12 どうしても見たい① 水浴びを覗きたい!
夜の森はとても静かだった。洞窟の中の焚火から放たれるその光は、距離が延びるごとにその範囲を広げ次第に弱く優しい光へと変わる。二倍の距離では四倍の、三倍の距離では九倍の面積を照らすためだ。
二人がその焚火の前に座って大事な作戦会議をしている。パチパチと鳴る炎の光がそんな二人を下から照らし、ドラマチックな雰囲気で、不吉な話をするかのように演出している。その二人とは、
地面に何かを書くには丁度いい棒を持った旅人。
左手に木の実、右手にも木の実を持った小さなサル。
二人は今、明日のことについて話を進めている。
「――と、いうことでどうだろうか?」
「キッ」
サルは手に持っていた木の実を旅人の前に差し出す。旅人はそれを受け取ると、軽く上に放り投げ、再度同じ手で横からパシっと音を立て掴みなおす。
「決まりだな。それじゃ相棒。いや、大将!寝るとしようか」
「キィ」
そう呼びかけると、嬉しそうに甘えた声で寄り添うサル。二人は焚火の横で眠り始める。
※
――翌朝
目が覚めた旅人は、昨日と同じように顔を洗いに泉まで来ていた。体の調子は良い。もう完治したと言ってもいい程だった。軽く体を動かして調子を確かめる。
「よし。ばっちりだな。今日もいい天気だ」
その後も足を伸ばしたり、片手で逆立ちしてゆっくり動いたり、力強さとしなやかさを兼ね備えた動き、走って木を蹴って空中へと飛び回転し着地したり、軽く動いて感覚を確かめていた。
しばらくして、今日も動物が泉へとやってきた。昨日と違って動物がぞろぞろと現れる。彼女と一緒にいたのを見て、ある程度は警戒が解けたのだろうか。旅人はそんな彼らを仁王立ちして眺めている。
決して見逃すまい!と、仁王立ちすること一時間……。ついに彼女が森の中から姿を現す。今日も上質の薄い生地で出来たフード付きローブに、中はシンプルな装いに細いベルトを腰で結び垂らしているだけ。肌にまとわりつくような質感が彼女の体を美しく露わにしている。
「おはよう! 今日も早いのね」
「おはよう。ちょうど起きたところだよ」
嘘だ。一時間以上前からここで待機している。
姿を現した彼女に夢中になったのは旅人だけではなかった。動物たちが今朝も、我先にと彼女に近づいていく。
「あはは。おはよう。はい。うん。ありがとう。おはよう」
まだ二回目だが、見慣れた光景のように安心感がある。彼女に下心や悪意、嘘や見栄などそういったものを一切感じないからだろう。旅人は仁王立ちのまま彼女達を眺めている。
挨拶の終わった彼女が旅人の元へ歩いて近づいてきた。隣にいるヤクが木剣と盾を運んでいる。
「じゃぁ、最後の治療ね。きっともうほとんど治っているはずよ。今日は最後の仕上げ」
「ああ。おかげでかなり動けるようになった」
旅人は上着を脱いで背中を彼女へと向け座る。彼はさも普通に脱いでいるが、彼女は初めての時より、昨日より、日に日にその旅人の背中に胸を熱くしていた。ただ、同時にそれがなんなのか混乱もしている。
彼女も旅人に合わせて膝をついて座る。昨日と同じく両手で彼の体を挟み込むようにして治療を始める。彼女の手の感触が、旅人には心地よかった。彼女には彼の立派な体が触れるたびに魅力的に感じていた。
「うん。もう、大丈夫そう。あなた自身の回復力も大したものね」
「昔から、丈夫なのは取り柄だよ。ははは」
「やっぱり本で見るだけじゃだめね。実際こうしてみると構造が思ってたのと違うみたい。貴方だけかしら?」
「え? いや、普通の人間だよ。まぁ、他のみんなより強いけどね。そう。とても!強いけどね」
女は治療をしながら、少しだけ旅人の前へ移動する。
「あら? 昨日のこと気にしてるの? 冒険者さん?」
「いやいや、まさか。お嬢さんに剣を教える前に忠告をと思ってね」
楽しそうな彼女に、自信に満ち溢れた笑顔を贈る旅人。事の発端は昨日の会話。
彼女が放った、『私、剣で負けたことないわよ』という一言。そして『どんな武器を使っても私は負けないわよ?』という一言。自身の冒険者としての話をしていた時のことだった。彼女は名残惜しいその体に踏ん切りをつけるかのようにパン!と両手を当てると、
「はい! 終了したわ」
「ううう」
唸りながら、両手を上にあげ体を伸ばす旅人。近くにいるサルに目配せをする。サルは「キッ」っと小さく返す。旅人は、俺たちは魂で繋がる仲間だと言わんばかりに最後に唇の端を少しだけ上げ応えた。
『第一作戦開始』
「それじゃぁ、私はこれから水――」
「よおっし、じゃぁちょっと洞窟へ行くかな」
旅人は彼女が「水浴びをする」と言いかけた時に半ば被せて言い放つ。今日は瞼を魔法で閉じさせない! そのために昨夜は瞬きをしない練習をしたのだ。そんなに長く持続させることはできなかったが、ここから洞窟までなら持つはずだと把握した。準備は、すでに始まっている。もうすでに少し目を真っ赤にした旅人は振り返り彼女に言う。
「ちょっと、中のお皿をもってくるよ。水浴びを気にせずしてくるといいよ」
「うふふ。じゃぁ、そうするわね。ねぇ、ちょっと目が赤いけどだいじょうぶ?」
「大丈夫! ちょっと寝不足なだけさ」
希望に満ち溢れた爽やかな笑顔で答える旅人。彼女に決して目を触らせないよう、瞬きしないように彼女から離れた。そして仲間のサルを呼ぶ。
「いくぞ、大将」
「え?」
呼ばれたサルが旅人の左肩に飛び乗る。一緒に洞窟へと向かう。その後ろからはなぜか熊がついてくる。旅人は彼女の最後の「え?」という一言が少し気になっていた。しかし今は、作戦通り彼女に目を触らせなかったこと、瞬きをせずに移動していることに安堵している。
「あの……」
「お構いなく!」
彼女が何か言いたそうだったが、もし魔法の言葉があったら? 旅人はそれすらも予測回避する。
そう、これが彼女の水浴びをのぞ……偶然見るための第一作戦『あれ?まだ水浴びだったのか?ごめん。覗く気はなかったんだけど、偶然じゃしょうがないよね?終わってると思って!』だ!
崖から落ちて、目覚めた森では胸を熱くする美しいエルフに出会った。彼女は優しく、美しく、可憐で、体のラインは見えるのに見せてくれない。ちょっと紳士的ではないなと思いつつも、これは偶然なんだ!と自分に言い聞かせ洞窟の入口に足がかかった頃、後ろから彼女が大声で――
「その子、メスよ! 大将じゃかわいそうよ!」
なんだと!? 旅人の左足はすでに洞窟の中へと踏み込んで、右足が地面から離れている。時間がゆっくり流れ、まるで脳裏に焼きつけるかのように左肩を見る。そこからは、裏切りと勝利の気配を感じる。
メ
左肩にのっているサルも同時に旅人の方へと顔を向ける。
ス
洞窟の中へと差し込んでいた光が少しずつ小さくなる。
だ
それに気づいた旅人はそのまま振り返り続け、左回転で背後の洞窟出口を見るが、すでに手遅れだった。
と!?
何か、ズゥーンっと扉でも閉まるかのような音が、脳内で響いた。一緒についてきた熊が入口を塞いだのだ。熊と壁との隙間は、抜け出すには微妙な大きさだ。
「お前、裏切ったのかあああ」
小さな声で叫んだ。頑張って見開いていた目からは涙が出る。大将だと思っていたメスのサルは、旅人の頭に移動して嬉しそうにしている。旅人は膝をつき、地面を叩いて悔しがっていた。降りてきたサルが、地面に置かれた旅人の手に、その小さな手を添えると「キ」っと励ました。
「あの子たち、何をしてるのかしら? 水浴びしよっと」
スルスルと服を脱ぎ捨て、今日も泉へと飛び込んでいった。微かに聞こえるドボンという音を聞いて旅人は我に返る。
まだだ。まだ終わっていない。あの隙間! あの隙間を通り抜けられればきっと。彼女はまだ水浴びを始めたばかり。まだ間に合う。
『第一作戦修正版』
旅人は、屈伸をしたり手首や肩や首を動かしている。
よし! 力よりも早さとしなやかさを必要とする作戦だ。幸い、熊は外を向いて座っている。そして熊の右側のほうが隙間が大きい。これはチャンス。
「お前ら、俺を甘く見るなよ」
少し奥から助走をつけて走ってくると、途中から本気で踏み込み始める。左で音をたて注意を惹きながら、最後は右側に飛び側面の壁の出っ張りを足場に一気に外へと飛び出す。
「キッ」
「あ」
サルのその一言がなければ全身が外へと出ていただろう。サルの掛け声で熊が右に移動したのだ。
そして、旅人は挟まった。クマと洞窟に挟まれた。これは熊とサルの防衛作戦だったのだ。わざと右側に来るようにしていた。そもそも、熊がついてきた時点で気づくべきだった。サルと熊は彼女を守っているのだと。
旅人がそう考えている間、熊は右手で旅人を抱えたまま反対に回転し、洞窟の中を向く形で落ち着いた。ぶらんとしている旅人の手に、サルはまた小さな手を添えて慰めた。
くそう……
しばらくして、水浴びを終えて服を着た彼女が傍へとやってきた。洞窟の入口で、なぜか旅人を抱えて座っている熊とサルを見て――、
「あははは。貴方たち本当に仲良しね」
「ははは。もしかしてクマもメスかな?」
「ええ、そうよ」
「やっぱりね‥‥‥」
二人は朝ごはんを食べ、色々な話をした。今日は外の世界の卵料理、花の話で盛り上がった。そして、約束の時間。ちょうどお昼頃に剣で勝負しようという約束。
二人は立ち上がる。その場を少しだけ移動する。泉の前、短い草が生い茂る広い空間。彼女が用意していた剣と盾を持ってくる。
「これでいいかしら?」
「ああ、これで十分だよ」
旅人は木剣と盾を装備し、剣を軽く振り具合を確かめた。軽くてほどよく硬さのある剣だ。実戦練習にはならないけど、型や動体視力を鍛えるのには丁度いい。
「私、剣だけでいいかしら? 盾はちょっと重いわ」
「ははは。構わないよ。自分の好きな形で」
「あ、当たっても大丈夫なように防壁を張っておくわね」
「それは便利だね。助かるよ」
そういうと彼女は旅人の胸のあたりを触り魔法を使った。一瞬、毛皮を全身にかぶったような感覚になったがすぐに消えた。前に魔物退治の際、同行した魔法使いに守護防壁をかけてもらったことはある。その時は薄くて軽いカーテンを被ったようだったが、彼女のそれは段違いだった。
「これで大丈夫よ。みてて」
そういうと彼女が、持っていた剣で旅人の腿のあたりに切りつけた。もちろん木剣なので安心だが、この防壁のおかげで剣が体にぶつかる瞬間に弾かれる。感覚としては乗っていた馬車が揺れたような、寄りかかっていた壁に何かがぶつかったような感じだった。
「これでケガはしないから安心してね。本当の武器じゃどこまで耐えられるかわからないけど、この程度なら大丈夫よ」
「ありがとう。君の方こそ、無理はしないようにね」
「あら、ありがとう。じゃぁ、始めましょう。貴方の剣が私に届くといいわね」
「ああ」
二人は少しだけ間合いを取る。彼女の剣の構えからは何も読み取れなかった。もしかしたら、油断させる手なのかもしれない。そう警戒しながらも、最後の『剣が私に届くといいわね』という一言が、旅人のプライドに静かな炎を灯らせた。
―― 第二作戦の開始だ