約旦河(ヨルダン川)を越えて
どしゃ降りが続いている。雷鳴の中を二人乗りの自転車が道を急いでいる。
「どこだかわかっている?。」
「さっきまで正面に見えていた部落だろ?。」
雄二は一時停まって前方を見通そうとした。後ろを振り返ると、淑香の夏服はずぶ濡れだった。再び走り出そうとしたところで雨脚が強まった。
「早く行こ!」
淑香に促されて雄二は走り始めたが、ハンドルは雨にすっかり濡れていた。
「はやくぅ。」
「じゃあ、先に飛んでいけばいいじゃないの。」
「もう、雨に濡れて機能しないのよ。」
「疲れているってこと?。でも、俺だって自転車をこいでいるぜ。」
数件ほどが旧街道沿いに沿って集まっている部落があった。その中に、「栄光教会」という看板を掲げた小さな家があった。教会堂というにはあまりにも見すぼらしく、看板自身が少し傾いているほどであった。しかし、辻堂泰造が妻の悦子を介護しつつ暮らすようになった新しい仮庵であった。
詩音はそこへ民生とともに祖父の泰造を訪ねていた。間が悪いことに台風の進路が急変し、関東へ地数いているとのことだった。
「雨がひどくなったわ。駅に置いてある自転車を使うと言っていたけど…。」
悦子が心配そうに声をあげた。民生は悦子の顔色を見ながら答えた。
「あの二人が、ご夫妻に早く会いたいと言ってましたので、今日にしたんですけれど。」
泰造は十字架を掲げる祭壇のもとに詩音を座らせて話をしている。
「詩音や、学校を退学になった後、どうするつもりなんだい。」
「今は、民生君たちに迷惑をかけたことしかわからなくて・・・・・。」
「でも、大学へ行きたいだろう?。」
「うん。」
「もう一回、どこかの高校へ入学しなおすか?。」
「どこへ?。」
「通信制の高校とか・・・・」
「私、医学部へ進学したいの…。」
「それじゃあ、受験に強い学校にいくか?。」
車いすの悦子が詩音の近くに来て言った。
「受験校といっても、もう一度受験して入学するのは、なかなか難しいわね。かといって転入する当てもないし・・・・。」
4人とも黙ってしまった。泰造も悦子も、詩音を取り巻く環境が急変したことに驚き、解決策を見出すことができていなかった。
午後三時を過ぎていた。もうすぐ日暮れが近い。会堂中に雨音を響かす雨脚の強さ。会堂の入り口をどんどんたたく音が聞こえてきた。雄二と淑香だった。
「すみません。途中で降られてしまって、迷ってしまいました。」
淑香が高い声であいさつをしている。その二人を車いすの悦子と詩音が二人を迎えていた。
「ずぶぬれじゃない?。二人とも。さあ、入って。奥の風呂場へどうぞ。」
「雄二くん、後ろを振り返らないでよ。」
「えっ、なんで?。」
「ずぶ濡れで透けているからよ。見えちゃうから!。」
それからしばらくは、ずぶ濡れの二人のシャワーやら着替えやらで、小さい会堂は落ち着かなかった。ようやく落ち着いたころ、詩音と民生は泰造の部屋へ呼ばれた。泰造の部屋には、すっかり着替え終えた淑香と雄二が座っていた。
「で、お二人さん。どんなお話なんだい?。」
泰造は詩音と民生に座るようにすすめながら、話を切り出した。
「詩音さんのおじいさんにお願いがあって・・・・。」
「詩音さんが退学になったとしても、僕たちの学園の姉妹校なら通えるように処置してもらえるんじゃないかと…。そのために、泰造さんから僕らの学園の理事長にその処置をお願いできないかなと、考えています。」
「なぜ私なんだい。」
「これを見ていただきたいんです。」
雄二が出したものは、クッションケースに収められた陶器片であった。そこには、「辻堂祐子 、辻堂武史、辻堂泰造、山形勇助」の名前が刻んであった。
「これをどこで・・・・・」
「タオの海です。」
泰造は話を続ける淑香の顔を見て、言葉を失った。
「昔、私たちはあなた方と会っています。ミャンマーで、サイゴンで、タオの海の上で。私は貴方の子孫三代目の詩音さんのために、その子供四代目の為に遣わされているのです。」
泰造だけでなく、詩音や民生も驚き言葉を飲み込んでいた。
「今、私たちの学園の理事長は、山形勇助理事長です。辻堂さんと再び繋がればあるいは今後に良いことが起きるのではないか、と考えています。彼と彼の子孫は貴方の子孫のために用意されていたのです。今、私がここに来ているのは、そのためです。」
泰造、詩音たちは、陶器片を見つめ続けていた。
・・・・・・・・・・・・・
無人の校舎。靴音だけが響いている。建物中を支配し始めた夕暮れの朱。冷え冷えと澄んだ空気。淑香と雄二さえ、この建物と空気には不案内だった。それでも、淑香と雄二は泰造と詩音を学園の中へ連れてきていた。
事務棟の受付嬢は、四人を事務棟の中の理事長室へと連れて行った。
「ここでしばらくお待ちください。」
泰造は、落ち着かなかった。
「すまんが、お手洗いに行きたいのですが。」
受付嬢に案内されたお手洗いは、こぎれいな作りだった。しかし、古い建物らしく、段差の多いところだった。
「なんと、段差の多いところだ。私みたいな老人には不親切な建物だね。」
泰造はそんな独り言を言いながら洗面所の扉を閉めた。しかし、彼は理事長室へ帰ろうとした時に、方向を見失っていた。
「ここはどこなんだろか。案内もない不親切なところだなあ。」
うろうろ迷ううちに、外の音が聞こえてきた。先ほど受付嬢がいた玄関ではない。駐車場に面した通用口。案内版には職員用駐車場と記されていた。
道路からゆっくりと入って来たミニバン。昇降機のモーター音とともに外に出てきたのは、車いすの老人だった。慣れた手つきで段差をやり過ごしたものの、車いすの車輪が溝に挟まって難儀をしていた。
「なんて不親切なところなんだろう。」
泰造はぶつぶつ言いながら、その老人の近くへ助けに行った。介護慣れしている泰造にとって、車いすの扱いは簡単だった。
「押しましょう。」
「あ、申し訳ありませんね。」
「いいえ、私は車いすの介護に慣れていますから、ここは少しお任せください。」
「ありがとうございます。」
「どうもこの学園は身障者に不親切ですねえ。」
車いすに座っている老人は、ぴくっとしたが無言だった。泰造はそれを見て不思議に思ったものの、その老人の負担感に同情して言葉を続けていた。
「段差は多いし、案内板は少ないし、エレベータは建物の端にしかない。いただけませんね。後でこの学園の責任者に会えるそうなので、ひとこと言っておいてあげましょう。」
泰造は軽々と車いすを押していった。
「エレベータの場所は確か・・・・・。」
泰造はエレベータにその老人を案内した後、また迷ってしまった。
彼らが案内されてから、理事長室にはまだ誰も来なかった。泰造は戻っていない。詩音と淑香は身じろぎもしない。雄二は………。立って窓の外を眺め、理事長の席を触る。小綺麗に飾ってある額やプレートを動かしてみたり、手に取ったり。彼はしきりに理事長室の中を動き回っていた。
「雄二、やめなよ。」
淑香は窘めた。そのとき、キュルキュルという音が外に響いた。気づいたのは詩音。慌てた雄二。一同は立ち上がった。
「お待たせして申し訳なかったね。」
車椅子がドアを押し開けながら入ってきた。軋む車椅子。ゆっくり廻る車輪。理事長の山形勇助だった。
「それで、話というのは?。」
淑香と雄二は勇助の正面に座った。
「どこかであったことがあるかな。」
勇助は考えながら彼らに話しかけていた。
バタバタと多人数が階段を駆け上がってくる。杉野校長の後に、青木PTA会長が慣れた風態で入ってきた。少し遅れて生徒会長の佐橋裕子。こわごわと入ってきたのは副会長の井上美希、書記の青木圭子だった。
「理事長、辻堂さんの件はお待ちいただけますか。ここに生徒会役員たちを呼んできました。みんな、こちらへ、どうぞ。」
彼らは勇助と詩音、淑香、雄二をとり囲んだ。
「私達は、辻堂詩音の復学をさせると聞いて、飛んできたのです。」
裕子は詩音に掴みかかった。
「この悪女め。」
詩音をかばうよう淑香と雄二が立ちはだる、淑香は裕子を睨みつけていた。
「そう。もう詩音には助けは来ないわよ。」
裕子は踵を上げ、声を大きくして言い放った。勇助はゆっくりと裕子の方を振り向いた。
「たすけ?。何故助けが必要なのかね。その言い方は辻堂さんが君達に敵対し閉じ込められているように聞こえる。どうして彼女に敵対し、閉じ込めるのかね。」
淑香はかぶせて言った。
「そうね。辻堂さんは単に姉妹校に行きたいと言っているだけ。私達は辻堂さんの為に動いているだけ。私達が誰の敵なのさ。」
裕子はひるまなかった。
「そう言うなら、のぞみを呼んでやるさ。」
同時に、理事長室の外から罵声。振り返る淑香たち。ドアを開けたのは退学処分ののぞみだった。
「圭子さんの母ちゃん、庇ってもらったのに退学しちゃってごめんなさい。でも美希から話を聞いて我慢出来ないから、きちゃった。」
勇助は訳がわからないと言う顔をした。
「なにが我慢出来ないって?。」
「詩音がまた復学するって。それって不公平じゃねえか。こっちは詩音に彼氏を横取りされて、学校も退学になっているんだぜ。」
雄二がすかさず指摘した。
「おれも一緒につるんだ時があったよな。だから知っているんだ。民生はあんたを恋人にしてないはずだけどね。あんたが勝手にそう思い込んでいるんだよ。」
「うるさい。」
淑香は呆れたように裕子に言いかけた。
「裕子、この子が貴女たちの敵対の理由なの?。」
裕子は逆に追い込まれ、悔しがった。しかし、勇助は言った。
「辻堂さんがこんな争いごとを持ち込んでいるのか。だめだなあ。」
明らかに勇助の考えが邪悪な霊に支配されつつあった。淑香は狼狽した。
「裕子、貴女自ら手を出したわね。」
「私がするからには、もうこれ以上好き勝手はさせない。あなた方の味方は誰も入って来られないわ。」
「入って来られない?。結界でも張ったとでも言うの?。」
淑香は周りに注意を向けた。結界は隙がなかった。次第に場の瘴気が濃くなっていく。詩音は立ち続けたものの、雄二と淑香は座り込んでしまった。
邪悪な空気を打ち払うように、岡田議長が理事長室のドアを開けた。
「辻堂泰造さんをご案内してきました。うぅ?。なんで杉野校長が?。君たちがいるのかね。」
勇助は『辻堂泰造』と聞いて、虚ろだった目が動いた。
「あれ、さっきのご老人ではないか。」
車椅子を押してくれた老人。小うるさそうな老紳士。
詩音と淑香が反応した。
「お爺ちゃん!。」
「辻堂さん!。どこへ行っていたのです?。」
案内した岡田が驚いて泰造を見た。
「え?、辻堂悦子さんのご主人?。」
「はい、辻堂泰造です。」
「辻堂泰造だと?」
勇助は目を剥いた。泰造も鋭く勇助を見返した。
「理事長はここにいるのか?。ここの設備の責任者だろ?。文句を言ってやらんとなあ。あれ、さっきのご老人?。貴方が理事長だったの?。山形さんと言うのか?。えっ、なに?。ゆ、勇助か?」
泰造は勇助に歩み寄った。泰造は緩衝ケースに入れた陶器片を勇助に示した。陶器片には「辻堂泰造、山形勇助、辻堂祐子、武史」と記されていた。
「これは詩音さんの泰造おじいさんの物です。」
淑香が説明した。
「これをどこで?。こ、これをタオの海で?。あなた、泰造さん?。ここに来てたのか。わからなかった。詩音さんは泰造の孫だと言うのか?。」
「ちっ!。本人が構内で迷うようにしたのに、もう帰って来れたのか。」
悪態をついたのは、裕子だった。その途端に時間が止まった。淑香は裕子だけに聞こえるように声を上げた。
「退けサタン。」
雄二の聞こえない時空で、淑香は裕子を縛り上げた。
…………………………………………………
固く閉ざされた門。その前をガードマンが守っている。そこは詩音の籠っている住宅だった。二学期なのに、同潤会住宅の一角は静かなままだった。
そこを除けば、秋の空に歓声が響ている。高校は言うに及ばず、同潤会住宅周辺の小中学校にも。一人詩音だけが、奥の部屋の電話の前でうずくまっていた。
「あっ、お父さん。」
「元気か?。」
かかってきた電話の声は宏だった。
「うん。」
「事情は淑香から聞いているよ。退学処分なんだって?。」
「うん………。」
「なんて学校だよ。辻堂のおじいちゃんはなんだって?。」
「私の前で岡田さんという学園の偉い人とお話をしてから、山形さんという理事長ともお話ししていたわ。古いお友達で学校の最高責任者なんだって。」
「どうなったんだって?。」
「勉強は大丈夫よ。学園と提携している塾へ行くことになったわ。」
「でも、高校は卒業できないと、大学へは行けないよ。」
「それが問題なの。おじいちゃんはクラブ活動やクラスメイトがいることが大切だって。通信制高校じゃあダメなんだって。」
「それで?。」
「それで揉めたの。おじいちゃんは最近何回も学園へ行ったらしいわ。おじいちゃんは学校生活やクラブ活動が大切だって。学園系列の単位制の高校へ編入させた上、元の学園のクラブ活動へ参加させろ、だって。」
「そりゃそうだろう。」
「でも、系列でも他校からの参加は生徒会が反対しているんだって。あっ、これは上原君たちが教えてくれたのよ。」
「たち?。他に誰が?」
「石井まりさんと宇津木ひなさん。それに上原君の友達が三人、大石雄二君、片岡潤一君、長尾良介くんだったと思う。」
「大石君という男子もいるのか?。」
宏は怪訝そう声を上げた。
「どうしたの?。大石くんは、民生くんと一緒に私を助けてくれた男子よ。」
大石雄二は、詩音の助けを求めるために淑香の後を追い続けたらしかった。しかし、淑香は単なる男子生徒が相手にできる人間ではなかった。
「彼のためにならない。一緒に行動したとしたら………。」
宏は心配をした。
まどろっこしかった。なぜ、天は淑香と淑姫と言う御使を使ったのだろうか。なぜ詩音を彼の圧倒的な力の下で助けず、苦しみの中に置き続けたのか。それは、人間の自由を妨げない為か。それは愛する故に、自由意志で勝利を得て、忍耐強く育てる為か。
いずれにしても、その淑香と淑姫らによって、また周りの人々によって、詩音には慈しみが示され、未来が開かれていた。
………………………………………………
そこは岩場の続く岩場の海岸線だった。小さな潮溜まり、その水面におちる雪、飛沫と潮騒。大きな石の横を女が海の方へ歩いていく。
しばらく経ってボートが岩場の陰から進んできた。紺色の海、つもり行く雪。男の叫ぶ声が聞こえた。
「居たぞ!。」
声とともに、男が船から海へ。冷たい海水に濡れたままに、男は立ち上がり、大きく息をついた。
「ここで…何を……?。」
海岸に座り込んでいた若い女がその姿を見て驚き、立ち上がった。
「ごめんなさい。」
海岸に着いたボートからもう一人の女が歩いてきた。
「また、入水したのかと思いましたよ。」
男は心配のあまり、大声をあげた。
「詩音、いい加減に………。どんなに僕が君を大切に思っているかを。」
男は横に座り込んだ。
詩音と呼ばれた若い女は、無言のまま首を横に振って視線を落とした。船から降りた女は、若い女を庇いつつ声をかけた。
「宏さん。詩音さんは私が連れて帰ります。任せて下さい………。詩音さん、さあ行きましょう。」
淑姫は詩音とともに宏を残して帰っていった。
宏は気落ちしたまま空を見上げた。宏の耳にも潮騒の音。近づく足音。船長だった。無言のまま。船長は宏に服を渡し、宏と同じ方向を見ていた。
帰宅した詩音はやはり無口なままだった。サラの歓声、「マミー」と言う声。静かな宏の邸宅で、この声が一番響いている。サラは三歳直前に突然に饒舌な幼女に変化した。ふだん甘えるのは無口な母親、遊び相手は淑香や淑姫、いたずらの対象は風変わりで物知りな宏だった。四十代の宏にとって、サラは子供のような、また孫のような存在だった。
詩音は海の見える窓に寄りかかった。時々顔をのぞかせる心細い太陽。空の空気が日本ではなく、西岸海洋性のアメリカ大陸西部であることを思い出させた。詩音は、再び宏の邸宅から散歩に出た。海岸沿いの小道、静けさの中に眠る針葉樹林、先住民にのみ許されるテリトリー。海岸に面したフィシュアンドチップスの店。
詩音は宏のいる島を実感した。様々な創作を行う人々、彫刻、焼物、絵画。刀剣。まだ、それらが受け入れてくれるようには感じられなかった。
詩音は、トリミングナイフを連想した。信じていた医学、末期ガンで死んでいった民生。詩音はもう医者の仕事を再開するつもりはなかった。しかし、それでも、詩音は医者のはずだった。
民生の残した物は、あまりに少なかった。思い出、娘のサラ、最後のやりとりだけだけ。民生は詩音を尽くしてくれたのに、何もしてあげられなかった。
民生は幼い時から詩音を助けていた。母親との苦い過去、再会の記憶、医者を目指した初心。詩音は自分が頼れる連れ合いが必要だった。父のような存在ではなく、詩音も尽くせる相手が必要だった。
様々なことが詩音の心に穴を開けていく。石の詰まった穴。心の中の石たち。穴は大きく、石は重く、詩音の心を引き裂きつつあった。
気が晴れないままに詩音は帰宅した。今日も子育てのサポートは、淑姫達や宏がしてくれている。サラの無邪気な時間、宏の音痴な子守唄、宏の笑顔。サラが眠ってしまうと、二人だけの時間となった。親しいはずの宏と詩音は互いの距離感が定まらない。互いの思いと自分の感情との折り合い、言葉少なな会話。断片的な会話しか交わさないとが、互いが互いのいることで幸せであることを見失わせていたのかもしれない。
ある日、宏はサラを寝かしつけ、散歩に出ている詩音を探しに外出した。どんよりとした雲は、詩音だけでなく宏の気持ちも多少沈んだものにしていた。そんな時詩音は、海の上の風の細かいスケートを見ようと島のフィッシュアンドチップスの店に座り込んでいることが多かった。この島のフィッシュアンドチップスは、肌寒い時にはごちそうである。詩音は、それをほおばりながら海を見ていた。
その後ろへやっと宏が来た。彼は、長い間詩音を探しており、ようやく探し当てて同じテーブルに座り込んだ。
「何を見ていたの。」
「海よ。」
「何か見えたかい?」
「いえ、何も」
「サラがさっき、海の話をしてくれたよ。」
詩音はあまり関心がなさそうに海を見続けている。
「海はその向こう岸が見えないけれど、水があることは必ず向こう岸があることを示しているんだって。」
「・・・・・・」
詩音は何も答えない。
「君は、僕の顔を見ようとしないけれど、なぜなの?。」
ようやく詩音は宏のほうに顔を向けた。少し怒ったような顔をしている。
「私は、あなたのそばに来るために、海を越えてこの島へ来たわ。それなのに、あなたはまだいつも遠くに立っているわ。」
「僕はいつも君や君の娘のそばにいるじゃないか。」
「じゃあ、どうして私はあなたを近くに感じられないの?」
「君はどうしてそう感じているのか?。」
宏はそう聞きながら、この質問をしたことを後悔した。詩音はわかってもらっていない、わかってもらえないと嘆くように首を振って宏の顔を覗き込んだ。
「貴方のことを、私もパパと呼ぶべきなのかしら。サラみたいに。」
その言葉は、言外に彼女を年相応の女として相手にしてほしいと言っているかのようだった。
そんなことがあって、ようやく冬の雨の時期が終わりそうだった。詩音は、宏の寝台へと音を立てずに忍び込んでいた。サラは手がかからなくなり、詩音の心が外を向きはじめたからなのか、島の環境と自然に身体がようやく馴染んだのか、早春の僅かな温かさに刺激されたのかもしれなかった。柔らかいベッド、羽毛布団、宏の匂い。冷えたあし。下着だけの冷えた肌は、宏を目覚めさせるには十分だった。詩音はまとめてあった黒髪を片方へまとめ上げ、首をそのまま宏の腕へとすべりこませていた。
「うむ。どうした?。サラ?。」
この島に宏が来てから、宏のベッドにもぐりこんできたことがあるのは、孫とも言える幼子のサラのみだった。しかし、宏は、かつて血縁でない元我が娘ゆえに避けてきたはずの詩音であることを知って、詩音の髪と肩から両腕を離そうとためらった。しかし、詩音は宏の腕を離そうとはしなかった。
「このままじゃダメですか?。」
部屋はセントラルヒーティングが効いているとはいえ、薄着の詩音を追い出すには忍びなかった。いや、宏には詩音の求めていることがよくわかっていた。わかっているつもりだった。
「私が幼い時に慰めてくれたように、今もお願いしていいですか?。」
詩音が顔を埋めているのを見ながら戸惑った。宏は、彼女にとっていつから自分が父親ではなく、恋焦がれる相手となったのか。いや、父親を演じた宏は今ここに居る。
確かに遺伝子の検査により親子関係不存在の請求は認められていた。その時までは宏は少なくとも育ての親だった。では、宏の腕の中の詩音は、いつから宏の娘ではなくなったのだろうか?。宏が詩音に戸惑いを感じ始めた時に、詩音は既に宏の娘ではなくなったと言うべきなのかもしれない。
宏がそれを悟ったのは、詩音がイニシアチブを取った時だった。向き直った詩音の顔、宏のボタンを外す細い指、宏の首に回した詩音の腕、そしていつのまにか黒髪が乱れ始めていた。
「君は何をしているのか、わかっているのかい。」
詩音は宏の腕の中から宏を見上げている。宏は大急ぎで詩音との口論の準備をしようとした。しかし、それを察したように詩音は細い右腕を宏の首に伸ばした。宏は混乱していた。
落ち着きを取り戻したとき、詩音に繰り返し問われたことは、「そばにいてくれる?」とのことだった。宏は躊躇いがちに一言。
「ここに居なよ。」
「いまだけ?。」
それは、宏も同感だった。
「そんなことはないさ。」
「きょうだけ?。」
詩音が珍しく問いを繰り返した。
「いや、そんなことはない。」
「明日も?」
詩音はまた続けた。
「今週いっぱい?。」
「……」
詩音の上目遣い、宏の胸に寄せる顔。暗闇に紛れながらも、宏は若い娘の表情が手に取るように見ることができた。反駁もしないことを見てとり、詩音はまたつ加えた。
「今月だけ?」
「今年だけ?。」
「わかったよ。ずっと」
宏は、深い接吻という一線を超えたことで、悟ったように語っていた。
現実には、宏は化かされたようなままだった。詩音の肢体、まとまらぬ考え、若すぎる女の寝息と寝返り。心地よい眠り。多少の寝不足が朝方の睡魔を強くしていた。早朝に起こされた宏は、意識が定まらないまま教会に運ばれていた。後になって唯一気づいたことは、淑香や淑姫の画策でいつのまにか結婚することにされていたことだった。結婚に踏み切った理由、それが自分への言い訳のためなのか、淑香や淑姫たちや島の人たちへの言い訳のためなのか………。小さな結婚式。にわかに集まった島の人たち。宏は結婚式をぼんやり過ごしていたが、サラも淑姫たちばかりでなく島の人々までも祝福の席にいた。全ては淑香達の手筈通りだった。
結婚式の後の詩音は、人が変わったように積極性を発揮するようになった。式の日の午後には、こもっていた部屋に戻ることはやめ、急に家の掃除、料理、編み物に手を出していた。営業しか考えていない宏に言わせれば、掃除はロボットに、料理は淑香たちに、それぞれ任せてあるとのことだった。たしかにそのとおりだったが、詩音が見出した掃除機は、ゴミが詰まったままで床のゴミをただ引っ掻き回しているだけだった。台所には、多くの鍋、パン、プレート、オーブンなどが充実していたが、パンのみが使われ、後の鍋類は無造作に重ねられているだけだった。クローゼットに至っては、詩音が見慣れていた営業向きの綺麗に手入れされた服があったが、それ以外は、ファスナーは使えず脇の下と肘とに大きい穴の空いたジャージ、親指と踵に穴の空いた靴下、裾は擦り切れ膝と尻とポケットが綻びたままのズボン、テカテカになったコート、………。淑姫や淑香は,宏の下で働いているらしかったが、宏の身だしなみまでは手を出していなかった。
確かに処理しなければならない家事は多かった。しかし、詩音は張り切りすぎた………。彼女は確かに料理、洗濯、掃除、家計管理などは、中学時代の経験から、しっかりとしたスキルを持ってはいた。しかし、子育てから宏の身の回りまで一度にやろうとしたことが、長続きするはずもなかった。
詩音は四日も経たずリビングで倒れこんでいた。全てを直ぐに処理したいという詩音の気持ちは、宏にも手に取るように分かった。やはり、宏の予想した通りであった。
詩音は過労だった。彼女の体温はすでに三十九度かにまで達していた。たまたま早くきてくれていた淑姫たちにサラを任せ、宏は詩音を抱き上げて彼女の部屋へ運び込みながら、発熱したローティーンの詩音を看護した昔を思い出していた。彼女の発熱のパターンからすると、適切な処置を施せば、熱が引くことはわかっていた。
一通りの処置が終わって気づくと、置き手紙とともにサラと淑姫たちは、どこかへ出かけていた。置き手紙には、
「サラさんを一晩お任せください。森へお連れします。」とだけ書いてあった。淑姫たちの住まいはその林のあたりにあるのかもしれなかった。
宏はその手紙を持ちながら、気を取り直して詩音の元へ戻った。
「ごめんなさい。もう大丈夫です。」
目を覚ました詩音はしきりに謝り、再び働こうとした。
「熱が引くまで歩くのは禁止!。」
「でも、料理はどうするの?。」
「残り物でなんとかなるし、フィッシュ&チップスでも良いね。」
「掃除は?。掃除機は?。」
「放っておけば、淑香たちがやってくれるよ。」
「つぎ当ては?穴の空いた靴下は?」
「そんなものはないよ。見たことないもの。」
「みたことがないって?。タンスの中にはお出かけのスーツで、まともなものがありませんでした!。」
「他人に会う時には営業用の綺麗な服を着ているさ。あとはどうでもいいよ。」
詩音はふと宏の服の袖をつまみ上げた。やはり宏は、ヨレヨレの袖口と肘の穴とがそのままのワイシャツを着ている。
「…………。」
詩音は熱が下がり、汗をかいた顔で宏の目を覗き込んだ。宏は何かしら答えることを要求されていた。
「わかった、わかったから。でも、せめて明日までは休もうよ。」
「それなら、明日まであなたもお休みください。」
詩音は淑姫たちの手紙をチラリと見たのか、なぜか明日まではと、休むことに同意した。しかし、その夜、詩音はうたた寝していた宏に対してイニシアチブを取り、戸惑う宏を眠らせなかった。
「宏さん、改めて新しい家族になれた気がします。」
詩音は外していた下着の肩紐を掛け直しながら、まだ横でうつらうつらしている宏の耳元に囁いた。
次の日には、詩音は、なんでもなかったかのようにまた働き始めた。過労にはならないように注意はしているものの、若さと情熱がそうさせているのか、または宏の柔らかい目がそうさせているのか、いや、詩音の宏への思いがそうさせていた。彼女にとって何が嬉しかったのだろうか。
そんな生活が始まって二ヶ月目だったろうか。サラを世話していた宏に、淑香が近づいて耳打ちをした。
「本人は薄々気づいていますが、詩音さんは懐妊しています。」
そうして、二番目の子、歌音が、与えられた。 それを現実のこととして受け入れられたのは、その後二ヶ月経った六月のサラの言葉だった。
「やっぱり、じいちゃんは、パパなんだよね。」
「そうだな。ようやくわかったよ。詩音は片親で育ったから、愛情をより欲しがるんだよな。僕も知っていたはずなんだ。だから、詩音を大事にしたくて、好きで好きでたまらなかったんだ。」