15 どうしても見たい④ 悪い子にはお仕置き
『第三作戦』
水浴びをしている旅人が、泉の中央あたりで突如として溺れ始めた。そんな彼の様子に気づいた彼女が立ち上がり、どうしようか慌てている。
「大丈夫かしら? あそこ結構深いのよ」
「ああ、足がつっている! 足がつってて泳げない! 沈んだら大変だーっ! 助けてくれ」
ふふふ
ふふふふふふ
これぞ第三作戦だ!
『ああ、汗かいちゃたなー。水浴びするね。あ、でも覗いちゃだめよ。と思ったら、足つっちゃった!沈んじゃう!泳いで助けに来るのにフード邪魔だよね?とるよね?とってくるよね?』だ!
しかも、水中に潜ればフードもめくれるという保険つき。もしくは水面へ出る際、こっそりフードを押さえてめくるのもいい。せめて、一勝はせねば!
旅人のプライドは変な方向へシフトしていた。三文芝居は続く、
「ああ、ああー、溺れる―。溺れてるー」
「どうしよう? 行かなきゃ」
彼女は胸の前に手を置き悩んでいた。そこへ傍にいたサルが近づいてくる。彼女の服を引っ張ると、行くなと訴えかけてきた。
「でも」
普段なら、躊躇なく助けに行く彼女だった。しかし、よくよく見ると様子がおかしいことに気づいた。サルは、やれやれといった感じで彼女に寄り添う。熊も同意する。
あれ? 彼女遅いな。もしかして、聞き取りずらいのかな?
「助けてくれぇ! これはもうだめかもしれない! 足がつって、あー、沈んじゃう、沈んじゃうぞ」
ちょっと、棒読みだったかな。あれ? 後ろ向いてる?
旅人が溺れるふりをしてる間、彼女はサルと熊と相談をしている。話がまとまると旅人の方へ振り返り、三人で彼を見る。
「え? そうなの? もうっ――、これはお仕置きが必要ね」
あれ? みんなでこっち見てる? 大丈夫だと思われてるのかな? こうなったら、秘儀・水喋り!
すでに作戦がバレているとは知らず、旅人は演技を続ける。バシャバシャと水音を立てるのをやめ、水面に口を付け、水を含みながら溺れているかのようにしゃべり、助けを求める。
「あああ、たずげべぼぼぼ――」
そう言い残して旅人は沈んでいった。ゆっくりと底へ沈んでいく中、彼は誇らしげしている。自分が立てた作戦と、演技の出来栄えの良さで満足感に浸っていた。
いやぁ。我ながらいい出来だと思う。あとは彼女が来るだけだな。しかし、深いなここ……
旅人の演技、実際は棒読みもいいところ。陳腐な劇より酷い出来栄えだったが、その様子を見守る彼女にとっては楽しいひと時だった。
「じゃぁ、行くわね。――っ、ふぅ」
彼女はフードを被りなおすがその顔はすでに隠されていなかった。歩いて泉の縁まで行くと、左手で袖を押さえながら、水面に右手を添える。そして、旅人がある程度まで沈むのを待った。
ふふふ。このあたりでいいかな? 早く来ないかな――
「ふふ。ちょっとお仕置き。悪い子」
今度こそ上手くいきそうだと安心している旅人。彼女が、泉の縁で何かしている様子が見て取れた。が、次の瞬間――
ズズズズ――
ゴゴゴゴゴ――
「うぅぅおおおぉおっ! ――っ、いで」
突如、泉の水が旅人を中心に外側へと引き始めた。全て外側へ急激に流れ始めたかと思うと、旅人は底へ落ちた。途中までは下に向かって吸い込まれる感覚だったが、水のなくなる勢いのほうが早かった。そのため途中からは落下に変わった。最後には水気のなくなった底に落ちた。
えええ?
彼女は落下する時の衝撃を減らそうと沈むのを少し待ったが、水中で待機していた旅人にはそれが無意味だった。結果、流されて着地するというよりも、地面に落ちた。彼女の魔法により泉の水はすべて、底から無くなっている。その代わりに中にあった水は半球状になり、泉に壁と屋根を作って大きな空間を作り出している。太陽光がその水の壁と天井に当たって、きれいに煌めいている。
ええええ!
「よし。じゃぁ、行ってくるね」
彼女はサルと熊にそう言い、扉ほどの大きさに開いた入口から空になった泉の底へと歩いていく。旅人はそんな三人の様子を見て、自分の作戦がバレていたことに気づいた。
水の天井から差す光は水中を屈折、収束し地面をその光で波打ちする。ここが水の中だと思わせる光の演出は彼女を美しく見せる。入口から差す空の色と太陽の光も美しく、ゆっくりと歩いてくる彼女を妖艶にも映し出していた。旅人は彼女に目を奪われている。半分ほど近づいた彼女の問いかけに、思わず笑ってしまう――
「ねぇ。大丈夫? 痛くなかった?」
「ははは。ごめん」
「もう、そういうことばっかりなのね」
「いやぁ、どうせならやり切ろうと思ってね」
ゆっくりと近づいてくる彼女はフードを被っているが首元の紐は結んでいなかった。何より、幻想的な光の中で彼女の顔がすでに見えていた。青白い光、屈折し時折虹色の光も現れる。傍まで来た彼女から差し出された手を握り、旅人は立ち上がる。
二人とも、その手は離さなかった。
「私ね、人間じゃないの」
「うん」
「私、エルフなの。外に出たことのないエルフ。意味、わかる?」
「ああ。わかるよ」
「外で、人間に捕まると悪いことされるって」
「それは、大昔のことだよ。その子孫たちは、今も外で暮らしてる」
「それでも、私――」
「もし、そんな奴らが来たら追い払ってやる」
お互いに惹かれあっていることは分かっていた。今も、手を離さず話している二人は、寄せ合い、歩み寄り、近づくほどに胸が熱くなっている。掛け合う言葉だけが、そんな二人の距離をギリギリで保っていた。なのに、言葉をかけるごとに、それが難しくなっていく。
「だいじょうぶ。俺が、君の傍にいて守るから」
「本当?」
「ああ、誓うよ。俺は、君のそばを離れないし、君も俺の傍にずっといてほしい」
「約束よ?」
「ああ。約束する」
フードを被ったまま覗く美しい顔が優しい、甘い声で言う。
「そうだ。私、貴方に、加護を授けるわ。
私と貴方だけの加護。
私の能力の加護」
「それは――」
彼女は旅人の言葉を遮るように男の顔に下から両手を添える。
その手は少し冷たかったが、お互いが触れ合うとすぐに溶けるように熱くなった。
一瞬、ほんの一瞬だが二人は黙って見つめあう。
すると彼女が旅人の顔を引き寄せる。
彼女もまた旅人に引き寄せられる。
ゆっくりと二人は唇を重ねた。
重なり合う唇はお互いに収まる場所を知っているかのように。
まるで柔らかく、みずみずしく溶け合うかのように。
一つになっていく。
そしてそれは、ほのかで、優しい、短めのキスだった。
離れる時もまだ、彼女と繋がっているような感じがした。
旅人は彼女のフードに小さな水がポタポタと落ちてきているのに気づいた。まるで雨が降る直前のように自分の髪にも、同じく水が落ちてきていた。
「――」
喋ろうとした旅人の口を、彼女が細い指で抑えると、嬉しそうに笑顔で言う。
「ねぇ、見てて。これが私の能力。私の世界。私の加護よ」
ポタポタ落ちてきた水が、まるで雨のように落ち始めた。
しかし、段々とその速度は弱まり、ゆっくりになり、やがて落ちる水玉を観察できるほどになった。二人に近くなるほど、落ちる速度は無くなり、まるで止まっているかのようだった。
水玉はまるで浮いているよう。外から差す光が粒にぶつかり煌めく。とても幻想的な世界になっていた。二人とも天井や空間を見上げる。
「私の世界で、貴方は普通に動ける」
「ははは。なるほどね」
「うふふ。私に近づくほどゆっくり――」
「俺もゆっくりか」
「いいえ。貴方の時間はとめないわ」
「どうして?」
「だって、一緒に歩きたいもの」
……
「すごく、綺麗だ」
旅人が見つめながら言うと、彼女は視線で応える。
彼女のフードにゆっくりと手を添える。
二人は見つめ合ったままで、彼女が時折恥ずかしそうな顔をする。
ゆっくりとフードを後ろに下げると、綺麗な髪、顔、少し赤く染まった頬、少しだけ開いた唇、吸い込まれそうな目をはっきりと見ることができた。彼女が小さく声を出したが、今は二人とも言葉はいらないと思った。
この二人の空間に入るための入口
扉ほどに開いていた入口も
今はゆっくりと水に覆われて閉じていく――
手が先か、顔が先か、唇が先か。どれが最初に動いたのかわからないが彼女の首の後ろに手を添え、お互い寄せ合うように、引き寄せられるように、求めあうように、唇を重ねる。
今度は、言葉が邪魔をすることはなかった。いつの間にか、泉の中の落ちる水玉はそのほとんどが、止まっているかのようだった。
外で待っていた熊とサルは、その様子を見て森に向かって歩き出した。熊の背に乗っているサルの手には、旅人の服があった。森に入る手前、熊が一度止まり、小さく吠える。サルが「キ」って返すとそのまま入っていってしまった――
「ねぇ? このままでいい? 今はあまり動きたくない」
「ああ。構わないよ」
「うふふ。よかった。じゃぁ、よろしくね」
「ん?」
意味が分からなかったが、すぐに理由がはっきりした。半球状の壁や天井と化していた泉の水が勢いよく戻り始めたのだ。そのまま下へ落ちてくるのではなく、周りからぐるぐると、それはぐるぐると‥‥‥
「ううううおおおお」
「あははは、がんばって」
すごい勢いで水に流され、泉の中をぐるぐると回ると少しずつ水かさが増し、最後には地上に戻ることができた。彼女が浮きやすくしてくれたおかげで、身を任せるだけだったが旅人は初めての感覚に戸惑った。彼女を抱きかかえ、泉から出てくると、
「あら、あの子、貴方の服を持って行ってしまったのね」
「へっくしょん」
彼女は旅人のそんな様子を見て、自分の足で立つと自分の身に着けていたフード付きローブを旅人に被せる。
「これで我慢してね」
「ありがとう。あいつには悪意を感じるな」
「うふふ。あの子も貴方のことが好きみたいよ?」
二人は洞窟の中で焚火の前に座る。今日も外の世界の話はもちろん、音楽の話、服の話、なにより盛り上がったのは、二人でしたいこと、行きたい場所、見たいことを話していた時だった。それは彼女がまた帰るまで続いた――