《 巫 》o。◈。o 間(あわい)に立つ者o。◈。o
「……私がここにいた時、どうしてあんなに優しく、声を掛けてくれたの?」
「見た目は人の少女でも、神樹に身を委ねて安らぐ、幼い精霊かもしれん、と思ってな。まともな呼び掛けをしたつもりだったのだが…」
ヒミコはアズマと共に、二度目となる北の大樹の下へと足を運んでいた。
護人の中でもナガミ、カラマ、クロマ、ヤツデの内の誰かが山へ赴く時にヒミコも同行していたのだが、皆ヒミコの体力に合わせているようで、一刻程山を登るとすぐ郷に引き返すのだった。
ある時「お荷物扱いか」と。
軽い調子で本音を語ってくれそうなヤツデに問うと、「あ〜・・・」と頬をかきながら、「一言で言うと、俺は《精霊の地》が苦手」という意外な答えが返ってきた。
「遠くから眺める分には良いし、確かに清らかな場所だと思う。ただ、偉い人ん家みたいで落ち着かないんだよ。……なんつーか、《すいません》って思う」
護人といえど、そんな事を感じるヤツデに、神樹まで連れて行って貰うのも気がひける。
面倒見は良いくせに、気まぐれで口も態度も軽く、引き締まってはいるが全体的にほっそりとした体躯も山猫のようで、郷暮らしが似合わない男性なのだ。
日頃の行いがわるいのでは、と思わず喉まで出かかった言葉をあえて口にせず、この時に、ヒミコはアズマに頼む事にしたのだった。
「……私もね、最初アズマの声は人か精霊からの呼び掛けか、分からなかった。
私の知ってる人間の男性は、いつも尊大な態度で、命令口調で話す人ばかりだったから。
年若い子供だとか、女だとか、身分とか。沢山ある柵に囚われて、自分の意思で空の下に出る事も叶わない郷から……私は……逃げて来たの。
神霊の知恵や精霊の力を、人間の私利私欲に使う為の《道具》で在りたくないって。《私らしさを赦される場所、在るべき場所が他にあるのなら、どうかお導き下さい》って、一心に希って禊の滝の先へ向かって駆けていたら…この場所に、辿り着いた。」
今にも泣き出しそうな表情のヒミコは、すり、と右手で優しく神樹の幹を撫でた。
「辺りの気は明るくて清々しくて、この地の波動も温かく澄んでて。とても、安心した。
あの時、アズマには寝ていたように見えたかもしれないけど、《神樹の学び》を終えたばかりで、微睡んでいただけなの」
「…安心、か。サユリは《人間同士のように、精霊とも相性がある》と言っていたな。この地は人郷に比べると清浄過ぎて、普通は圧を感じ、慣れるのにも時間が掛かるらしい。」
「この郷の祀人だった、イブキの母さま…?」
「ああ、そうだ。ヒミコの言う《神樹の学び》の話は聞いた事が無いが、《精霊の地が好きだ》と言うサユリの護人として頻繁にここを訪れては、帰りの体力が無い彼女を背負って、山を下りていたな。」
「こんな山奥から、郷までの険しい道のりが二人の【妹背の道】だったの?すごい、夫婦……」
「アズマの恋の武勇伝、帰ったらイブキにも教えてあげよう」と、ヒミコは和かに微笑んだ。
「…アズマは、ここで私に仮名をくれたでしょう?
神託を授かり、人へと語り伝える役目を背負う存在である《神の子》を、《ミコ》と呼ぶの。私は人の御子だけど、この深山の神樹を依代とする神…陽の神の神子、でもあるから。
それに、イブキに教わったヲシテ文字の五要素と人の【ヰクラ】の特性を繋げるとね、《知恵や知識を開いて、物事を知る事を助け、生きようとする想いを繋ぐ》カゼとハニの本質を持った名だった。……素敵な名前を、ありがとう。」
「この場に居合わせた皆には、迷い子の少女に《大切な姫》では名に捻りがない、と言われてしまったが…ふと思いついた名が、ヒミコそのものを表しているとは思いもよらなんだ」
「身近な精霊からの《報せ》である《直感》はそういうもの。【ヰクラ】で交わす言の葉」
「【ヰクラ】は初めて聞く。《アズマ》の名の本質も聞いてみたいものだな?」
するとヒミコは、右の手のひらに指で文字を描くような仕草をし、その形が表す意味と己の知識を縒り合わせるかのように、ゆっくりと言葉を発した。
「…ええと、《全ての物事の始め……自立や主体性の状態を保ち、善悪の判断を助ける》…ウツホとホを表す名、ね。」
「《陽の神子》から学んだからには、名の意味に負けぬように生きねばなるまいな」
「アズマは今までだって、ずっと巫だったのよ?」
「……巫?」
「《人と人との仲介を成して、物事を治め、人々の心と暮らしの平和を支える者》が巫。
……アズマは、精霊の地に迷い込んだ事を郷の人達に伏せて、私を保護してくれた。それに、私に文字を教えて、姉と呼んでくれるイブキに、会わせてくれた。
きっと、今までもそうして、影ながら郷を支える護長を務めてきたと思うの。
イブキの母さま、サユリは…この地の精霊の言葉を、人に伝えることの出来る神子だったでしょう?
私の居た郷では、依代となる器の巫女と、降りた存在の善悪を判ずる審神者が対だったけれど。巫女自身の器の大小も、審神者が下す善悪の判断基準も、人によるものだし。
審神者と婚わせられる前に、この郷に来れて良かった…虚ろな人形になんて、なりたくないもの。」
「随分と、呪いや術に長けた郷だった様だな。それを重要視するほどに、人が集って居たのやもしれないが。
………《ここので暮らしには、そういったものを必要としない》とだけ伝えておこう。」
「私もね、ここなら、自分を嫌わずにいられると思うの。自然の恵みに感謝して暮らしを営む、平和で穏やかな…この郷なら」
「北の大樹……陽の神と《運命の出逢い》を果たした郷、でもあるからだろう?」
アズマにしては珍しく、ヒミコの反応を愉しんでいるかのような口調だった。
その事を口にするのをわざと避けていたのか、ヒミコはぎこちない動きで神樹を見上げ、少しだけ頬を赤らめる。
するとヒミコの髪を背で緩く束ねていた紐が風にさらわれるように解け、さらさらときめ細かい黒髪が風に遊んだ。
その柔らかいそよ風に笑みを深めたヒミコを、眩しいものでも見るかのように、アズマは目を細める。
「神に愛しまれた人の子、というよりも……慈しまれる神の嫁のようだな。《仲睦まじきは善きことかな》」
アズマの言葉と共に、何処からともなく運ばれてきた小さな白い花弁が数枚、ひらひらと風に混じって舞い降りる。
「アズマ。これからもこの郷で暮らしたいけど…私は《郷の客人》のまま?この先、郷の誰かに心を掛けて嫁ぐことは……無いし」
少しだけ困ったように視線を彷徨わせたヒミコは、不安を感じているのか、ミモザが新たに繕った衣の端を両手でしっかと掴んでいた。
「元より、郷長には《ヒミコを養女にどうか》と勧められていたのだ。郷の者に嫁げ、と言うつもりは元から無いが………イブキが姉離れ出来るかは分からんな?」
何も不安に思わずとも良い、との想いでアズマは苦笑した。
「イブキは優しいから……でも、大丈夫。イブキにはイブキの務めがあるし。私はミモザに、衣作りや料理を教えてもらう。神子としての修行も、あるけど…」
「正式に郷の祀人になってからのサユリは、自分の食べたい料理以外、他の者に頼りきりだったぞ?
養女に迎えても家の事は良いから、《陽の神子》の修行に励みなさい。……ヒミコの【ヰクラ】が示すままに。」
ヒミコはアズマの発言に少々驚いた表情を見せつつも、「そう言ってもらえると嬉しい」と続けた。
「……精霊の地を訪れた護長が、アズマで良かった」
近くに落ちた髪の結い紐を拾い上げるヒミコに、ふとアズマは別の可能性を思ったままに尋ねた。
「郷長であるハイトだったなら、何か違うのか?」
「ハイトは、悪い人じゃないと思うけど…暑苦しくて。なんか、イヤ」
「………それに関しては、何も言えんな」
弟である自分でも、あの兄の興味対象にはなりたく無い、と。
精霊の地に訪れたハイトが、ヒミコを「蝶よ花よ」と手厚く保護する場面を想像しかけるのを、軽く頭を振ることでやめた。
それからヒミコは「久々に訪れたから」と言って、神樹の幹に額を寄せると、静かに黙想し始めた。
常に聞こえていた盛夏を謳う蝉や蛙の声、響き渡る鳥の囀りが遠退き、やがて精霊の地一帯にしん、とした静寂が訪れる。
アズマもそれに倣い、その場で瞑目し、己の静けさに身を投じた。
常人であれば、何事かと周囲の異変に警戒したかもしれないが、アズマは知っている。
サユリも精霊の意思を聴くのに、こうして《己の内の静けさ》と向かい合っていたのだ。流石に、ここまで自然の音が止んだ事は無かったが。
祀人が身近な存在であったアズマであっても、こうして日常から離れれば、ヒミコの秘めたる素質を否応無く感じる。
それを踏まえ、人と精霊の間に立つ《神子》には、神子と民の架け橋となる《巫》も必要なのではないか、とした考えに至った。
サユリには自分が居たように。
ヒミコにはイブキが巫ーー《神子の護人》の役目を果たしていくのだろうと。
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