憐憫
宏はまた駆け出した。その道の曲がり角に見えた手首の白さは、あの日に宏が線路側から詩音を引き止めるために掴んだ手首の細い白さだった。それは確かに詩音だった。ため息をつきながら傍へ回り込んだ宏は、倒れ込んだ詩音の頭と肩に左手を差し入れ抱き寄せた。
詩音は抱き寄せられるままに夢うつつのままに宏の懐かしい香りを嗅いでいた。ローティーンだった頃の記憶のままに詩音の腕は宏を求め、すがりつくことが許された時だった。
宏は、詩音が気を失いながらも、独り言を言っているのに気づいた。
「私は虫けら。
おぞましいゆえに懲らしめられる者。
病気ゆえに懲らしめられる者。
愚かゆえに懲らしめられる者。
不覚ゆえに懲らしめられる者。
迷惑ゆえに懲らしめられる者。
劣等ゆえに懲らしめられる者。
憐れみの言葉をさえ許されず、
正義は求める機会を許されず、
修練と学びの機会を許されず、
存在する時と場所を許されず、
罪を言い表す機会を許されず、
因果応報さえも離れていき、
残るは生まれていなかったこと、虚無の中に消え去ることを求めるのみ。
ゆえに自ら憐れみを拒み、正義を拒み、放免を拒み、時空の全てを拒む。
ただ、ただ、今はあの方の傍にて少しばかりの時を。」
宏は黙って詩音を抱きしめた。詩音は目覚め、自然に両手で宏の顔を捉え、宏の顔を見つめ続けていた。そして、詩音の黒髪がふと宏の顔に降りかかった時、宏は詩音の黒髪の中へ顔を埋め、耳もとに囁いた。
「何故こんなことを?。」
「ごめんなさい。お父さん、いえ宏さん。あなたに会うつもりはありませんでした。」
「ここまで来て、会わないなんて。どうして?。困っているなら、その時には頼って欲しいのに。」
「私を放っといて。このまま死なせて。あの人は死んでしまった。もう、この世には居ないのよ。」
「詩音や!。貴女には民生君の忘れ形見がいるではないか。」
「そう。でも、私はサラを見るたびに彼の死に打ちのめされているわ。日本にはもう頼れる親族は残っていない。祖父母も山形さんも歳をとって………。もう、私は孤独に耐える力も、希望を見出す力も、サラに注ぐ愛も枯れてしまったわ。だから、せめてこの島で、貴方の近くでサラを遺せば、貴方に預けられると思って……。」
「何を自分勝手な。君と彼の子供だろうが。」
「そう、私はもう自分勝手な人間、虫けらに成り下がっているの。だから、私は貴方には会いたくなかった。私にはこれしか思いつかなかった……。死なせて。」
詩音は泣き始め、宏は当惑しながら詩音を抱きしめ、詩音の黒髪を撫でていた。
宏が恐れていた事態がやはり起きてしまった。宏は詩音が彼の元へ来ると思ってはいた。しかし、近くに来て子供を遺して自殺を図ることは予想外のことだった。気軽に頼ってくれていい。そう詩音に言っていたのに、詩音にとって宏に会うことは耐えられないことだったのだろか。詩音は民生を死なせてしまった後、絶望に撃たれて宏の愛も何も見えなくなっていたのだろうか。
フエリーの船着場から島の北側の海岸沿いに回り込んだり先に、宏の家があった。宏は淑姫や淑香に付き添わせながら、詩音とサラを退院させた。簡易舗装の道を古いスバルを走らせると、海岸線から少し入り込んだ道に出た。その道を更に進むと、林の奥へ入り込む砂利道がいくつも交わっている。スバル車はそのうちの一つへ、エンジンをふかしながら一気に登り上がっていった。縦に横に揺れる車の中で、サラは眠っていた。しかし、詩音は後ろの席から外を見続けいるだけだった。
宏の家は、古い開拓時代の形式を残した大きなログハウス風の別荘だった。扉はまるで馬小屋のように上下に分かれ、靴のまま家の中へと入り込んで行く。詩音はそんなことに戸惑いつつも、無言のまま宏に手を引かれて入り込んで行った。リビングを通り抜け、奥まったところにある客用の寝室へ荷物が運び込まれた。
「ここが当座の君の部屋だね。風呂はアジア人には少々寒いが、いつでも使えるよ。トイレは使用中以外はドアを少し開けておいてね。サラは君の負担にならないように、隣の僕の部屋へ寝かせるよ。僕達の方が育児は先輩だから、安心しなさいな。」
その日の夕食をすませると、宏は詩音を寝かせた。その後、宏は幼子を淑姫達に任せながら、まとまらない考えを自問自答し続けていた。
「男女の愛ならば、絶えず互いの働きかけ、愛の交換がなければ、愛は消えてしまう。民生くんとの愛はそういうものだったのかのかもしれない。また、昔、僕が詩音を置いて離日したことも、詩音にそう感じさせていたのかもしれない。最愛の人に死別して愛を失うと、立ち直るのに十年はかかる。僕はたとえ彼女が実の娘ではなくても、父としての愛を捧げて来た。それでも……。」
しかし、宏は自分に言い聞かせるように、いい含めるように考えをまとめた。しかし、彼の見つけた答えは彼にとって難しいものだった。
翌朝、宏は詩音が起きだす前に、詩音の寝ている部屋へ、サラを抱く淑香とともに様子を見に行った。詩音は起きていたが、サラや宏を見てもその顔には無気力な表情が浮かんでいた。その虚ろさは、失われた愛の大きさを物語っていた。それを宏からの言葉で埋められるかはわからなかった。
「僕は今でも君のことを思い続けている。それは、君のことを思い続ける父の愛があったから。大切な若い君を恋人とは思いたくなかった。恋人としての愛はつづかない。でも、喪失感に悩み続けるなら、帰ってこい。今までもいつでも僕は待っているんだ。」
ようやく詩音は宏に顔を向けて自分の居る場所を冷静に見つめるかに見えた。詩音が欲したのは宏から受ける抱擁の愛のはずだった。しかし、彼女はなぜか彼を避けるように、目をつぶってしまった。
「私は虫けらだから……。」
「君はそう言って、自らを否定する。確かにそう感じてきたのだろう。しかし、僕はそんな時には君の傍にいてあげると言っていたではないか。」
「でも貴方は、私が貴方を求めるといつも遠くへ逃げてしまう。」
「それは君が僕に父親だった時の僕の愛を求めるのではなく、その代わりに男としての僕に愛をまとめたからだ。君が僕に愛していると言った言葉、尽くそうとしてくれた態度は、若い愛であり眩しすぎた。あのとき、僕は『君の父親でない、血の繋がりもない。今や父親ではない僕は君に必要無いし、こんな手の掛かる人間は有害無益だ』と言ったはずだ。」
詩音は宏に再び視線を向けた。その目には少し怒りのようなものが含まれているように見えた。
「貴方は私のお父さんです。私にとって必要な人です。でももし、もう貴方が父親でないなら、私が貴方の子供でないなら、私の最愛の人です。」
…………………………
民生と詩音の間には、その後何も目立ったこともなく、二年生の新学期を迎えた。クラス替えがなされるとともに、民生やその取巻き達も詩音と同じ先進選抜クラスに昇格していた。
二年の七月のある夕方、民生は保健室へと運ばれた。県大会を控えて合気道部の主力選手となっていた民生は、練習の疲れからか、珍しく壁に激突して左腰をしたたかに打撲していた。左腰に触らぬように寝台の上に寝かされた民生は、冷房装置の風に身を任せて痛みを我慢するように眼を瞑っていた。
涼しさの中でどのくらい眠って居たのだろうか。保健室の奥の方から聞き慣れた女の声のする方を向いて、少しばかり驚いた。それは詩音の声だった。しかし、おかしな雰囲気だった。保健室には詩音や民生のほか誰もいないはずなのに、彼女は誰かに向かって話しかけている。
「私は虫。小さな虫。だから、叩かれもするでしょう。でも、この苦しみは虫ゆえに誰も気にしない。誰も見ない。
私は虫。汚い虫。だから、塗りつぶされもするでしょう。でも、この心の想いには誰も近づかないで。触らないで。
私は分かっています、あなただけはわたしに顔を向けて見て居てくれることを。
それ故に、あなたにはこんな惨めな私を知って欲しくはなかった。
だから、顔を曇らせないで、悲しまないで、涙を流さないで。
私はただの虫、あなたの前に漂う蜘蛛の糸だから。」
確かにもう一人が、無言ながらこの場でこの声を聞いている。声は確かに詩音だった。しかし、もう一人の声は聞こえなかった。音もしない。それでもやっぱり確かにいる。それは女のようにも、少年のようにも思えた。民生はそう感じた。
次に目覚めた時、三人目が詩音に何かを語りかけていた。
「詩音よ、奴らがなにをお前にしてきたかを、思い出せ。仲が良いように見えたって助けになったか?。昔の彼だって、もうお前とことは忘れて関心なんてなくなっているさ。天はお前を突き放しているではないか。それはお前が小さな虫に過ぎないからだ。お前には、もう光も夢も居場所もないのさ。さあ、呪ってしまえ。」
「私はしない。」
「俺はお前が唯一慕う神に遠ざけられたものさ。お前も同じさ。今のお前は何も無くなったではないか。」
低く、まわりのすべてを地の底へひき入れていくような声だった。それでも詩音は小さく争っていた。
「神は人間を優先して天使や彼らを遠ざけたと、そう仰るの?。今ここの私の後ろにいる方や、あなた達堕天使を差し置いて、神が私のような愚かな人間を優先し、果てはあなたたちを人間に奉仕させるために作ったと?。私も、遠ざけられているのなら、もう私にはたしかに色々なものをなくなってしまったわ。今も失いつつあるわ。でも、私は信じるの。信じるしかないの。」
詩音は最近成績が振るわなくなっていた。学校に来ても、一年から続けていたはずの剣道にも参加せず、保健室にいて勉強するだけで、授業も補習も受けていないので、学年での順位が下がるのは当然だった。他方で、民生はこの四月から合気道の県大会、全国大会に向けた練習のためにほとんど詩音と会う機会がなかった。2Fのクラスで流れていた噂によれば、詩音が2Dのクラスから孤立して保健室登校となっているということだった。そんな事を思いながら、民生は再び眠りに落ちた。
民生が目覚めてベッドから立ち上がったとき、詩音は、窓辺の席から外を見続けていた。彼女は民生が運び込まれてきたときにはたまたま居なかったのだろうか、まだまだ何かに集中しているのか、未だ民生に気づいていない。民生は二人だけと言う様子を見計らって、痛む身体を引きずりながら詩音の座るパイプ椅子へ近づいた。詩音は、詩音を見つめている民生の視線にやっと気づいたのか、先ほどまでのどこか苦しげな沈んだ顔色を隠すように、にこやかな顔を向けた。詩音の手元には数学の精選問題集が開かれていた。
「久しぶり。」
どちらからともなく声を掛けたが、それ以上に言葉が続かなかった。
民生は詩音がなぜ保健室にい続けるのか、先ほどの祈りのような言葉の意味を本人からききたかった。詩音の方も、あの華やかな取巻きの女生徒達との付き合いを聞きたかった。しかし、保健室にはまもなく保護教諭や他の生徒達も入ってきたためか、二人とも言葉を続けられなかった。
後日、しばらく民生は何回も保健室に休んでいる詩音のところへ足を運んだ。しかし、保健室にしかこない詩音はただ明るく民生に微笑みかけるだけだった。様子がおかしいと感じた民生は、今は民生と同じクラス2Fになっている石井まり、宇津木ひな、大石雄二、片岡潤一、長尾良介、の五人に噂の真相を調べてもらった。しかし、その実態は民生の想像以上に酷かった。
詩音は一学期から佐橋裕子、井上美希、青木圭子と同じクラス2Dになっていた。裕子たちは、クラス替えの時に民生と同じ世界史を選択したはずなのに別れ別れになってしまった。しかし、彼女らは、異なるクラスであっても自然に民生に接触する立場になれる生徒会活動に目をつけ、彼女らは見込み通り、新しい生徒会の会長、副会長、書記になっていた。
裕子達は遠藤のぞみが退学した理由を、詩音に結びつけていた。彼女たちはのぞみが暴漢に詩音を襲わせた事情を薄々知っていた。また、のぞみの兄カズトが民生に撃退されたことも知っていた。一連のことに詩音と民生が絡んでいたことを知って、彼女らは嫉妬と憎しみとをたぎらせていた。民生には、そんなとも知らず、詩音や裕子達を忘れ、この数ヶ月の間、合気道の稽古に没頭してきた。それが詩音を追い込む事態を招いていたとは、この時でもまだわかっていなかった。
まり達は詩音が受けている仕打ちに驚き、普段のおとなしさを忘れたかのように怒りに震える声で、民生に説明していた。
「クラスの全員が彼女をディスっているみたい。私とひなとで顔を知っている子に聞いたら、『あんな子と付き合っているの⁉︎。あの子は不潔な泥棒よ。』だって。」
ひなも続けて話し始めた。
「生徒会の裕子達は、彼女がのぞみという子から彼氏を取って、しかものぞみという子のお兄さんまで陥れたと、みんなに言っているんだって。」
雄二は裕子たちの性格を思い出し、考えをまとめながらボソボソと話し始めた。
「生徒会選挙の時に見ただろ?。裕子はボスだけど、あとの二人も金魚の糞じゃない。彼女たちは何か同じ強迫観念に取り憑かれたように、三者三様で訴えていたよ。でも、言っている調子は同じだったよ。」
潤一は、半年前のことを大袈裟な様子で感嘆しながら振り返っていた。
「俺たちとつるんでいたときは、あんなにグイグイいくタイプには見えなかったなあ。」
良介は嫌悪感を表しながら、吐き捨てた。
「三人とも猫をかぶっていたのさ。」
それを聞いた雄二はまた考えをまとめながら話している。
「考えてみれば、クラブ活動支持支援といっても、要はクラブ同士の交流、いやクラブ幹部同士の交流だろ、彼女らはそれを通じて俺たちと繋がっていたかったんだろ。」
良介も潤一も民生を見ながら声を合わせていた。
「俺たち、じゃなくて、民生と、だろ?。」
雄二はまたまとめた。
「それが自分たちの足元に恋敵の辻堂さんを見つけちゃったから、次第にそちらへ攻撃の手を伸ばした、というところかな。」
現実は彼女達の話や雄二、潤一、良介から聞いた話からも、民生の想像以上に深刻に思えた。
まり達の話を聞いて数日たったある日、民生は合気道の練習が終わって夕闇に包まれるころを見計らって、詩音の所属する2Dの教室に入り、まりやひなから教えられた通りに詩音の机を見に行った。
すでに夕闇の中に浸る2Dの教室は、非常灯の少しばかりの光だけが足元の床を照らしていた。しかし、暗闇に沈んでいるはずのその場所だけは、ふんわりと赤く反射しているように見えた。そこで民生が見たものは、机の面いっぱいに書き込まれた中傷と威嚇、脅迫と呪いの言葉だった。そればかりではなかった。机の中には、明らかに詩音の名前が書き込まれた教科書やノート、辞書までが焼け焦げたままで押し込められ、そこにちり紙やチューインガムのゴミが一杯に押し込められていた。思わず椅子を引いて調べようとした時に、手に鋭い痛みが走った。それは背もたれに仕込まれたカッターの刃だった。それも背もたればかりでなく、腰かけ部にももれなく画鋲とカッターの刃が一面に敷き詰められていた。そして腰掛け部の右側には確かに血に染まった跡まで残っていた。
「詩音は怪我をして保健室に運ばれた。そのまま保健室にしか居場所がなくなった。」
そんな状況を察することができた。
「なぜ詩音は話してくれないのだろうか?。いや、僕はいままでなぜ詩音を放っておいたのだろうか?。」
今まで詩音を放っておいたこと、それ故に民生は自分が信頼されて居ないことを、悔いた。
次の日の昼休み、民生は保健室にいる詩音を訪ねた。詩音は相変わらず何も悩みはないような笑顔を見せていた。民生は詩音の目を見返した。今まで遠慮がちに目を合わせていたが、意を決したように彼女の目を覗き込んでいた。詩音は民生の見つめる目を、やはり避けていた。
「詩音さん、右の脚に怪我をしていないかな?。」
彼女の笑顔が一番消え、顔色が変わった。彼女は民生が何を言いたいのかを探るように民生の目を覗き込んだ。民生はその視線を受け止めるように詩音をまっすぐに見ながら言葉を続けた。
「右のスネか腿の裏に、切り傷があるんじゃないの?。」
詩音はその言葉の意味を悟って目を背け、何も言わなかった。民生は養護教諭に声を掛けて、座り続けている詩音を急に抱き上げて保健室の寝台へはこびあげてしまった。
「先生、見ててください。」
彼は抗おうとする詩音の腕を持って、彼女の体をくるりとうつ伏せにしてしまった。見えにくいところだったが、右脚の腿の内側にやはり切り傷の跡があった。
「これは切り傷だわ………。」
養護教諭が傷痕を確認するために彼女の腿に手を触れた時、詩音は短く悲鳴をあげ、それを拒否するように姿勢を変え、民生を睨みつけた。
「僕は下には触ってないよ…。」
民生は詩音の赤くなった顔を避けて、口ごもった。戸惑う二人を置いて、養護教諭は当惑するように詩音を見つめて言った。
「普通こんなところを切らないわ。」
民生はその教諭の言葉を裏付けるように、改めて告げていた。
「実は、昨夜、詩音さんの座席を見にいったんだ。色々あったけど、酷かったね。特に椅子なんかカッターの刃と画鋲がギッシリ。念の為、写真も撮っておいたよ。」
詩音はまだなにも言わない。
「写真にも写っているけど、あの椅子に血の跡があった。多分だいぶ古い血の跡だけど、詩音さんのでしょう?。」
詩音は民夫の顔を見上げて一言だけ答えた。
「私が間違えて怪我した跡ね。」
詩音はまだ取り繕っている。
「間違って?………。そりゃ、普通の椅子なら刃物なんて気づかないよね。」
詩音は何か怯えたような表情をして、また黙ってしまった。
「虐められているね。」
民生はそう言い切り、詩音は否定しようとし、養護教諭は驚いていた。
「詩音さん、いい加減、僕には言ってくれないかな。」
詩音はまだ取り繕っているのか、ニコニコと笑顔を返してきた。
「そうだよね。言い出せないよね。つらいし、ここにさえこられなくなるかしれないものね?。」
民生は詩音のそばに顔を近づけて、宥めるように言葉をつないだ。
「詩音さんは昔から変わっていないね。大切なことになると、いつもだんまりを決め込む。けど、結局はわかってしまうのに。」
詩音の表情が少し歪んで涙が出てきた。
「あれ、おかしいな。なんでもないのに。」
詩音はまだ誤魔化そうとした。しかし、民生は慈しむように詩音に声をかけていた。
「辛かったよね。頑張ってたんだよね。」
「あなたには知って欲しくなかった。」
「どうして?」
「貴方が知ったら、貴方自身を顧みずに突っ込んでいくじゃない!。貴方には動いて欲しくなかった、迷惑かけたくなかった。」
「心配しないで。誰も手出しさせない。」
「でもこんなこと、貴方は私以外でも助けようとするかしら。」
「………。」
「きっと、ためらうでしょ。」
「………。」
「それに、私が貴方に助けられても、あの人たちは必ず別の誰かを虐めるわ。」
「それで今まで耐えてきたのか。俺には笑顔だったのか。僕は君をそんな苦しみに合わせていたのか!。」
「もうこんなことは、虫けらの私だけで充分。」
「君が虫けらなんて。言わないで。」
「でも、貴方は、私がそんな人間だと知っているでしょ?。」
「そう、そう君は考えてしまうからこそ、僕は我慢しないんだ。」
そう言って詩音の涙を拭おうとした民夫の右手が彼女の髪に触れたとき、詩音は民夫の腕にすがりつき泣き出していた。
「みんな任せろ。僕がなんとかする。」
民生はそう言って詩音の肩を柔らかく叩き続けた。
その日のうちに民生は詩音たちの担任の綿井隆二のところへ押しかけていた。
「先生、この写真は先生の担任をしている教室ですよね?。」
「そうだ。」
綿井は民夫の示した一枚の写真を見て、民生を睨みつけながら告げた。
「ここで待っていろよ。」
次の瞬間、綿井は職員室を飛び出していた。民生はそのあとを追っていったのだが、詩音たちの教室で綿井をみつけたときには、詩音の机と椅子は何事もなかったような新品に交換されていた。
「ここにあった椅子と机はどうしたのですか。そこには色々と…。」
傷と誹謗中傷が書かれた机と、カッター刃や画鋲の仕込まれた椅子はもう置き換えられていた。綿井はそれを確かめると、蔑むように民生を見下ろしていた。
「先ほど見せてくれた写真は、この教室だよね。ここに何があったって言うのかね。」
「ここに確かにあったんです。………。」
「何が?。虐めがあるとでも言いたいのかね。」
綿井はイラついて大声をあげた。しかし、民生は食い下がり、言葉を継いだ。
「まだそんな事は言っていません。」
「私のところには何ほどのこともないよ。さあ、出ていきたまえ。」
「しかし、先生………。」
民生はそう言いつつ目の前の教諭にふと疑いを抱いた。'このまま手の内をこの先生に今見せてはいけない。'
「いや、なんでもありません。」
民生は綿井が彼を教室から追い出すそぶりに合わせて、2Dを後にした。
次の日、民生は、権淑香と言う女子生徒から「詩音さんのことで」と、学校の体育館の裏に呼び出された。
「待たせたね。あなた、風の学園の?。」
「私は転校生。権淑香よ。」
「おかしいな。風の学園の権淑姫という人にそっくりですね。」
「えっと、あれは姉よ。」
「えっ、あちらさんからは二人姉妹の姉がいるって聞いていたんだけど。」
この女子生徒は、この高校にしては間抜け過ぎるように思える。民生の細かい質問に耐えられる脳はなさそうだった。しまいには怒り始めている。
「そんな事を問い詰めるためにここへきたの?」
「いやいや、ごめんなさい。クラスはどこなの?。」
「2Dよ。」
民生は絶句していた。淑香は言葉を続けている。
「学力レベルと世界史希望を基にして、そのクラスになったのよ。」
淑香は、なぜ、どのように手を回して詩音のクラスにきたのか。この姉妹は民生達よりも十ぐらい年上に見えたこともあった。今は高二だと言う。年齢を偽っているのだろうか。しかし、目の前には確かにこの高校の制服に身を包んだ高校生がいる。年も民生と同じ学年のように見える。ただ、相当な間抜けにも見えた。そんな事を考えて黙っていると、淑香は民生を目覚めさせるように言葉を継いだ。
「私に考えがあるの。」
「なんのこと?。」
「詩音さんのこと。」
「風の学園からそのためにわざわざ来たの?。」
「彼らがこの状況を知っているわけではないんだけど。もう、詩音さんには限界になっていると判断された方がいらっしゃる。とでもいっておこうかしら。」
民生は戸惑いがあった。彼はしばらく考え込んだ。目の前の不可思議な女生徒がなにをしようとしているのか、見当もつかなかった。
「それで、どうすればいいんだ?。僕はなにをすればいい?。」
「私が仕掛け作りをするから、その時には詩音さんを説得してあの担任が担当する歴史の授業に参加させて!。」
「しかし、大丈夫なのかな。無理ではないですか?。」
「少しだけでいいから。明日の歴史の時間に校長の見回りがあるらしいから、それに合わせて実行してもらいたいの。」
「なんでそんなこと知っているの?。何かやらかすのか?。」
「私はどうせ新参者の転校生だから、また転校したってなんともないわ。ただ、この大きな虐めを放って置けないのよ。」
民生は淑香を伴って詩音のいる保健室に行った。しかし、民生は糾弾のためとはいえ、詩音に虐められる苦しみをもう味わって欲しくはなかった。それでも淑香は民生に詩音を説得させた。
「なぁ、詩音さん。耐えられるところまででいい。明日の世界史の時間だけ授業に参加してもらいたいんだ。」
詩音の顔が引きつっていた。
「もう、昨日のうちに机も椅子も新品に交換されている。担任の綿井先生が授業してくれるんだろ。」
詩音は目をつぶって何かに耐えるような表情を示した。
「耐えられないと思ったら、あの教室の校庭出口から外へ逃げ出してきていい。僕が何時も君の傍にいる。」
次の日の三限目、保健室から詩音が教室へ来ると言って2Dは響めきたっていた。
「おい、久々の登場らしいよ。」
男子達は色々な意味で波乱を予想していた。女子は生徒会役員の裕子達の良からぬ企てのひそひそ話を聞きながら、自分たちが火の粉を被らない事を願いつつ、何事もないようになりを潜めていた。
教室の後ろの方がざわついた。詩音が遠慮がちに自分の座席に入ってきた。手には、使い古したような世界史の教科書が大事そうに抱えられている。詩音は静かに確かめるように席についた。机も椅子もおととい綿井先生が交換したばかりの新品だった。誰もが一波乱がある事を恐れ、また確信していた。しかし、最も恐れを感じでいたのは、詩音だった。
私は虫。小さな虫。だから、誰も気にしないで。誰も見ないで。
私は虫。汚い虫。だから、誰も近づかないで。触らないで。
詩音は気づかなかったが詩音のすぐ後ろには、クラスの誰とも未だ打ち解けていない転校生の淑香がいた。彼女は、詩音が席についたときの一連の騒ぎの間も顔を上げなかった。顔を上げていれば、多分察しのいい詩音に気づかれると考えていたのかもしれなかった。
突然圭子が詩音の机に近づいてきた。手にはマジックと彫刻刀を握りしめて、詩音を脅すように足音を立てていた。
彼女は詩音の机にペンと彫刻刀で何かを書き始めた。そこへ美希も加わって、詩音の机はみるみるうちに蔑みと呪いの言葉にあふれた。
「孤児。同潤会のお化け、ゴミムシ、ガイコツ、………死ね。」
詩音はただニコニコしていた。いやニコニコして耐えるしかなかった。しかし、その表情はだんだんと困惑と屈辱にひきつり始めていた。ちょうどその時、担任の綿井先生が入ってきた。
「授業を始めます。席に着くように。」
綿井は詩音に一瞥を投げた。その後に新品のはずの机に目を向けて一瞬凝視した。しかし、傷だらけの机に気づいても、彼はそのまま表情を変えなかった。綿井の様子を確認したのか、圭子達が再び詩音のところへ集まって、今度は机の上に広げた世界史の教科書を奪いにきた。詩音は世界史の教科書を隠そうとしたが、圭子達が力づくで奪いあげ、黒炭で塗りつぶし始めた。腕を押さえつけられた詩音は、無表情のまま黒塗りの作業を見つめている。彼女は両手をぎゅっと握りしめて耐えていた。
綿井はその様子を見た後に、意識的に詩音を指名して読み上げさせた。そこはちょうど黒く塗り潰されたところだった。しかし、暗記していたのか、詩音は思い出しながら読み上げるふりをしてその場をやり過ごしていた。綿井は少し驚いたが、詩音への仕打ちがうまく効果を発揮できないことに戸惑って、しばらく経って再度指名した。この時、圭子が一人で詩音のところへ教科書を奪い、詩音が読み上げようとしたページを全て黒炭で塗りつぶしてしまった。もちろん詩音は立ち上がったものの、今度は声を発することはできなかった。綿井はそれを確認すると詩音を無視したまま次の生徒を指名した。詩音は耐えられず、後ろの校庭口から外へ飛び出していった。
詩音が飛び出した出口のすぐ先で、彼女は強い腕で受け止められていた。当たった時の感覚とムースの香りから、それが民生である事はすぐにわかった。詩音は懸命に笑った。しかし、次の瞬間その表情は脆くくずれた。
「やっぱり辛いね。大丈夫かなと思って我慢してきてみたんだけど、ダメだった。」
それを聞いた民生の目が詩音を見つめた。
「生徒会のみんなに、私は何か嫌なことしちゃったのかな。それとも何か悪いことをしたのかな。」
民生は口を開こうとした。しかし、言葉が出ない。詩音は苦しそうに続けている。
「いちゃいけない、生きてちゃいけないのかな。」
民生はなにを言ってやろうかと、思い巡らした。しかし、言葉は出てこなかった。
「もう死にたい、消え去りたい。いっそ、殺して。」
詩音のこの言葉を聞くに及んでは、民生はただ首を横に振ることしか出来なかった。
詩音は彼女自身の泣き顔を隠したいのか、この世から消えていきたいと思ったのか、民生の制服を掴んでその中に顔を埋めていた。民生はその言葉を受け止めながら、2Dの様子を苦り切った表情で見続けていた。民生は、耐えるように泣き続ける彼女の髪を愛おしく撫で、教室から外に顔を出し騒ぐ生徒達を睨みつけた。その顔は、燃え滾る憤怒で青く染まっていた。
しかし、窓の外を一瞥した綿井はふたたび何事もなかったように声をかけた。
「はい、ハイみんな、席に戻って。窓際の人、外がうるさいから全ての窓を閉めて。」
全ての窓は閉められて民生と詩音は二人だけ締め出されてしまった。その一部始終を録画し終わった淑香は、その騒ぎの中から教室の外へ消えていった。
民生は詩音を支えて、すぐ横にある屋外階段に移動した。民生の匂いが詩音の鼻をくすぐる。黒髪が民生の腕を流れるようにからみついている。詩音は顔をあげた。
「もう泣くな。」
詩音は笑いかけたはずが何も言葉が出ず、再び耐えるような表情を見せた。民生は息が苦しくなるほどの痛みのような涙と、髪が逆立ち記憶が曖昧になるほどの怒りを覚えた。
……………