


 野口さんは「困ったもんだ」と言うように、苦笑いをして煙草をふかした。まんざら困ってもいなさそうである。

 彼を見ながら、私と野口さんはパチンコの話をした。私は学生時代にやったっきりで、全くその辺の知識には疎いのだが、思い出しながら話すと「いやあ、その機種は懐かしいねえ」などと、かえって話に花が咲いた。

 ギャンブル親父と嘘つき男と、酒と潮風の豊かなハーモニーが辺りに香る頃、ついと音が途切れた。野口さんの息子が地面に伏している。


「おや、転んだかな」野口さんが上からのぞきこむ様に彼の様子を見た。

「今日の練習は終了ですね」私が言うと、野口さんは手をパタパタと振った。

「やめないと思うよ」


 野口さんの息子は立ち上がり、びっこひきながら再びカラーコーンを組み立て直した。遠くに転がって行ったスケートボードを、重そうな体で追いかけていく。顔の汗を袖で拭う時、微かに彼の口が動いた気がした。何を呟いたのかは定かではないが、とても寂しそうな表情が、その横顔の向こうに想像できてしまうのは、おそらく私の心情がそう映しているのだと思うのである。

 ウミネコが遠くで鳴いた気がした。

 彼は組み立てたカラーコーンに向かい、地面を二、三回蹴った。はた目から見て、決して上手ではないと分かるいで立ちで、徐々に体をかがませる。

 カコッと板をはじく音が聞こえると、組み立てたカラーコーンの手前を滑る彼の、思わずといった風の笑顔が遠目に見えるのであった。


        ○


 海の向こうから紺色の空が迫ってきて、橙色のほのかな温かさが、徐々に夜の冷気へと変わってきた頃、私は相変わらずベンチに座って、押し寄せてくる波の向こうを見ていた。


「私の娘がこの子の名前を決めたのよ。茶丸っていうの、ねえ、茶丸」


 お座りして、小刻みに舌を伸縮させる犬は笑っている様にも見える。赤毛のボーダーコリーである。そして、私の横に座っている可憐なおばさまは町田婦人である。

 彼女は大変雄弁で、私を見かけると「あらあらまあまあ」と口元を隠しながら、話しかけてきた。私は長幼の序ありと心得る人間であるから、彼女の話を聞いてはいたが、これが予想に反し興味深い話ばかりなので、ついつい聞き入ってしまい、宵の手前をこの場で迎えるに至っているのであった。

 今朝、電車のドアが目の前で閉まるのを見届けた時、さらにはこの街の無人改札を抜けた時、私はこの街から帰らない決心を、微かに胸にしまっていた。


「娘はね、私に似て大人しい子なのだけれど、旦那さんはとてもまじめな方でしたね。犬嫌いを私たちに隠していたの。無理して茶丸を撫でる頬には冷や汗をかいていてね」

「気を遣っていたのですね」

「そうなの、大変優しい方なのよ」


 脳内に投影される朝ドラ系の爽やか眼鏡男子が、茶丸を恐る恐る撫でている。茶丸はぶんぶんと尻尾を振って喜ぶのであろう。

 伏せの状態の茶丸を見た。頭をなでてやると、流し目でこちらを見るだけで、頭を上げたりこちらを向いたりはしなかったが、しっぽだけはフルフルと振れていた。

この正直者のかわゆいやつめ。


「星川さん、就職活動は順調ですか」

「まあ、ぼちぼちです」

「最近は転職活動が盛んに騒がれていますよね。私の頃はなかなか聞かない言葉でしたが」


 町田婦人の目じりの皺が寄るたびに、彼女が私の心を見ているような気がした。金木犀の香り漂う彼女の話声が、ふいに私を都会の喧騒から遠ざける。まるで他人の家の通気口から漂うシチューの香りを嗅いだ時の様な孤独感を感じたのであった。


「娘は夫の事を嫌う時期があったけれど、結局は夫の様な真面目な方と結婚したわ。ああ、この子は私の子ねと思ったわね」

「そうですか」

「だから、旦那さんが仕事を突然辞めた時はびっくりしたのよ」


 他人の事とは思えず、私も思わず驚いた。朝ドラ系爽やか眼鏡の彼が、突然仕事を辞めるなどにわかには信じがたい。

彼は、難関辛苦を嫁と共に乗り越え、毎日の営業で歩き回る靴の臭いは汗臭いけれども、それでも夜な夜な嫁が優しく振りかけるファブリーズによってなんとか、苦しく険しいサラリーマン人生を乗り越えるのである。ゆくゆくは一人息子と、家族でキャンプに行ったときに、アンドロメダまで見えてしまいそうな透き通る宇宙を見てこう言うのである。「母の様な素敵な人と出会いなさい」と。


「あら、大丈夫?」


 遠くの空をぼーっと眺める私の口元から、よだれが垂れ、町田婦人のハンカチがそっと拭ってくれた。


「すいません!」


 脳内連ドラを強制終了した私は、はっと気を取り戻した。


「なぜ、急に辞めてしまったのでしょう」


 私はそう聞かずにはいられなかった。


「さあ、私は聞かなかったから。でも、娘はあっけらかんとしていたわ。やっぱり私に似ているのね、何事もなかったかのように過ごしていたわ。無理にそうしようとしていたのかもしれないけれど。でも、それって大切なことだと思わない」

「大いに思います」

「そうでしょう」


 彼女は嬉しそうに、和紙を丸めたようにクシャりと笑った。茶丸のリードを持つ手をすりすりとさすっている。寒いのだろう。春になりつつも、夕方の風はまだ冷たい冬仕様である。潮風ならばなおさらだ。


「そろそろ、帰りましょうか。お寒いでしょう」


 すると彼女は「いえいえ、まだ話ましょうよ」と私を見つめるのであった。見つめる目の奥には宇宙があるのかと思うほど澄んでいて、力強かった。


「旦那さんは東京を出て、私の実家にいるわ。この近くの測量事務所で働いているの。毎日、夫と酒を飲んで楽しそうよ」

「犬嫌いは大丈夫なのですか」

「最近ではすっかり茶丸とも仲良しなのよ。今度は強がりじゃないみたい」


 茶丸が耳をピクリと動かした。


「夫は厳しい人で、昔はたくさんの人に誤解されている人だったわ。でも、私は彼の良さしか見えなかった。こういうのを、恋は盲目と言うのかしらね」

「いえ、それはむしろ真実こそ見えていたのかもしれませんよ」

「星川さんは優しい人ね」


 町田婦人の旦那さんは腰を悪くしていた。だから、犬の散歩の日課はいつしか彼女のものとなり、洗濯物を回し、たたむ日課は彼のものとなった。

 漁師の仕事を引退した後は、子供のころから好きだった映画や漫画にどっぷりとはまり、たまに夫婦で映画鑑賞に出かけるそうである。

 電灯が光った。と、思ったら消えた。何度か点いたり消えたり、弱弱しい白の光を点滅させながら、ゆっくりと光を安定させた。

 波音が強くなった気がして、ふいに足元を冷たい波が流れていくような感覚に襲われた。夜の海をまじまじと見ると、その奥に潜むものにじいっと見つめられている様で、私はなんとなく目をそらすのであった。


「おかしいわね。この街灯新しく建てたばかりなのに」


 接触の悪い街灯を見上げて、町田婦人は首をひねった。

 あたりは真っ暗ではなかったが、紺色の空はもう私たちの頭上まで迫っていた。


「星川さんは、どちらにお住まいなの」


 私はとっさに嘘が出てこず、「実は宿なしでして」と本当のことを言うのであった。宿なしの就活者などいるか、と自分で自分を叱咤したのである。この三流役者めと。


「であれば、私の家にいらっしゃいますか」


        ○


 さびれた時刻表には次の時間が霞んでいて、よく目を凝らして見れば、それは三十分後であった。

 坂道で火照った首元が、坂道を吹き上げる風に撫でられて心地よかった。線路をまたいでその先に、煙突が立っていて、柔らかな煙が昇っているのであった。

 海は真っ黒であった。空と海が溶け合って、ぐるぐると唸る怪物のようにこっちに登ろうと坂道に迫ってくるように見えた。


 私は携帯電話の電源を入れてみた。しばらく鬱陶しいほどのバイブレーションが続き、やっと収まった頃に、恐る恐るメールやら着信履歴やらを眺めてみるのであった。

 最後のメールは三十分ほど前の課長からのメールであった。久しく見る本当の自分の名前に不思議な気持ちになった。


「桑折様、お疲れ様です。元気?とりあえず、体調不良と言うことで課内には周知しておきました。事後でいいので、有給申請だけしといてください。それから、ゆっくり休んで、とにかくゆっくりとね。来られるようになったら連絡くれますか。よろしくお願いします」


 駅のホームには錆びた塗料缶に、薄く水を張った灰皿が備え付けられていた。

 私は野口さんから頂いた煙草をくわえてみた。「まあまあ、吸ってみなさいよ」と悪い高校生のように勧めてくるので一本だけもらったのだ。灰皿脇のマッチで火をつけた。酸っぱいような、甘ったるいような煙が、舌の上に残るような気がして、早々に灰皿に捨てた。

 町田婦人は去り際にこう言って笑っていた。


「時々、星川と名乗る方がこの街にやって来るのです。皆さん、この街の海と潮風に虜になってしまうのよ」


 昼間から海を見つめてベンチに座り、ビール片手にスーツ姿など、リストラされた風体にしか見えないではないか。であれば、いかにして私は嘘などついて、この身を偽れるのであろうか。

 きっと、今日出会った皆は本当の私の事を分かっていたのではないかと思うと、急に笑えてきた。

 駅の外壁に書かれた「星川」という文字を今一度見て、私はそっと撫でてみた。その場所だけ塗装が剥がれて、木目調の素地が見えてしまっている。

 やがて、一両編成の電車が到着した。


 私は乗り込み、座って対面の窓を見ると、そこにはいつもの私を濾したように、腑抜けた顔が写っていた。その顔が、まるで電車に手を振っていた小学生のように純粋無垢な姿に見えたのだ。


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