危うさ
淑姫は、若い女のメモを現場に来ていた島の保安官に提出した。保安官はそのメモから、彼女が泊まっていたbed and breakfast の家を探し当てた。保安官によれば、詳しくは現地に行かないとわからないが、やはり、荷物などが置き去りにされ、しかも、部屋には幼子まで居るという。ちょうど今先ほど、オーナーの老夫婦が戸惑いつつ保安官に連絡を入れた直後だった。
「ヘンダーソンさん、今日は。」
「ビル、随分来るのが早いね。」
「今回はたまたまある事件の関係先が此処だったものですから、早く来たんですよ。」
「事件の?。」
「そう、若いアジア系の女が、海岸で入水自殺を図ったんでね。」
「この女の人が、かい?。」
「違いますよ。あいかわらず早とちりですね。」
淑姫は二人の罪のないやりとりに、微笑みを含まざるを得なかった。
「実は、自殺を図った女は……。」
「ああ良かった。図ったということは助かったということだね。」
「まあそうです。」
「それなら事件なんてほどのことはないね。良かった良かった。じゃあ、そちらの話はおしまいか?。」
「あの、話を聞いてくれませんか。」
「聞いたじゃないか。女が助かって良かったって。」
「その女の手には、この家の標章が付いたメモ用紙が使われていたのです。」
「そんなことより、うちに泊まったある女の娘と荷物が置き去りにされているんだよ。それで来てくれたんでないのか?。早くなんとかしてくれ。」
「だから、自殺を図った女の荷物が残されていると思って、お伺いしたのですが。」
「そんな荷物なんてないよ。こっちの子供と荷物が問題なんだってば。」
「……。ヘンダーソンさん、では、その子供さんと荷物とを見せてくれますか。」
「ビル、初めからそう言えよ。」
ビルと呼ばれは保安官は、淑姫を見ながら肩をすぼめた。淑姫は保安官の若者の忍耐強さに敬意すら抱いた。警察官には粘り強さが必要であることがよく分かる。荷物には、上原詩音と記されたパスポート、そして娘のパスポートが発見された。娘はどうやらサラという名前らしかった。淑姫は保安官にその娘の母親の身元引き受け人であって荷物の引き取り主が、淑姫の雇い主の親戚であると説明した。
彼女はやはり詩音だった。詩音は物静かな娘だが、淑姫の記憶の限りでも、昔から時として周りが想像もしない気の強さと、危うい行動を見せるときがあった。
………………………
学園では、既に万緑の候となり、生徒達も眩しい夏服を纏う。そのような季節、期末テストも終わった試験休みになって、詩音はひとり学校の自習室に来ていた。彼女は一人でいると、中学生時代に戻ったように再び寡黙で孤独な雰囲気を醸し出している。
他の生徒はちらほらするほど。彼女が自習室に持ち込んだ教科は英語、数学、化学だった。母の家系にも宏も理科系が得意であるとは聞いたことがなかったが、詩音はコツコツとそして生まれつきの閃きに多く助けられ、数学と化学の復習と英語の予習をトントンと済ませた後だった。
詩音は、また届いたカナダからの手紙を読み返していた。
「最愛の娘、詩音へ。
こちらも夏を迎えました。バンクーバーは今、観光の季節です。
僕と会社の同僚達はいつもトーテムポールのある公園でランチボックスを楽しんでます。ピクニック気分になれるのは、今の季節だけです。僕の不動産投資のビジネスも、こなす件数がだんだんふえてきて、幸先の良いスタートを切りました。僕はこちらの法人の代表者になっているので、忙しいのですが、部下達が育って来ればどこかの別荘地にセカンドハウスを得るつもりです。セカンドハウスが得られたら、首の骨が痛みを増しているので、今後は仕事の量を少し減らすつもりです。
この首の痛みに君は責任を感じないで欲しい。この痛みは、ワークステーションでの仕事にも一因があるのだそうだ。それでも、セカンドハウスでの生活が、症状を軽くしてくれるのではないかと期待をしているのです。別荘地の候補はいろいろあるのだが、島が良いか、山が良いか、海岸沿いが良いかと、様々に考えています。交通アクセスの問題もあるので、まだまだ検討には時間がかかるでしょうね。決まった頃には、君も大学生になってこちらへ来ることができるでしょう。
さて、生活のリズムは崩していないでしょうか。朝は必ず食事をとってください。自分で食事を作れるように、いつも手配してありますから。まだ私のところへ来る前から、料理も洗濯も自分のことはできていたと思います。
身の回りの安全にも気をつけて欲しい。会社の施設としてガードマンを常駐させていますから、家の中にいる限り、安全です。しかし、登下校の際や、街中へ遊びに行く際には周りに十分気を配って、いつでも走り出せるようにしておいて欲しいです。
君はなかなか助けを求めようとせず、いつのまにか追い込まれていることが多い。いつも助けを求めなさい。必ず周りの人が助けてくれます。
君の勉強の方は如何ですか。僕にはよくわからないのですが、君は理科系に向いているとのことでしたね。医者になりたいといっていたことを覚えています。僕自身も僕の家族や親戚達もみな文科系でしたから、僕は医学部への道、医者への道がどんなに大変かを想像すらできません。やはり、君は僕とは別の血筋なのでしょう。それでも、努力家の君ならば、万難を排して突き進んでいけるでしょう。
今は、努力と研鑽の時期なのでしょうから、暇はないのでしょうけれど、大学生になったら彼氏を連れてこちらを訪れることをお勧めします。
彼氏はどんな人でしょうか。多分私の知っているあの男の子だと思うが、おとなしい君にとっては未経験の心の動きを経験するかも知れないですね。願わくば、悩みや迷いの生じた時には、祈りの中で答えを見出してほしいです。自らの経験で動くこともまた逃げることも、君にとって良い結果とはならないでしょうから。君の好きな?孤独は、祈りの中で神との出会いを経験させるでしょう。あなたが新しい愛を見つけられるように祈り願っています。
父、宏より」
詩音はこの手紙を何回読み直しているだろうか。手紙の中にはメープルの葉がしのばせてあり、甘い香りが今でも漂っている。寂しそうな詩音の顔には、耐えるような表情と食いしばる口元とが浮かんでいる。それでもその目には涙がこぼれ始め、周りからそれを隠すように俯いている。手紙にいくつものシミがつき始めているのは、詩音の涙だろうか。
昼過ぎになった。休み中とはいえ、放送委員会が縮小されたプログラムで昼休みの校内放送をし始めた。詩音が持ち込んだ弁当を開いた時、自習室の隅の方にいたらしい民生たちがやってきた。普段なら静かな自習室だが、試験休みの上に夏休みが近いこともあって、数人だけの室内は砕けた雰囲気であった。どうやら民生と最近形成された彼のファン達らしかった。
「田山…辻堂さん。」
民生が詩音にそう呼びかけた時、民生の後ろ周りにいた女子たちはざわついた。彼女たちは、佐橋裕子、井上美希、青木圭子たちであり、民生と同じ国立受験クラスだった。裕子は、詩音を横目で見ながら詩音にも聞こえる聞こえるように、多少の小声で仲間の女子生徒に話しかけている。
「辻堂さん、だって?」
美希は驚きを隠さなかった。
「あの一番の子?」
圭子は共通の敵を指摘するかのように、言い放っている。
「美人ね。」
民生が後ろに一瞥をすると、声は消えた。しかし、彼女らの嫉妬と多少の悪意は、詩音に昔を思い出させるに十分な仕打ちだった。詩音は再び無口になった。
「帰る。」
詩音はやっとの事でそう言い、片付けて出てきてしまった。しかし、民生は後ろから詩音に追いついた。
「待って。」
「可愛い女性たちに囲まれていいわね。」
嫉妬して出た言葉に詩音自身が驚いた。詩音はさらに顔を赤く染めて立ち去ろとした。他方、詩音の言葉にうろたえた民生は詩音の細い腕を掴んで離さなかった。
「痛い。」
詩音はそう言って民生の顔を見た。詩音のなみだ顔に民生は思わず謝っていた。
「ごめん。」
詩音は民生をおいてそのまま帰ってしまった。
裕子達は、民生の狼狽した姿が面白くなかった。彼女らの中で一番近いのが遠藤のぞみなのだが、この時に彼女は偶々そこに居なかった。のぞみよりも民生に親しいわけでもないのに、特に裕子は面白くなかった。裕子の心の中では、のぞみの代わりに民生を窘めなければならないなどといういささかでしゃばりな考えが生まれていた。裕子は民生の脇をすり抜け、美希達を残して詩音を追いかけた。民生は慌てて裕子を止めようとしたが、裕子は走り出していた。
校舎の裏手で裕子は詩音に追いついた。詩音は昇降口の陰に隠れて涙をぬぐっていたところだった。その詩音の姿を見て、裕子は余計に怒りを感じた。
「あんた、何様のつもり?。泣いて気を引こうなんて、十年早いわね。」
「そんなつもりじゃない。」
詩音はそう言い返そうとした。しかし、詩音を睨みつける裕子の目は、そのまま詩音を凍りつかせて逃さなかった。
「成績がいいわりには、泣き虫ね。そう、その涙で小さい時から民生をたぶらかしていたのね………。幼馴染だからっていい気にならないでよ。あんたと、民生や私達はクラスも違うのよ。」
詩音は耳を塞ぎたかった。しかし、裕子はそれを見透かすかのように、自分の立ち位置を詩音の正面にわざわざ移動した。彼女はその足音を、詩音を追い詰めようとする気迫とともに詩音にぶつけていた。
「何か言ったらどうなのよ。」
詩音が何かを言えるわけもなかった。しかし、その控えめな態度がかえって裕子には彼女を蔑んだ態度のように見えた。
「私は、貴女に何も………。」
裕子は被せるように
「なに?。あんた、何も感じないわけ?。そうね、学年一位には、私たちなんか眼中にないんでしょ。それなら覚えてなさいよ。必ず貴女には………。」
「おーい、辻堂さん。」
民生が頭上の階段から詩音達に声をかけてきた。そのため、裕子の言おうとした本音が遮られていた。言葉を遮られた裕子は上を見上げながら怒りを増していた。詩音は民夫の呼びかけには答えず、逃げ出すチャンスを見つけたとばかりに外へ飛び出していた。民生は階段を下りることをまどろっこしく感じたのか、二メートル以上の高さから飛び降りて詩音においつこうとした。裕子はその勢いと剣幕に驚いて、民生に声をかけるのを一瞬ためらった。
「待って!。民生!。」
既に外へ走り出していた民生に向かって、裕子は呼び止めた。しかし、裕子は口惜しかった。民夫の小さくなっていく背中にその声が届くはずもなかった。
詩音は門を出て駅とは異なる左手方向へ飛び出していた。彼女は急に駆け出したせいか、校門のそばに涙を拭いていたハンケチを落としてしまった。しかし、一瞬留まったものの、後ろからくる民夫の声に気づいてまたそのまま走り去っていった。民生は走りながらそのハンケチを拾い上げ、速力を高めながら校門を走り抜けていった。
学校の裏手には広大な公園があった。夏の午後だったせいか、無人だった。詩音は木々の間へ隠れこむようにして、そこへ止まった。民生はその前を通り抜けたものの、詩音の気配に気づいたのか、詩音の潜む木々のところへ戻ってきていた。民生は詩音の息遣いに気づくと、しゃがみこんでいる詩音のそばに立って詩音の腕を先ほどよりも強く握っていた。
「上原君、痛い、痛い、離して。」
そう言って詩音は逃げようとしたが、民生はもう躊躇もなく握った詩音の腕をぐっと引き寄せていた。詩音はもう片方の手で民生の胸板を押しとどめようとしたが、民生はそれに構わずに詩音を抱え込んで逃すまいとしていた。詩音は気が抜けて民生に自らを預けるように倒れこんでいた。
暑い太陽と木々の間を抜ける風だけが、二人を引き留めている。若い汗と吐息が交錯する二人だけの接触は、言葉以外のいや、考えとも呼べない衝動を増していた。
「二人とも待ちなさい。今はいけない。ここではいけない。」
突然に声をかけてきた女がいた。学校関係者がこの暑い時に散歩をしていたのだろうか。スポーツウェアを着ている女は、しかし、それは詩音も民生も馴染みのあった淑香だった。二人は若い気持ちが渦巻いていたところを見られたことで、顔を赤くしながら互いの体を離した。
「二人とも早く帰りなさい。襲い来る悪が、雷雨がくるまえに。」