父の愛
宏は目の前に広げられた詩音の持ち物を確認しながら、自らのこだわりを思い出していた。
詩音は宏の戸籍上の娘だった。現実には、元妻が浮気をして産み落とした娘であり、母親の虐待の末に宏の管理下に移された血の繋がらない若い娘だった。それでも、その幼い娘の哀れな出生、貧しい育ち、忍耐は、宏の心を掴み、宏により子供として、また一人の人間として愛されるために選ばれて生まれてきたと言っても良い娘であった。しかし、早熟の詩音が宏に求めたものは、父性の愛よりも恋人としての愛だった。それゆえ、宏は詩音への愛に悩み続けてきた。
そしていま、詩音が絶望のゆえに宏の近くで、宏に会おうともせずに自殺を図ったことを通じて宏は悔恨を感じていた。彼は詩音に一人で生きていけというべきだったのだろうか。あの時、そばに帰ってやるべきだったのだろうか。そう悩み悔やんでいた。
あの時の詩音はやはり幼すぎた。
………………………
「そうか、君の母さんが。」
詩音と民生からテレビ通話で話を聞いた宏は、しばらく黙っていた。
「詩音、君の母さんは、二度目の検挙だよね。彼女は精神を病んでいる。症状が悪化しているから、もう外に出てこられないと思うな。こんな状況だから、彼女は私を捨てたとはいえ、一度は私の妻だった女だから、私が対応して彼女の処遇をしておくよ。その意味では、もう辻堂のお爺さんと君を襲うことも無い。それに、辻堂のお爺さんが君を僕に預けたのは、お爺さんのところが危険だったからだ。でも、危険がなくなった今、大学卒業までは辻堂のお爺さんのところへ帰るべきだよ。」
「それじゃ、もう会えないの?」
宏の後遺症は脛骨のヘルニアになり、もう飛行機には乗れぬほど酷くなっていた。
「詩音、僕はもう飛行機に乗れないらしい。」
「お父さん」
「少し無理がたたってね。首の古い傷が痛み出して動くのにも制限がかかっているんだ。刺激のない田舎でゆっくりしろとも言われたよ。」
詩音は黙って宏の説明を聞いていた。詩音はまた孤独の寂しい日々を恐れた。しかし、宏は辻堂の祖父を頼るようにと言った。
「僕は君の父親でない。血の繋がりもない。今や父親ではない僕は君に必要無いし、こんな手の掛かる人間は有害無益だ。」
「貴方は私のお父さんです。私にとって必要な人です。でももし、もう貴方が父親でないなら、私が貴方の子供でないなら、私の最愛の人です。」
「多分、君は僕のこの状態を君自身のせいだと思っている。」
「貴方が私のお父さんでない……。それなのに、それなのに私はあなたを傷つけ、この地から動けないようにした張本人。私には貴方がこのようになったことに責任があります。近くにいなければなりません。」
「それは違う。父親だったのだから、この状態になったとしても君が責任を感じてはいけない。君のせいでは無いし、仮にそうであっても僕が君の父親をしていた間のことなのだから、君が責任を感じてはダメだ。そして、今は父親ではないのだから、君には何の関係もない。傍に居てはいけない。」
詩音は考えがまとまらなかった。しかし、それでも詩音の心の中で何かを訴えたい、反駁したいという思いは、余計に強くなった。
「でも…傍に居たい。」
詩音はその言葉を発すると、もう少しで宏には理解して貰えてると勝手に思い込んで、そのまま言葉を続けた。
「私にはあなたを傷つけたことに責任があり、あなたの一生に責任があります。」
「もう父親ではない僕と、君とはもう何の関係もないんだ!。」
後に、宏は強く言葉を返したことを悔やんだ。彼らのやり取りはふたりにとって互いが、互いの愛を何故相手が受け入れてくれないのか、と苦しむ原因だった。それでも詩音は宏との別れを受け入れざるを得なかった。民生は二人のやり取りを聴きながら、詩音の境遇を思い出していた。
一ヶ月のち、詩音は宏の症状やリタイアせざるを得ない事情を説明する一通の手紙を受け取っていた。その末尾にはこう記されていた。
「親愛なる娘、詩音へ。
盛夏の太陽が眩しい季節、いかがお過ごしでしょうか。
こちらでは円高のお陰でいくつかの設備を買い付けることができ、当初の目標を大きく上回る実績を積み上げられ、不随意な身体でもなんとか働いています。脳血栓は落ち着いています。しかし、首にひどいヘルニアがある為、働く時間が制限され、もうあまり飛行機には乗るなと医者に言われています。わたしの会社からは、不動産事業を見てくれれば良いと言われているので、仕事はたまにバンクーバーに出て行くだけで、あとは塩の泉という島の海岸沿いの家で過ごしています。
さて、私は日本に帰れない体になり、日本において来た君のことが唯一の心配です。戸籍の上では父親であり、まだ幼い君について親権を持つ立場ですが、現実には親ではなく、君は自由であり君がなんらかの責任を感じる必要はありません。ただ、私は君のことを心配し、祈る日々です。同潤会住宅であれば、辻堂のお爺さん達と暮らすことができるだろうし、きみはひとりでもいきていけるはずです。
君には、胎にある前から天帝が用意された御言葉がある。心に刻んで進みなさい。
『主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて下さる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていて下さる。』
……君には、君の新しい人生が始まる。そのうち、君は僕を忘れるでしょう。いや、忘れてほしい。僕は、ただ君のために祈って見守っているよ。でも、万一、もし強い君でも耐えられないことがあったら、会いに来なさい。
塩の泉にて
宏」
その手紙の消印は塩の泉と言う見知らぬ島のスタンプだった。詩音は、繰り返し繰り返しその手紙を読み返していた。 そして、しばらく逡巡したあとに、黙ったまま心の中で自問自答を繰り返していた。
「お父さんも私を置いていってしまった。私は一人ここに残っている。きっと私が求めてばかりだったから……。
つまり、わがままだったから?。それなら、愛するってどういうこと?。そばにいてくれることではないの?。でも、お父さん、いや、宏さんは私から離れて立っていて、私のために心を砕いてくれる。そばにいてくれなくても、感じ取ることができなくても、心を砕いてくれるのは、やはりそれが愛なのだろうか。
私にはまだ祖父母という家族がいる。祖父は私に何か教えてくれるかもしれない。そばにいてほしいと思うことは、しばらく我慢しよう………。」