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孤独

 幼子は詩音と同じ病院に運ばれ、荷物の方は警察に運び込まれた。詩音の荷物は、スーツケース一つと鍵付きの箱だった。その箱を淑姫が受け取ってあけてみると、箱の中には詩音の幼い時からの様々な思い出の品が詰め込まれていた。

 淑姫の目にまず入ったのは、白い封筒に丁寧に畳み込まれた書置きのような文章だった。その手紙には、救いを諦めた者、身近な人々にすてられだと感じた者、誰も振り返ってくれない、誰にも近づいてはいけないと思い込んでしまった者の乱れたままの姿が記されていた。


「私は虫けら。

 おぞましいゆえに懲らしめられる者。

 病気ゆえに懲らしめられる者。

 愚かゆえに懲らしめられる者。

 不覚ゆえに懲らしめられる者。

 迷惑ゆえに懲らしめられる者。

 劣等ゆえに懲らしめられる者。


 憐れみの言葉をさえ許されず、

 正義は求める機会を許されず、

 修練と学びの機会を許されず、

 存在する時と場所を許されず、

 罪を言い表す機会を許されず、

 因果応報さえも離れていき、

 残るは生まれていなかったこと、虚無の中に消え去ることを求めるのみ。

 ゆえに自ら憐れみを拒み、正義を拒み、放免を拒み、時空の全てを拒む。

 ただ、ただ、今はあの方の傍にて少しばかりの時を。」


 同封されていた家族写真らしき物があった。そこには宏の若い時の姿があり、やはりこの若い女が宏の娘であることを窺わせる写真だった。詩音はその写真の中の童女であるとみてよかった。この二人は笑顔が自然だった。しかし、その頃の母親の顔には気の強そうな赤い気を帯びた笑顔が浮かんでいた。その姿は、この若い詩音の労苦はこの幼い時以前から始まっていたことを窺わせていた。

 これらを一通り見てとったあと、淑姫は重い気持ちのまま、宏の元へその荷物類を持ち帰ることにした。


 ………………………


 のぞみが詩音に捨て台詞を吐いて走り去ってから三日後の放課後、校門の前にはのぞみと、すっかり風貌の変わった綾子の姿があった。目黒で綾子が自分の母親の悦子を負傷させて警察に逮捕されてから、四ヶ月ほどは経っていた。


 詩音は、彼女が高校へ入学する直前まで、目黒の祖父母宅に居た。それは詩音と祖父母の辻堂夫妻との間で養子縁組をし、親権を宏から祖父母へ移したからだった。これで、詩音は母綾子から隠れていられると思っていた。

 しかし、綾子は、どこから聞きつけたのか、目黒の家を訪ねてきた。綾子は表札を見るなり、鍵のかかったドアを叩き続け、ドアを開けた悦子と鉢合わせとなった。そこでは、気性の激しい二人がまるで見えない牙を交えるかのようなやり取りをしはじめた。

「綾子⁉︎」

「詩音がここにいるんだろ。返せよ。」

「ここにはいないわよ。居たとしても会わせない。子供が爪に火をともすようにして稼いだ金を横取りしてギャンブルに全部使っちゃうなんて、親の資格は無いわよ。」

「そう言うお前達。あたしをこんな苦しい人生にしたのは、お前達だ。」

「貴女は素直でなく、頑固で我慢をしようともしない。私たちは何度となく警告して来たはずです。」

「だからって、親、親と勝手に宣言するなよ。あたしだって詩音の親だよ。」

「あなたにはもう親権はないはずよ。」

「誰がそんなことを言ったんだ?。詩音か?。宏か?。詩音がいないのにお前達が知っている、と言うことは、宏が言ったんだな。と言うことは詩音はまだ宏のところか?」

 綾子は悦子に掴みかかり、悦子を叩きのめしていた。泰造は、そのやりとりを聞いて、彼女らが言い争うその間に、詩音とともに勝手口から家を出ざるを得なかった。

「あたしが苦しんでいるのは、お前達のせいだ。借金ぐらい肩代わりしろよ。」

 詩音はそう叫ぶ綾子の響く声とくぐもった声で呻く悦子の声を聞いた。悦子は綾子のギャンブルの借金返済を拒否し、綾子は拳で悦子を叩いていた。綾子が諦めて出て行った後には、口から泡を吹いた悦子が脳梗塞を発症して倒れていたという。

 その後、この事件で逮捕された綾子は、最近執行猶予付きの判決が下りた。解放された綾子は、東京から離れた見知らぬこの界隈に住んでいたのだった。


 四月になってから、詩音は進学校として有名なこの高校に入学した。詩音はまさか、母の綾子が高校の界隈に住んでいるとはつゆほども知らなかった。綾子のほうは市の職員との何気ないやり取りから、詩音の進学先を突き止めていた。それでも、詩音は田山から辻堂に姓が変わり、彼女の風貌は綾子が想像できないほどに変わっていた。彼女の髪は長く伸び、胸のあたりが豊かにふっくらとしていた。

 執念深い綾子はそんなことでは諦めていなかった。ただ忍耐力に欠ける彼女は直ぐに直接的な行動を起こしている。高校の生徒達に聞いてまわることは、当然警戒されるのだが、綾子は頓着しなかった。

「田山詩音という子を知っているかい?。」

「さあ。」

「そんな子はいませんよ。」

「髪の短いガリガリの女の子なんだが。」

「この高校にはいませんよ。」

 綾子は否定されていても、自分が手に入れた情報にこだわり続けていた。


 そんな時にやはり近所に住む遠藤のぞみとその双子の兄カズトが綾子に目を合わせながら近づいていた。カズトはしばらく周りの様子を伺いながら、三人だけになった時に目で合図しながら電柱の影で綾子に話しかけた。

「おばさん、人を探しているんだって?。」

 綾子はカズトを捉えて逃がさないよというように目で睨みを利かせていた。

「そうだよ。あんたらは?。そうか、この高校の生徒さんだね。」

「ああ。」

「人を探しているんだよ。」

 カズトと綾子は互いを品定めしながら、互いを値踏みするようににらみ合っていた。彼らの態度に不安を感じたのぞみが横から口を出した。

「おばさん、もう学校では有名ですよ。先生達なんかも、警戒してますよ。」

「そうかい。」

 綾子は自分が警戒されていることにようやく気づいた。しかし、計算することさえ煩わしくなっていたこの時の綾子は、気にするつもりはなかった。

「そんなのは構わないさ。それより、私に話しかけてきたのだから、ちゃんと話しはできるんだろうね。」

 綾子の声は少し太い。しかし、兇状持ちのような目つきも相まって、その問いかけはドスが効いていた。のぞみはその言葉の赤い響きに震え上がったが、カズトは平然とした顔をして答えている。

「もちろんさ。でも、見返りが何もねえなんて、虫が良すぎるんじゃねえの?。」

「ほほう、私に金を出せとでもいうつもりかい。それとも、私を軽く見ているのかい。」

 その次の瞬間、綾子の左手に刃渡り二十センチほどの得物が握られ、カズトの顎先で寸止めされていた。しかし、カズトの長い手の先にはサバイバルナイフが綾子の胸の先に寸止めされていた。

「金がねえなら教えねえよ。」

 カズトがそう言いつつさらに組み込もうとした時、カズトの言葉は赤く響き始めていた。それはまるで綾子の赤い声がカズトの声に共鳴するように広がった。それを見たのか、急にのぞみは変なことを言い出した。

「いいの。金がなくても。」

 のぞみが言い出した言葉に、二人は睨むように振り向いた。カズトは怪訝な顔つきで妹の顔を覗き込んだ。

「のぞみ、お前何が言いたいんだ?。」

「私、あの子がいなくなればそれでいいの。」

「あの子?。」

 綾子が何かに気づいたようにのぞみを見つめた。

「おばさん。田山詩音を探しているんだって。」

「そうさ。」

「辻堂詩音という子はいますよ。旧姓が田山というらしいです。」

「なんでまた急に教えたくなったのさ?。」

「だって、辻堂が民生の前から消えればそれでいいの。それに、カズトが怪我するのは嫌だったから……。」

「何言っていやがる。まあ…のぞみがよければそれでもいいや。」

 綾子はその話を聞いて何食わぬ顔をしながら、心の中で小躍りした。

「そうかい、それなら誰がその子が教えてくれるかい。」

 のぞみは綾子を促して電柱の影から校門を眺めていた。

「あれが詩音さんです。」

 のぞみはそう言って指差した。それを聞くと、綾子は確かめるように詩音を眺め、次の瞬間鬼の形相に変わっていた。その顔を見たカズトは、逃れるようにのぞみの手を引いて駆け去って行った。


 詩音は校門を出たところから、鋭い女の視線を感じていた。その視線の方向には綾子の異様な視線があった。そして、彼女の手にはキラリと光る金属片が見えた。詩音は反射的に大宮駅へと走り始めていた。しかし、綾子は鬼の形相で追いかけ、徐々に距離を詰めて来た。畑沿いの細い道で追いつかれると思われた時、後を追いかけてきた民生が、振り向きざまに詩音をかばい、綾子の前に立ちはだかった。綾子は背の高い民生を見上げて大声をあげた。

「あんた、何だよ。じゃまするんじゃないよ。」

「何をする気ですか?」

 綾子はナイフを突き出した。その姿には赤い闇の陰気が取り巻くように見えた。民生は空剣に手を添えるように構えた。綾子は何かに気づいたように民生をしばらく睨みつけていた。「あんた、民夫か?。そうか、それなら二人ともあたしをバカにしているのね。」

 民生は答えなかった。

「私が何の用意もしないで、ここに来るとでも思っていたのかい。」

 綾子の構えは、名の知れぬ妖術のようにも思えた。民生は詩音に逃げる隙を作り、綾子を睨みつつ立っていた。「辻堂さん、早くにげて。」 飛び込んで来た綾子を民生は軽く掴んでナイフをとりあげ、綾子は民生に取り押さえられていた。時をおかず、教師たちや警備員が駆けつけていた。それでも綾子は民生と詩音を睨みつけて暴れ続け、呪い続けていた。

「詩音、この親不孝者、恩知らずめ。」

 詩音は母綾子の昔の言葉を思い出していた。哀れな綾子は母親というより、もはや金づるを脅すたかりに過ぎなかった。警備員達に身柄を確保された綾子は、それでも黙らなかった。

「育ててやった恩を裏切って逃げ出しやがって。お前はあたしの娘なんだから、稼ぎは全てあたしのものだよ。この泥棒め。」

 民生はたまらず詩音をかばって綾子の前に立った。

「言っていることが酷すぎる。詩音さんがどれだけ泣かされて来たか、改めてわかりました。貴女は…」

「母を悪くいわないで。お、お願い……。」

 詩音は民生の背中に縋りついた。本当ならば母である綾子を逃がしたかった。詩音は、中学の時に詩音の稼ぎを全て奪って行った母と、その時に詩音をかばい続けてくれた民生の姿とを思い出していた。


 二人の目の前で綾子は検挙され、連行されていった。そのあと、民生は詩音を同潤会住宅までおくりとどけてくれた。しかし、詩音は孤独だった。やはり民生は少なくとも詩音のものではなく、宏は遠かった。

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