駅の断末魔
駅で聞こえた声の話。
急な予定で私は今、実家に向かっている。
普段なら残業しても、もう家に着いているが、今は違う。
私の実家は、私の勤め先から電車で二時間以上のところだ。もちろん私は一人暮らしだ。
更に言うなら、電車を乗り継いだ先の田舎の駅が私の実家の最寄り駅だ。
終点までは行かないが、遠く、寝過ごす恐れがあるところだ。
ガタンゴトン…ガタンゴトン…
心地いい揺れが仕事に疲れた私を眠りにいざなう。
なんて質の悪いものだろう…
私はそんなことを考え、眠気をどうにかしようと目の覚めることを考えようとした。
世間は華の金曜日といい、明日からの休日に色めき立ち夜更かしを許され、浮かれる色が強い中、私は残業だ。
月末だから仕方ないと思いながらも、恨めしく思うのは私が人間だからだろう。
色々とぐちぐちと言いたくなるが、自分と同じように残業している上司を見ている手前、何も言えない。
自発的に考えたことだが、とても気分のいいものではない。
久しぶりに帰る実家でくつろごうと思っていたのだから、せめていい気分で帰りたい。
色々な愚痴を頭に巡らせ目を開くと、終点近くなのか、電車に乗る人も少ない。
やはり眠い。
長時間のパソコン作業のせいで夜の寝つきは悪い。
しかし、このような、寝てはいけないときは恐ろしいほど直ぐに寝られるのはいかがなものだろう?
人間の欲求で睡眠欲というのはとても強いものだ。
私はそう思う。
そこまで考えた時、私は眠気に負けようと思った。
眠くて薄目になりながらも腕時計に目を向けた。
あと、一時間はある。
寝てもいいか…
周りの景色と電車の揺れ、音が徐々におぼろげになり、私はゆっくりと眠気に身をゆだねた。
とても心地よいものだった。
真っ暗なのに周りの明かりの気配があること、動いている者に乗り自分の身をゆだねている感覚。
そもそも私は何かに身をゆだねるのが好きな受け身人間だ。
「…てい…」
何か女性の声が聞こえる。
どこかで乗ったのだろう。
「…ちがう…き‥」
次に男性の声がする。
どうやら何か話しているようだ。
眠気が勝る私の頭にその会話はただの背景だった。
私は他人の足音に目くじらを立てるタイプでも、踏んだ石の形を記憶するタイプでもない。
ただの雑音に近い生活音だ。
彼等の会話は私の眠気を覚ますには力不足ということだ。
私は気にせずに眠り続けた。
変わらず意識の向こう側では男女の会話が聞こえる。
いや、もしかしたら夢なのかもしれない。
そう考えると、不思議と男女の会話がはっきりとしたt。
自分の見ている夢、幻の類…
途端に神秘的なものになった。
夢の世界に起きている、他人事。
少し無責任な気がする解釈だが、夢だから気にしない。
「…だから違うって…」
女が困ったように言った。
「向こうはそうは思っていないだろ。それに、男と遊ぶときは連絡をしろって言ってるだろ?」
男が少し声を荒げて言った。
どうやら痴話げんかのたぐいだ。
神秘的なものから格下げの様な気がした。
私は興味がそがれ、彼等の話を聞くのを止めた。
そうすると、やはり彼等の声は雑音だった。
少しの間だと思っていた。
『…○○谷―○○谷―』
私の降りる駅を告げるアナウンスが響いていた。
しばらく私は呆然としてそれを聞いていたが、ドアが閉まるような気配を感じると慌てて飛び起きて電車から飛び出した。
私が出ると、電車は直ぐに出発し、行ってしまった。
あの電車は終点まで行くのだろう。
降りられた安心から、私は夜の暗闇に進む電車を見送りながら感慨深く考えていた。
電車はまさに暗闇に溶けるように私の視界から消えた。
目で追えなくなると私は周りを見渡した。
久しぶりに降りた実家の最寄り駅は、記憶通りさびれていた。
私はその様子に懐かしさと寂しさ、そして夜の暗闇のせいで何ともいえない恐怖心を持っていた。
まるで何か出そうな改札の向こう。
私はそんな非現実的なことを考え、恐怖と同時にちょっとした好奇心を持った。
だが、現実は現実だ。
肩に下げたカバンから電話を取り出し、両親に駅に着いたことを連絡すると私は残額を気にしながらICカードを取り出した。
遠いから移動費もバカにならないな…
とまた愚痴っぽく考えていると…
「…ケテ…」
とか細い声が聞こえた。
私は声の儚さにドキリとしながらも声の元を振り向いた。
そこは先ほどまで電車があった場所だ。
どうやら線路の方から声がしているようだ。
「…タスケテ…ダレカ…」
確かに聞こえた。
女性の声だ。
私は全身の血が凍りそうになったが、恐怖以上の好奇心で足が自然と線路の方に進んだ。
「…コッチ…ダレカ…ダレカ…」
声は確かに聞こえる。
息遣いもわかる。
彼女が必死なのが分かる。
私は線路を覗き込んだ。
真っ暗で、何があるのか分からなかったが、何かが動いている気がした。
「誰かいますか?」
私は意を決して声をかけた。
その声を聞いたのか、女性の声は息を潜めるように止まった。
気のせい…で片付けるわけにはいかないが、何も答えなくなると自分の幻聴だと思ってしまう。
私は真っ暗な線路を見つめ、携帯電話のライト機能で見えないか…とカバンから携帯を取り出そうとした。
すると…
「タスケテタスケテタスケテハヤクハヤクハヤクハヤクハヤク」
女性の叫び声が響いて思わず手に持とうとした携帯をカバンの中にまた滑り落した。
そして、私はその声に腰を抜かし、線路の前に座り込んでしまった。
「ココヨココ!!オネガイ!!ハヤク!!」
彼女の声は私を求めていた。
その必死さが私は怖かった。
暗闇で姿が見えないからかわからないが、鬼気迫る声が、非現実…ではない。
あまりにも生々しくて目をそむけたくなるものだった。
声は駅の中に響いている。
私は周りを見渡そうとした。
「大丈夫ですか?」
誰かが私の肩を叩いた。
それに私は思わず悲鳴を上げそうになった。
だが、叩かれた手の温度を感じたのか叫び声は飲み込まれ、冷静に振り返ることができた。
「あの?」
私の肩を叩いたのは、人の好さそうな青年だった。
夏らしいTシャツとスラックスという井出立ちの清潔感のある、いわゆる普通の好青年だ。
「…あの…声が…」
私は先ほどから聞こえる声をどう言おうとかと思い線路の方を指した。
電車の降車する箇所から段差があり下が暗闇で見ない場所だ。
青年は首を傾げた。
彼は聞こえていないのか、気にする様子もない。
「オネガイタスケテオネガイ」
変わらず女性の声は響いている。
「あ…あの…」
私は女性の声の気迫に押されながらなんと言っていいのかわからず、青年を見上げた。
「何も聞こえませんよ。」
青年はやはり不思議そうに私を見た。
その言葉に私は寒気を覚えた。
その感覚の理由は分からないが、きっと私にしか聞こえない声と私に助けを求める声がこの世から離れていると思ったからだ。
いわゆる心霊体験だ。
私は気が付くと手が震えていた。
青年は私を心配そうに見て、ゆっくりと手を差し出し、腰が抜けてうまく立ち上がれない私の腰を軽く支えてくれて、とても親切だった。
そして、私を改札まで連れて行ってくれた。
「タスケテ…チガウ…オネガイ…」
女性の声は響いている。
私は目の前の自分の手を引く青年の背に縋る様に女性の声を振り払った。
「タスケテ…」
彼女の声は響いていた。
「ご飯できたよー」
朝、久しぶりに実家のフカフカの布団で寝ている私を起こす母の声が聞こえた。
私は布団に名残惜しさを覚えながらも、それこそ久しぶりに嗅ぐ実家のご飯の匂いにひかれて居間まで出てきた。
「体調は大丈夫?」
母は私を心配そうに見ている。
「…うん。」
私はすこしぎこちなく笑って言った。
昨日の夜、あの駅での出来事のあと、私はあの青年に送ってもらうような形でどうにか実家まで帰ったのだ。
「やっぱりお母さんに似て生理が重いのかな?」
母は私を見て何かを納得するように呟いた。
「え?」
その言葉に私は首を傾げた。
だが、母は私にご飯をよそい、お味噌汁の準備に入ってしまった。
私は母の言葉に引っかかりながらも何となくついているテレビを見た。
地元のニュースがやっている。
天気ときっと特産物の広告か何かか…
私はテレビを見つめ、母に手渡されたご飯をテーブルに置いた。
目が霞むと思ったら、顔を洗っていないことに気付いて私は洗面所に向かった。
家の廊下を歩いていると、やけに外が騒がしいと思い、顔を洗うとすぐに母にそのことを伝えた。
「あれ?知らなかった?…って当然か。」
母は何やらニュース番組をいくつか回し何かを探してた。
目的のニュースがやっていたのだろう。
母はチャンネルを回すのを止めた。
私は母に促されるままテレビを見た。
『○○谷駅で女性の刺殺体が発見されました。』
画面の向こうではキャスターがマイクに向かって言っていた。
「え?」
私はキャスターの言葉とその背景を見て何があったのか察し、何があったのかわからなくなった。
「怖いよねー。だって昨日丁度降りたでしょ?」
母は恐怖を表現するように身震いしていた。
だが、私はそれよりもニュースのほうにかぶりついた。
『昨夜男性と言い争う様子が見られ、その男性の身元を調査中とのことです。』
私は手が震えてお茶碗も箸も持てなくなり、膝に手を置いた。
昨夜のことが目まぐるしく頭を巡り、一つの疑問が浮かんだ。
「…お母さん。…どうして生理って?」
「だって、あなたの昨日の服、お尻のところに血が付いていたでしょ?」
母は何でもないことのように言った。
それを聞いた時、私はあの時の寒気を思い出した。
「何も聞こえませんよ。」
あの青年が言った言葉だ。