待降 その一
火のように泣く赤ん坊を男が抱えて飛び出してきた。
「泣くな。」
短くつぶやきながら、男は走って庭の外へ。白い布を持った女が血相を変えて男の後を追いかけていく。男の駆け込んだ木々の向こうから、火がついたようになく赤ん坊の声が響く。男は表の庭から道路へと出で行った。
「淑香ぁ!。」
怒号が男を追い掛ける淑姫にも聞こえた。彼女はためらわずに木々の間を走り抜け、男に追いついた。
「何をするつもりですか?。」
男は漸く立ち止まった。赤ん坊を抱える男の腕は、異臭の液体に塗れていた。
「そうか、気持ち悪かったから泣いていたのか。」
「だから、オムツ(ナッピイ)と言ったじゃないですか。」
「なんで掛物が必要なんだよ?。」
「子育てしたことがあるはずですよ。はい、これが良いですよ。」
淑姫は白いパンパースの包みを宏に渡した。
「淑香は、今裏庭です。」
冷涼な西海岸。海からの風とやや弱い日光。海岸に並走する砂利道。赤ん坊をめぐる大騒ぎはこの道の上で広げられていた。道を戻ると宏の住むバンガロー風の建物、その奥に寝室があった。詩音は、ここへ引き取られてからこの寝室に引きこもっていた。光を落とした寝室、虚ろな瞳、籠る呼吸。詩音を気遣う宏、この家族を見守る淑香達。
淑姫たちの目には、もう一つの風景が見えていた。全てを通り抜けて吹き上がる洸。それは人間には見ることのできない宏と詩音、サラに振り注がれる愛だった。淑香達は今まで辻堂家を支えてきた。人間の記憶、十代のままの体。それは、今も宏を支えることを命じられていたからだった。
サラはもうすぐ九か月。詩音はもちろん淑姫や淑香に抱かれてもよく笑う。あまり泣くことはないのだが……宏が来ると途端にサラは泣き出す。引き攣りオロオロする宏と怖いもの見たさで宏を見るサラ。こんなはずではなかった。実に詩音が赤ん坊の頃以来の育児だった。
しばらく経つと、サラは伝え歩きを始めた。大人達は、危ないと言っては追いかけ、泣かれては滑稽な百人面相を工夫し、離乳食やオムツ替え、沐浴、着替え、洗濯、写真撮影に夢中だった。
宏は、詩音を自宅からしばらく動かすつもりはなかった。昨夜、詩音が訴えたことは、虫けらであっても愛されているなら、目立たぬところにそっと置いて欲しいということだった。詩音の傷と孤独、母親による虐待とネグレクト、宏への願い。彼はこれらをよく知っていた。それゆえ、宏は機会あるごとに詩音へ愛を注いできた。
しかし、宏の愛は詩音にとって求めた愛とは異なるもの。不足し、またかけていた。宏には分かっていたはずなのだが。互いに父娘ではないと認識していたはずなのに、彼女の若さと思いの強さを恐れて逃げていたのだろうか。父の愛以外の愛を知らなかったからだろうか。今はもう、言葉ではなく彼の手と腕で答えるべき時だった。
今は、サラが彼らの中心にいた。泣き、笑い、怒り、愚図る。皆、悩んでいることなどすっかり忘れていた。詩音たちが来る前の静けさは忘れ去られ、無表情だった詩音も次第に母親の顔を取り戻し始めていた。
それは、昔、宏が聞いた、詩音を受け止めた民夫の覚悟を思い出させた。
………………………
夏休みの中頃、詩音だけが退学になるらしいことが、民生たちにも知られるようになっていた。
民生だけが校長に掛け合ったものの、
「素直にしていたまえ。さもなくば、君も退学だぞ。」
と言われては引かざるを得なかった。雄二や良介達も、それを知るがゆえに彼らから校長に働きかけをしているのだが、埒があかなかった。それどころか、民生ばかりでなく、署名を集めていた雄二達も生徒会の裕子達からあからさまな嫌がらせを受けるようになっていた。
しかし、彼らは諦めてはいなかった。
ある日、民生や雄二は、学園から出たところで、たまたま帰宅しようとする淑香の姿を見かけていた。
「会って助けてくれるように頼まないと。」
彼らは頼み込む一心で淑香のあとを追い始めた。ゆっくりに見えた淑香の歩み猛スピードの民生達。二人を拒むように距離を空ける淑香の足。……淑香は、夏休みの中頃から、男子高校生がつきまとっているのを認識していた。彼らが民生とその友人たちであり、詩音のために活動していることも知っていた。特に雄二は少しばかり淑香に関心を持っている、淑香はそれらのことを十二分に承知していた。しかし、彼女が逗留しているところを知られてはならなかった。
民生は懸命に走り続けていたが、次第に淑香の速力について行けなくなった。
「何で、……あんなに……速いんだ?。……。ついていけない。」
「分かった。」
自転車だった雄二は見失うまいと必死だった。
学園から東へ、ここは122号国道なのだろうか。鏡面のような道路、だれもみえない前後、ただ目に入るのは滑り去る淑香。雄二は時速三十粁は優に超える速度で走っていた。突然、雄二の行手の道路は、曲がったその先が草はらばかりの中から高く空へ延びる道となって続いていた。雄二は立ち止まって周りを見渡した。彼は、いつのまにかに淑香を見失っていた。
「ここはどこだろう。こんなところまで、首都高速道路が延びていたか?。センターラインのない田舎道が、首都高速であるわけないか。」
止まってみると、周りには田畑がなかった。夏というよりも、まるで秋の野原のように枯れ草の上を霧が走り去っていく。携帯電話の電波は、かろうじて届いた。声は変質している。
「雄二、今どこだよ。」
「どこだかわからない。周りは草はらばかり。俺の端末だと、蓮見から動かなくなっているんだよ。」
「え?。あんまり良くない状況だな。戻ってこいよ。」
「でも、どの方向へ行けば良いのやら。」
「自転車の向きを反対にしてみろよ。」
雄二は言われた通りにして振り返った。堤を見上げると、芝川と言う看板。その横から民生が雄二を呼んでいた。
「雄二、そんなところで何しているんだ?。」
雄二は、スタンドを川の中に立てた自転車を、空回りさせていただけだった。
次の日、民生や雄二達は補習から解放され、帰ろうとしていた時だった。雄二の自転車のカゴに絵柄の封筒に入れられた置き手紙があった。
「誰だよ。」
民生や潤一、良介もカゴの中を覗き込んだ。
「だれからだ?。」
「封筒が乙女チックだな。」
「女からか?」
「夏の恋!。いいねえ。」
雄二は黙ってその手紙をカバンの中へしまい込んだ。
「へ?、今読まないの?。」
「うるせえ。」
「折角応援してやろうと思っていたのに。」
「応援じゃないよな。野次馬だろ。」
「だから、種馬の応援を………。」
潤一がそう言い終わらないうちに、雄二は潤一の頭を小突いた。
「いてえ!。」
次の日、雄二は手紙を補習の教室へ持ってきていた。良介は目ざとく雄二の手元の手紙を見つけて彼を冷やかした。
「よう、色男。その手紙はデートの誘いだったんだろ。」
「いやー、様子がおかしいんだよ。」
二人が話し合っているところに潤一も来た。
「よう、種馬!。いいね、リア充は………。」
続きを言おうとした時に、良介が首を振りながら潤一を見た。
「確かに女子生徒からの手紙なんだが、ちょっと様子がおかしいんだ。雄二に、『願い事を叶えられるかどうかはわからないけれど、友を助けたいなら夕方に屋上へ来い』、とさ。」
その時、民生が入ってきていた。彼は渡されたその手紙を手にとって驚いていた。
「権淑香?。あの人、高校生か?。」
良介が怪訝な顔付きで民生に問いかけた。
「それってどういう意味?。」
「彼女は辻堂さんの通っていたフリースクールに居たんだよ。事務の人だと思っていたんだけど…。」
「事務員?!。それって大人だろ?。」
「でも、裕子たちや辻堂さんと同じクラスに居たよなあ。」
四人は指定された午後一時に屋上へと上がっていった。床のシール材が溶けるほどの炎天下、金網の外を見つめる女子生徒。確かに彼女だった。
「権淑香さん?。」
淑香は振り向いた。照り返しと直射日光、汗の筋一つも見せない顔。雄二は、自分らが揃って汗だくな事と比べ見て、あまり待たせなくてよかったと考えた。それを見透かしてか、淑香は少し怒気を含んだ調子で詰っていた。
「約束の時間は十五分前よ。短い時間で済ませようと思ったのに。炎天下で待たせないで!。」
「そんなに待ってないでしょ?。汗をかいてないし……。」
淑香はハッとした顔をした。直ぐに淑香の制服の背中にも汗が滲み出してきた。その様子を横目に雄二は続けた。
「ここで待ち合わせなくてもよかったのではないかな?。」
「上原民生君、大石雄二君、片岡潤一君、長尾良介くん。私の話はあなた達に限定したかったからよ。…貴方達は恵まれているわ。これから貴方達が選ぶことは、友を助けること、慈愛の業ね。」
いきなりこのように言われても、雄二や友人達は戸惑うばかりだった。
「あなた方は、辻堂詩音さんを助けるために活動するのよ。あなた方に困難があるかもしれない。特に上原くんは処分前だけど、辻堂さんのために下手に動くと、退学が本決まりになってしまうわ。それに…これから貴方達がすることは、あなたたちそれぞれの命を費やすことになるわ。上原君は、辻堂詩音さんと結ばれるかもしれないけど、そうすると若くして召されてしまうわよ。もともと………彼女は独り善がりだし、人付き合いも余りしない、欠点ばかりよ……。それは上原君も昔から知っているわよね。どうかしら、彼女に関わることが嫌になった?。彼女の性格から、貴方達と親しかった生徒会メンバーは可愛さ余って憎さ百倍で、貴方達を追い出す運動をするでしょうよ。それでも、私達は彼女を、その子供たちを助け続けるのよ。」
「えっ?。いきなりどういうことだよ。」
良介や潤一はとまどっていた。しかし、雄二は淑香の顔を見つめて逃げ出そうとはしなかった。
「あなたたちはいままでもこれからも、私から助けを得るの。あなた方が見えない幸運に遭遇しているのも、辻堂さんに関わりあってのことよ。」
民生は、他の三人を安心させるようにゆっくり言った。
「辻堂さんのためなら僕だけが動くよ。」
良介や潤一は躊躇った。
「僕はそんなことまでできないな。」
「そう、そらなら貴方達は、普通の人間に戻るわけね。今すぐにここから戻って。」
二人は記憶を抜かれ、夢遊病者のように屋上から去っていった。残ったのは、民生と雄二だけだった。
霧の中の道だった。次の朝、民生と雄二は淑香に導かれていた。浦和の街中と思えたところが、浦和の雑木林を進んでいく。読めない文字の石灯籠。不意に止まる淑香。ススーと開く草木。淑香が指差したのは、古い轍と夏草に隠れた舗装道路だった。民生と雄二は恐る恐る入り込んで行った。そこには、古い教会堂があった。
「雄二は戻れよ。」
「民生こそ詩音さんの側にいてやれよ。」
「雄二君、あなたもためらいがあるの?」
「そんなことはないけど………。」
雄二はまだ混乱していた。
「もう貴方も戻っていいわ。」
「いや、君が求めるなら。」
「貴方は不純だわね。私が引き換えに貴方に何かをしてあげられる女に見えるのかしら?。」
「いや、単純だよ。君が求めるからだよ。」
「そうなの?。」
淑香は雄二を正面でつかまえた。
「でも、互いに私達が何を求め合うの?。人間って、なんてもどかしいのかしら。人間はわざわざ回りくどい複雑な考え方をして、下手な方向へいこうとするのね。」
「時として下手な方向へ行くことはあるけど。その方法論は、様々な知識や考え方を先祖から積み重ねてきたから、その経験付き方法論から最適な道を選びたいと、常に考えていることの表れだぜ。」
「私も人間の世界に寄り添って働いてきたけど、ものごとは大抵単純よ。演繹的に言えば、愛が全ての始まり。人間は愛を注がれているのだから互いに愛を他へ注げば良いわ。」
「僕は愛を注がれているなんて感じないぞ。」
「なるほどね。人間には愛がどこから来るかを見ることができないから、そう言うのね。それならば、人間にとってわかりやすく言えば、やってもらいたいことをやってあげろ、ということになるわね。」
雄二は黙っていた。
「貴方は、素直に行動しようとしていないわ。戒めとして、これからしばらく貴方は私から心が離れなくなるわ。」
「それは初めからそうなっているけど。」
「えっ?」
淑香は言い直した。
「つまり、貴方の身も心も、よ。」
「僕には願ったり叶ったり、だなあ。」
淑香は、今まで経験したことのないほど阿呆に見えるこの少年の言葉に戸惑った。
「それなら、民生さん、貴方は詩音さんのところへ戻ってあげて。」
そう言うと、淑香は蔦の絡まる扉を開けた。無人の教会堂へ入り込むと、雄二達はそこへ消えていった。民生は、彼らを祈るような気持ちで見送っていた。