41 高原② 咆哮
おばあさんと先に階段の脇を通り、一階の奥の部屋へと行ったエレノアが悲鳴を上げていた。クレアは驚いて、すぐに駆け付ける。
「エレノア!?」
奥へと走っていったクレアが見たのは、入口に立つおばあさんと、叫び続けるエレノアだった。
「いいーーーっやほおぉーーーー!!」
案内された部屋はこの家の風呂場だった。中には白い浴槽が二つ置いてあるだけの簡素なもの。
「見て! 見てみて!! クレア! お風呂だよ!」
久しぶりに見るお風呂の浴槽を見て喜ぶエレノア。無理もない。野宿が続き、川や泉での水浴に、村の宿では浴槽がないことがしばしば。
「あはは。びっくりしちゃった。エレノアってば、いきなり叫ぶんだもん」
「あはははは。だってこれを見てごらん……ありゃ」
部屋の窓を開けたエレノアが言葉を詰まらせていた。外から太陽の光がしっかりと入っくると、薄暗かった風呂場の床のタイルが輝いて見えた。同時に浴槽が少し汚れていることにも気が付く……
「はっはっは。手伝ってくれるって言うんなら、このお風呂を綺麗にしてもらえるかな? もう腰がいたくってね。掃除が終わったら、薪は外にあるから。お湯を二つに張っておいてくれるかな? 一つは浸かる用。もう一つは洗うのに使うやつだよ。沸かしたお湯は、そこを捻ると出るからね。今は水が出るから、掃除するのに使うといいよ」
「はい、おばあさん。まかせて!」
「おばあちゃん、まかせておくれ! あたしとクレアがしっかりとキレイにするからさ!」
それを聞いたおばあさんが笑いながら台所へと戻って行く。
クレアは服を脱いで袖のない白い下着になると、ズボンの裾をまくり裸足になる。
エレノアは‥‥‥袖のない服にふわりとした腿までのパンツなのでそのままだ。
「やったねクレア。今日はお風呂に入れるよ?」
「あはは。そうね。ほとんど野宿だったものね」
「おりゃああああ! おちろおお!」
「あはは――」
――。
※
「そろそろ、お湯を沸かしておくね」
「わかったー。そっちはよろしく。おばあちゃんを驚かせてやる」
「うふふ。そうね」
お風呂場のすぐ横のドアを開けると、家の反対側に出た。汗をかいているせいか、駆け抜ける風が気持ちいい。外に出たクレアは少しだけその風を体で感じて、味わった。
湯沸かし用の薪、高低差を利用した水道。牛を使って回す大きな棒がある。きっとあれを使って高いところに水を汲むのだろう。
「よし。これで終ーわり!」
「終わったああああ!!」
クレアとエレノアの会話を聞いたおばあさんが風呂場までくる。
「終わったのかい?」
「おばあさん! 終わりました!」
「へっへーん。すっごいきれいになったよ。おばあちゃん。今日のお風呂はきっと格別だよ?」
「どれどれ……あら、ありがとうね。こりゃまた随分と綺麗になったねぇ」
風呂場と浴槽を見たおばあさんが嬉しそうにしている。
「じゃぁ、ほら、ここにタオルを置いておくから二人ともゆっくり入るといい」
「え? そんなせっかく洗ったのに――」
クレアの声を遮るように笑うおばあさん。
「はっはっは。しっかり汗をかいたんだから、二人が先に入るといいよ。ほら、服を洗っといてあげるから」
「そんな……」
先におばあさんに入ってもらおうと思っていたクレア。エレノアもそのつもりで掃除をしていたが二人の反応は対照的だ。素直に後ろで喜ぶエレノア。嬉しそうな顔を下おばあさんは、二人の脱いだ服を持つと裏手に回っていってしまった。
「ほら、クレア! はやくぅ」
「もう。まぁいいわ……。嬉しい! 綺麗なお風呂、綺麗なお湯!」
二人一緒に入るのには十分な大きさの浴槽。溢れたお湯がこぼれて流れていく。二人は久しぶりにお湯の入った浴槽でお互いの髪や背中を洗い、存分に満喫した。
その夜……
「これ、エレノアちゃんが作ったのかい!?」
「うん。そうだよ。おばあちゃん、調味料もいっぱいあったしさ、どう? おいしい?」
おばあさんが恐る恐るエレノアの料理に手を出す。
「おったまげたね。見た目はともかく、味は大したもんだよ。ほんっと、こんな盛り付けは見たことないけど」
エレノアが下あごを前に出して悩んでいる。褒められたのか、けなされたのか。
「やっぱりあたしの盛り付けを褒めてくれる人にはなかなか出会いないねぇ」
「あはは。おばあさん。エレノアは料理が上手なの」
「ほんとにねぇ。どうやったらこんな……」
食事が終わってしばらくすると、おばあさんが二階の部屋へと案内してくれた。そこは玄関と反対側にある部屋で、家の裏側を一望できるようになっている。家の裏手は歩いて降りるのは難しい急こう配になっていて、先の方には森が広がっているのが確認できた。
「おばあちゃん、どうして灯りをつけないの?」
手に持った小さなランプだけで部屋へと案内された二人。おばあさんは部屋の中にある紐をひっぱったり、ハンドルを操作しながら何かの準備をしていた。
「何してるんだろう?」
「何かしらね?」
こちらへ振り向いたおばあさんが備え付けられた双眼鏡を覗くように言ってきた。覗くと森の中に建っている家が見えた。続いてエレノアが覗く。
「家? おばあちゃん、家が見えるよ?」
「そうさね――。そろそろ時間だよ」
「あ、光った! チカって!」
双眼鏡を覗いているエレノアが遠くにある家から光が放たれるのを確認するとおばあさんに知らせた。
「ちょっといいかいエレノアちゃん」
双眼鏡を覗きながら、手元のレバーを上下させている。家の上ではカチャカチャとなっているのが聞こえる。
「クレア……何してるのかな?」
「何かしらね?」
「よし。ほら、じゃぁクレアちゃんからここに座って」
「?……はい」
椅子に座ってここに書いてある通りにそのレバーを引いてごらん。長い棒は引っ張り続けて、点はひいて戻す。わかるかな?
「はい。さっきおばあさんがやってたみたいにやればいいのね」
「うんうん。物分かりのいい子だね。あっちが光ったらエレノアと交代だよ」
おばあさんの用意してくれた紙に描いてある通りに操作をすると、言ってたとおりに遠い家の光が見えた。エレノアと交代し、エレノアも同じように操作する。
「これ何なの? おばあちゃん」
「はっはっは。光を使って向こうにいる妹とやりとりしてるんだよ。今のは二人の自己紹介だね。もしも妹の家に寄ることがあったらよろしく伝えてくれるかな?」
「伝えとくわね、おばあさん」
「なんだぁ、そういうことか。近いんだから歩いて行けばいいのに」
「エレノア? これは近く見えるけど、すごい遠いのよ?」
「そうなの?」
「うん。私昼間に見たもの。たしかに小さく屋根が見えたけど、そうとう遠いわよ」
「うへ」
「はっはっは。双眼鏡は初めてなんだねぇ。エレノアちゃん」
そして、久しぶりに柔らかいベッドで寝た二人。夜が明け、太陽も登り始めたころ、出発する準備をしている。クレアはおばあさんが玄関にあった笛を吹いていることに気が付いた。
「おばあさん。それ音が鳴らないの?」
「いんや。これは自分じゃ音が鳴らせないんだよ。ただね。もしかしたらと思って。朝と夕方に鳴らしてるんだ。昔っからのクセでね――。それで、もう出るのかい?」
そう話すおばあさんが悲しそうに見える。遠い思い出のことを考えているように。
「ええ。宿をありがとう。それにお風呂。楽しい光の挨拶に、楽しいお話も」
準備の終わったエレノアがやってくる。
「おばあちゃん。ありがとうね!」
エレノアがおばあさんに抱き着くと、すごく嬉しそうにしている。
「ほっほっほ。いいねぇ、やっぱり猫は」
「えー。まぁ、そうだけどさ。あたしって目と鼻と尻尾くらいじゃない? ねぇクレア?」
「んー。そうねぇ。でも、なんだかんだ言っても動きっていうか、猫っぽいと思う。二人一緒にいるのみて、そう思ったわ」
黒い猫と顔を合わせるエレノア。納得する猫好きのおばあさん。
「うんうん」
玄関で最後の別れの挨拶をしようと思ったら、おばあさんが何かを思い出したように家に戻っていった。
「そうそう、あれあれ。ちょっとまっててね。どこいったかしら。えーっと」
「なんだろ?」
「何かしらね‥‥‥」
二階から戻ってきたおばあさんが持っていたのは単眼鏡だった。手のひらサイズの物が伸ばすと四倍の大きさになる。筒には笛と同じマークが彫ってあった。
「これ、持って行っておくれ。息子のものだけどね。あいつ持っていくの忘れちまってね。遠くまで見えるから、きっと役に立つよ?」
「そ・れ・は!」
エレノアが受け取るとすぐに筒を覗き、周囲の景色を見て楽しんでいる。「うわぁ」とか覗いたり、単眼鏡を目から離して自分の目で見たり、手で掴もうとしたり。そんなエレノアの様子を傍にクレアが、
「おばあさん? そんな大切な物……」
両手を握ってきたおばあさんが、優しい笑顔で続ける。
「いいのよ、クレアちゃん。優しいねぇ。私もね、もう長くないから。息子の宝物を孫に渡せればよかったんだけど‥‥‥ほら、二人とも先はながいんだろう? 近頃じゃ山賊もいるって噂だからね。気を付けるんだよ」
「ありがとう。おばあさん」
抱きしめたおばあさんはとても小さく感じた。
「それじゃ、いってきます!」
「いってくるね、おばあちゃん!」
「いってらっしゃい」
二人はおばあさんの家を出発してからしばらく道を進んでいる。何もなかった草原の道には次第に木が増え始めていた。歩いているとエレノアがバッグの中をごそごそと漁りだした。そしてサンドイッチを出してきた。
「へっへーん。これ、ほら!」
「まぁ、どうしたの?」
「おばあちゃんが、今日のお昼に食べろってさ。くれたんだ。早く食べたいなぁ」
「あはは。おばあさんがこのあたりに泉があるって言ってたから……そこでお昼にしましょうか?」
「いやったぁ! どこかなぁ?」
道から少し外れたところにある泉は意外と大きく、たどり着いたクレアたちの反対側。泉の対岸には森が広がり始めている。
クレアとエレノアはすぐ近くにある岩に荷物を置き、草に腰を下ろして二人はおばあさんから貰ったサンドイッチを食べ始めた。
静かな風景の中で、クレアとエレノアの二人が同時にその訪問者に気づいた。木の奥から何かが草をかき分け日の当たる場所へと現れた。それは見たこともない大きさの獣だった。
「――しっ。エレノア」
「なんだあれ」
森の中からゆっくりと現れたのは、四足で歩く猫のような獣。薄い黄色の短い毛で体は覆われているが首には大きく立派な毛が生えていた。威厳のある顔立ち、前足の太さだけでもクレアの胴体程の大きさはある。馬車なんてひとたまりもないだろうその大きさ。
「食われる!? 逃げようクレア」
「待って」
森から出てきた巨大で黄色い獣は泉までゆっくり近づく。すぐには水を飲まず、あたりを見回してから口を泉に着け始めた。くつろいでいるように見えた。クレアが逃げ出そうとするエレノアを抑えていると、その獣が対岸から視線を合わせてきた。
「あばいよ」
「待って、エレノア。動かないで。あれはきっとライオンよ。滅んだ古代種。読んだのを覚えてる」
「ライオン?」
しばらく見つめあっていると、その巨大な黄色い獣が吠えてきた。
低く巨大な声で届く咆哮は、対岸の泉から水面を揺らし、その波動と音でエレノアを黙らせた。




