7 銀髪のエルフ① 美しい泉
―― ああっぁぁああぁっぁ……
優しい月明かりの下、崖から足を踏み外した旅人はそのまま下の川へと無様にも落ちて行った。
旅人はしばらく川を流されていたが、どうにか岸辺にたどり着く。這いつくばって陸に上がる。どうにか立ち上がると近くの岩までフラフラ歩いていく。そのまま覆いかぶさるようにして上半身をその岩に委ねた。
あぁ。なんだこれは。暖かくて柔らか……
旅人はそのまま気を失うように眠ってしまった。心地よい岩の上で寝言が口からこぼれる。それはその後も何度か続いた。
「そうだ。俺はエルフの郷へ――」
「エルフの郷へ――」
しばらくすると、旅人の寝床となった岩がもぞもぞと動き出した。暖かく気持ちのいい岩だと思って寝ていた物はなんと森のヤクの背中だったのだ。立ち上がったヤクは旅人を背に載せたまま、森の奥へとゆっくりと歩き始めた。
その夜、3人はそれぞれの場所で気持ちのいい寝床に就いて朝まで眠った。
※
夜が明け、背に旅人を載せたヤクはいつもの場所へと水を飲みに来た。
そこは岩場から湧き出る水がやさしい流れの滝となっている。下には泉があり、その水は数メートルの深さが分かるほどに透き通っていた。泉の周りは短い草の広場になっており、苔の生えた大きい気が一本すぐそばに生えていた。滝の流れる岩壁には洞窟がある。
泉には別のヤクや動物達も何頭か集まってきていた。彼らは単に水を飲みに来ただけではない。
動物が最も集まっているところには一人の女性が立っている。上質の生地で作られた青い布を纏い、細いベルトを腰に巻き中央より少し横で軽く結んで残りは膝近くまで垂らしていた。袖がなく、膝丈程度の服、そして大きいストールを肩に羽織っている。細く、長く、柔らかい髪は銀色をしていて、とても美しい女のエルフだった。そんな彼女は今、集まった皆から挨拶をされている。
「あはは。みんなおはよう」
動物たちは我先にと彼女のもとへと行く。顔を近づけ、体をこすりつけ、それぞれが自分なりの挨拶をする。嬉しそうに、くすぐったそうに挨拶を返す彼女。ふと一頭だけ少し距離をとったヤクに気づいた。
「あははは。もう。わかったから。はい。みんな、ありがとう」
そのヤクに近づくと、背に載った荷物に気が付いた。彼女は一瞬たじろぐと、恐る恐る顔を近づけ観察をする。足元に居た小さなサルが棒を持ってきたのに気づき受け取ると、ヤクの背に乗った旅人の体を優しく突いた。反応がないのを確認をするとあることに気が付いた。
「人間だわ」
彼女はストールを握りしめ胸に手を当て、周囲をキョロキョロ見回すと大きめの木の後ろへと走っていく。しかし途中で「あ」と言ってヤクの元へと引き返してきた。
「ごめんね。そうよね。今、降ろしてあげるから。ん――」
女はヤクの背から旅人を降ろそうとしたが、自分の力では難しかった。周囲を見回しある人物を探す。
「あの子は来てるかしら」
するとちょうど、ゆっくりとやってきた大きな熊が木々の間から出てきて水を飲み始めようとしていた。女は走って熊のところまで行く。
「おはよう! いきなりで悪いんだけど手伝ってもらえるかしら?」
前足をついて水を飲んでいた熊は、近づいてきた女に首をあげ抱き着く場所を提供する。
二人は挨拶を交わすと、ヤクの背に載った旅人の元へとやって来た。
熊に旅人を運んでくるように頼んだ女は、座らせるのに手頃そうな場所がないかとあたりを見回す。
「あそこがいいかしら。うん。あそこにしましょう」
旅人の服の背筋あたりを口で銜えて運ぶ熊。旅人はだらんと垂れ下がった状態で引きずられている。その先で彼女が両手を上下に動かして「ここ!」と合図していた。
「ゆっくりよ。そう。ゆっくり。やさしくね。ありがとう。助かったわ」
旅人を泉の傍の苔の生えた大きい木の根に沿って座らせる。他の動物たちも集まっていた。旅人を運んだヤクの首をなでながら抱きつく。
「ありがとう。優しい子。この人をここまで運んでくれたのね。
さぁ、みんな、戻って。ここへはしばらく近づいてはダメよ。
あ。そうそう、貴方たちはもう少し手伝ってね。
うふふ。そうね! 少しだけ分けてもらえる?」
泉に集まっていた大きい動物はそれぞれの道で森の中へと帰っていった。小さい動物は彼女に頼まれて木の実や果物を採りにいく。熊だけはその場にとどまった。
「あら、この人けがをしているわ。今できるのは応急処置だけね。でも、連れていくこともできないし……」
熊が一度吠えて返す。
「しっ! もう。起きちゃうじゃない。あなたはここへ座ってくれるかしら? お願い」
嫌そうにしながらも、熊は旅人のすぐ横に人間みたいに腰を下ろして座る。女は旅人の服をどうにか脱がし、体にできたあざを確認する。肋骨が何本か折れているのに気づいた。
「まぁ、やっぱり! すごいケガ。何があったのかしら」
そう言いながら、彼女は旅人の体に手を当てると、そこからは綿のような小さい淡い光の玉が出てはすぐに消える。すると丁度、旅人が目を覚ました。
「ん……君は一体?」
まだ寝ぼけて目が開かない旅人の眼前には毛むくじゃらの顔があった。顔を一回舐められると、おぼろげながら森に落ちたことを思い出した。開けようとしても、瞼がそれについてこない状態で、やっと焦点があい視界に入ってきたものに驚きを隠せなかった。
「ん? うわああ! ク――!」
彼女は準備していた魔法で旅人を眠らせた。
「あぶなかったわね。今の聞いた? あれが人間の言葉なのかしら? 何か叫ぼうとしてたわね」
ちょうど、食べ物を採ってくるように頼んでいた子たちが戻ってきた。皆が彼女の足元へそれぞれの成果を置いていき、そのまま森へと戻っていった。
「これでよし。まぁ、すごいクサいのね、この服。嗅いでみて? ね? 新しい物を用意してあげましょう! それまではこれで我慢してね。貴方もその人を見ておいてちょうだい」
彼女は旅人の服を一生懸命脱がした。太い引き締まった腕。鍛えられた体。大きい背中。元からついていた傷も多く、そんな彼の体を見ていると心配な気持ちと胸の奥に熱い何かを感じる。旅人が色々な態勢にし服を脱がし終わると持っていた大判の布を旅人にかぶせ、彼女は嬉しそうにそのままどこかへ行ってしまった。
残された旅人と熊は、泉のそばの木でしばし過ごした。