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思慕

 淑姫は、先程から視界に入る若いアジア系の女が気になっていた。持っていた何かのメモにカタカナの混じっていることで、日系か日本人であることがうかがい知れた。

 カナダの西海岸、バンクーバー島に隣接しているこの島に残った日系人は、数が少ない。大戦前はここに多くいた日系人の記憶も、今は薄れつつあった。その今の時代に、若い日系人のいることが珍しかった。

 夏とはいえど、海岸線が近いfish and chips の店先では、西の海からの風が肌寒い。それでも彼女は風に黒髪を任せたまま、寒さにも周りにもあまり頓着しないようだ。不意に彼女は立ち上がり、店先のバルコニーから階段を降りて、海岸へ歩き始めた。目は虚のままに、その横顔はただ海を一心に見ながら迷いもなく海岸を歩いていく。石の多い海岸をただ歩いていく姿に、淑姫には不吉な予感があった。淑姫が慌ててバルコニーを飛び出して海岸へ出たが、やはりその女は尋常ではない行動をし始めていた。

 この島の海は、いつも深い藍色の優しい表情を見せている。彼女はその海へ、まるで身をまかせるように足を踏み入れていた。そして、数歩行ったところで倒れこむように沈んで行った。淑姫は慌てて走り始めたが、それよりも早く周りにいた数人の若者たちが海に飛び込んでいた。救い上げられた女は、すっかり体が冷えていた。それほどまでに此処の海の水温は夏でも低い。アングロサクソン系にはある程度平気な水温だが、彼女にとってはすぐにでも命を失いかねない水温だった。

 しかし、淑姫が駆けつけた頃には、青年たちの必至の手当てもあってその女は息を吹き返し、泣き声が小さく聴こえてきていた。

「死なせて。」

 日本語だった。しかし周りにいる青年たちにはわかるはずもなかった。淑姫は駆け寄って日本語で問いかけた。

「なぜ? 。……。あなたの荷物はどこなの?。 」

 と問いかけ、淑姫は正面から若い女の顔を見た。若い女は答えなかった。しかし、彼女の握っていたメモは近くのbed and breakfast の印のある小さな紙切れだった。そこに荷物があるのだろうか。

 若い女は、そのまま救急搬送されて行った。淑姫は、なんとなく雇い主である宏が世話になっているガンジスロード近くの医院の名を救急隊員に示唆しておいた。島に一人しかいない保安官の事情聴取を待ちながら、淑姫は若い女の顔を思い出して考え込んでいた。もしかすると、予感が当たっているのかもしれなかった。いずれにしても、彼女の様々なことは、近くのbed and breakfast の家を訪ねれば分かるはずだった。


 詩音は死に切れなかった。救急搬送の車のゆっくりとした振動のうえで、どこかへ消え去りたいというに気持ちだけが、渦巻いていた。少しでも宏の近くで、でも宏には会ってはならない、という葛藤の中で選んだ道だった。しかし、その道はすでに閉ざされてしまった。宏の近くで、と詩音が考えたのは、詩音の様々な歩み、彼女の高校時代のこと、つまり詩音の許から宏が去ったことから始まったからかもしれなかった。人生の終わりはせめて宏の生きていた場所の近くで、と考えたのかもしれない。


 ……………………… 


 上原民生が再び田山詩音を見かけたのは、入学したさいたま市の高校であった。その学校は、埼玉県、関東一円でもよく知られた新鋭の進学校である。入学して成績のよかった民生は、国立受験クラスに進んだ。それは、地方の国立大学を目指した進学クラスだった。しかし、このクラスの上に、国立選抜、先進選抜、特進選抜と、まだまだ三つも上のクラスがある。

 民生が少々驚いたことに詩音は彼のクラスより二レベル上の先進選抜クラスに在籍していた。しかも特待生であった。詩音は、宏の助言や風の学園で積み重ねて来た受験準備の甲斐があって、ここに至っていた。詩音と民生が言葉を交わしたのは、それぞれが同じクラスの友人達と上尾のスケート場に遊びに行つた時のことだった。詩音はおとなしい女子グループの石井まり、宇津木ひなたちと一緒だったが、民生は男女混合の仲良しグループの大石雄二、片岡潤一、長尾良介、遠藤のぞみ、佐橋裕子、井上美希、青木圭子たちだった。詩音は孤独感が漂っていたあの頃とは異なって、大人しいながらも友人達との会話を楽しんでいるようだった。

「田山さん?。」

「えっ?。」

 詩音は思わず振り返りみあげると、背後にすらりとした男子生徒が立っていることにやっと気づいた。詩音は幼い時の瘦せぎすのまま、少し背が大きくなり、胸部が豊かになった程度だった。寡黙だった詩音は今は、少しはにかみながらも話すようになっていたようだった。それでも寂しげなそして恥じらう雰囲気が強まったようにも思われた。

 「……上原君?。」

「田山さん、あれから東京へ引っ越したと思ったのだけれど……。」

 「久しぶりね……。そう、引越したわ。それから、わたし、苗字が変わったの。辻堂に。」

 「えっ。結婚したの……。」

  この言葉が民生の驚きと重い失望感、民生の全てをあらわしていた。

 「け、結婚⁈」

  詩音のこの短い戸惑いの返事を聞いていないのか、早とちりの民生はもう立ち去ろうとしていた。周りにいた雄二達も、民生の姿に驚いていた。

 「どうしたんだよ。昔の彼女だったのかよ?」

「いや、そんなことは…。」

  そう言いつつも、民生は自分がそんなにがっくりしてしまったのにも、驚いていた。詩音は、端正な彼の狼狽振りに驚いたものの、民生の後ろから追いかけて思わず彼の手を取っていた。その目は、待ってよ、と言っているようだった。その反応に二人とも驚いていた。

「ええと?」

「祖父母と養子縁組して、苗字が変わったの。」

「そうだったんだ、まだ、誰のものでもなかったんだ。よかった。」

 民生は無意識に素直にそう言っていた。

「どうしてそんなこと……。」

 詩音は、民生が思わず心情を吐露したことに驚いて、昔のようにまただんまりになってしまった。民生もまた、これらのやりとりが場違いなことに気づき、顔を真っ赤にして黙ってしまった。

 しかし、彼らの代わりに周りの男女達が黙っていなかった。まりとひなは控えめに詩音に尋ねていた。

「ねえ、辻堂さん、あの人は誰なの?」

「引っ込み思案に見えたけど、かっこいい彼氏がいたなんて。」

 雄二、潤一、良介や、裕子、美希、圭子もはしゃいで騒いでいた。ただし、女子には少し嫉妬が、男子には羨望があった。

「おい、民生、よかったな。」

「彼女、オーラを感じるぜ。」

「彼女は民生くんの知り合いなの?」

「彼女たちは先進選抜でしょう?」

 二人に対する少しばかりの嫉妬と羨望の込められた声の中、いつの間にかカップルが作り上げられていた。しかし直ぐに、民生は養子縁組が何を意味するかを改めて考えた時、詩音の複雑な家庭環境を思い出していた。それだけに、このにわかカップルはそれ以上に盛り上がることもなかった。民生は、詩音が美しく成長して目の前に現れたことよりも、詩音の昔から変わらない生きる姿勢に思いを馳せていた。詩音も、民生の頭の回転の早さと配慮の術を思い出しながら、民生を見つめていた。その目は少々苦笑と言うべきか、微笑みが混じっていた。

  そんな再会もつかの間、新入生達は全てが直ぐに初めての中間テストの熱気につつまれてしまった。やがて、順位が張り出され、そのトップに辻堂詩音の名前が掲げられていた。詩音が、上の特進選抜のクラスを抑えて最上位に居ることを見出した時、民生が眩しかったと感じたのも無理は無かった。詩音のクラスメイトでさえ詩音に一目を置くようになっていた。

 民生にしてみれば、詩音は努力家の片鱗を小さい頃から見せていた。幼い時のその額の汗の姿を見ただけで、民生はその時すでに彼女を好きになっていた。彼自身が彼女の努力の先にいつも輝く幻を見ていたからだった。しかし、この時の民生にしてみれば詩音が手の届かないところへ行ってしまったようにも感じられていた。

「一番だね。すごいな。」

「上原君も頑張っているでしょ。」

「僕は君に及ばないなあ。はるか上の憧れの人だよ。」

「そんなこと…。」

 詩音もまた民生との間に少しばかりの距離を感じていた。目を合わそうとしない民生に、詩音は言葉を投げかけていた。

「待って。」

「えっ?。」

「私が一番を取ったから嫌われるの?」

「そうじゃなくて……」

 民夫は詩音の察しの良さに驚いていた。詩音はいつの間にか自分の立ち位置が変わってしまったことに戸惑っていた。特に民夫の自信なさげな態度に詩音は戸惑いを隠せなかった。同時に、民夫が中学の時に詩音のために詩音の母親を探し当てたり、窘めたりした行動力に驚き、引け目を感じていたことを思い出していた。


 さて、詩音が高校と葛飾堀切の同潤会の自宅との間を通うようになって、田山宏はここ数日の詩音の上気した顔を見逃さなかった。それは父親の直感というよりは、大切に思い続けている者に向けた控えめな慈愛だった。そして、それはもう、自分がそばにいなくてもいい頃合いだと考えた時だった。それを機会に宏は日本を離れることを決めていた。

「え?。どこへ行くの?。」

「置き手紙にも書いたけれど、不動産会社の仕事でバンクーバーのビルの買い付けに行くんだ。すぐに帰ってくるよ。後のことは、君の通っているお花茶屋伝道所の山形牧師に頼んである。」

「そう……。」

「あとで僕の滞在先を知らせるよ。それまで待てるよね。」 

 詩音は寂しさを覚えていた。

「いつ帰ってくるの?」

 詩音はポツリと言った。

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