《 名 》 o。◈。o 文字の学び o。◈。o
《ホツマツタエ : 18アヤより》
彼の御霊 永遠に喜び
宇宙の中心の手を地と天に分けて アイウエオ
「山に赴いた護人が、迷い子を連れ還った」と目撃者を発端とした噂が瞬く間に広まり、郷の皆に知れ渡ることとなった。
如何に少女といえど、他人の好奇な視線や憐れみの表情には敏感だろうと、アズマは報告の為に郷長であるハイトを訪ね、ヒミコの処遇について庇護を申し出た。
「……此方の言葉は理解しております。せめて声が戻るまでは、市井の者との接触は控えるべきかと」
広々とした長の館の一室である板間に二人。い草で固く編まれた円座に座し、少し離れた上座に腰を据えた長の言葉を待つ。
高い鷲鼻、直線的な眉に猛禽を思わせる瞳は、一見すると威圧感すら覚え、厳しい人物に見える。
黒々とした髪に近頃白いものが混じってきた兄は、残念ながら見かけ通りの人物では無かった。
「身形はまともだったそうだな。捨て子や山の妖の類ではないのなら、運悪く逸れただけなのだろう。
縁者が現れぬようなら、いずれは郷の暮らしに馴染む必要があるだろうがな」
「暫くは護人を交代で山中を巡回させるつもりではありますが。
何分、梅雨入り前に田畑を耕作するにも、灌漑の手入れからも、若手を外す訳には参りません」
「実りの秋であれば、狩りも兼ねて皆嬉々として山へ入ったであろうに。そなたの言い分は尤もだ。
迷い子を保護した程度で、他に異変の報せが無いのであれば、《下がってよい》と言いたいところだが……アズマ。
その迷い子…確かヒミコ、と言ったか。名付けもしたのなら、養女に迎える気は無いか?イブキの妹として育てれば良い。」
「……長。」
表情は変えずとも、咎めるように声を低めた弟に対し、兄は揶揄う様に楽しげに続けた。
「郷と護りの長同士の話は、先程で終いだ。お前は昔から何事にも慎重だからな。
一処に留まり、常に郷の暮らしを第一に考える勤めは、お前の方が性に合うだろうに。初夏の山歩きなら、この兄が代わってやれるが?」
「そのような話は、既に聞き飽いております。長を継いで何年、同じ事を言い続けるおつもりですか。
………それにしても兄上は何故、ヒミコを養女に迎えろと?」
「なに。伯父としてイブキにも兄妹が居てはどうかと、ふと閃いただけだ。
従兄弟が五人居ようと、歳が離れているからな。お前が後妻を迎える気があると言うのなら、話は別だが?」
「御言葉を返す様ですが、私の妻は生涯、サユリ一人ですので。
子を思う一人の父親として、兄君の配慮には遠く及びませんが……ヒミコに関しては引き取り手が現れるまで、イブキと分け隔てなく接する様、精進致します」
「……全く、堅苦しい。そのうち顔を見に行くからな」
「気が向いた時にふらりと貴方一人に来られては、周りの者が大変なのだと、何度言ったら聞き分けて下さるのですか。
身辺の噂が落ち着き次第、ヒミコを此方に連れて参ります。」
《それまでは大人しくしていろ》と瞳で語ったのが効いたのか、珍しい物事への関心が人一倍強い兄は漸く、渋々と引き下がった。
「……つまらん。お前、益々母上に似てきたな。」
最後に深く額突き、その場を辞そうと既に腰を上げていたアズマは、年甲斐も無い発言をする兄に向かって《誰のせいだ》とばかりに鋭い一瞥を投げた。
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一方、ヤツデの背に揺られるうちに一度深く寝入ってしまったヒミコは、アズマの家に預けられ、一人息子のイブキと対面していた。
「……君の名は、《ヒミコ》というの?」
ヒミコは若干ぼんやりとした表情のまま座り込んでいたが、イブキのその問いは聞こえていた様で、浅く頷く動作で応じた。
「白い衣は同じだね?ヒミコが育った郷でも、《天地唄》は教わっている?
……アカハナマ。 イキヒニミウク フヌムエケ、 ヘネメオコホノ モトロソヨ。 ヲテレセヱツル スユンチリ、 シヰタラサヤワ」
イブキの口ずさむ五七調の天地唄を聞くなり、ハッとしたようにヒミコの瞳に澄んだ光が戻った。
驚いた様子のヒミコに対し、イブキは《心得た》とばかりに少し離れると、やがてひらひらとした細長い布を何枚か腕に抱えて戻って来た。
「これはね、天地唄を記したヲシテ文字。
遠い昔に、各地の郷を巡っていた七代 天神様が、水田耕作と共に教え授けてくださったもので、郷長の家系の者は、皆これを学んでいるんだ。これを使えば、話せるでしょう?」
無邪気に笑みを浮かべたイブキに釣られるようにして、ヒミコは床に順に並べられた布をじっくりと覗きこむ。
「天地唄とは少し並びが違っているのは、ウツホ・カゼ・ホ・ミヅ・ハニの五要素で分けられているから。
《はじめ》から《おわる》までのカタチに、《アイウエオ》の口のカタチを重ねていくだけの文字だから、すぐ覚えられるよ。
《ヒ、ミ、コ》は……カゼを【ひらく】カゼを【たす】ハニを【つなぐ】のかたち。
《イ、ブ、キ》は、カゼを【はじめ】ホを【ひらく】カゼを【つなぐ】……ね。」
布に記されたヲシテ文字の上から一つ一つ描くようになぞり、イブキはヒミコの反応を待った。
自信がないのか、細い指先を恐る恐る伸ばしたヒミコがゆっくりと文字を指し示す。
「…ア、リ、カ……ト?ありがとう?」
ヒミコが示した文字をイブキが声に出して読むのを繰り返し、二人の間に簡単な意思疎通が成立したのだった。
イブキやアズマの事を幾つか聞き終えたヒミコは、ふと好奇心が湧いたのか、布に記された文字の成り立ちに興味を示した。
「五要素のこと?陽から齎された光から生じたのがウツホ、カゼ、ホ。地球が分かれたのがミヅとハニ。
ウツホは空気の《ア》。冷たく降りる風は《イ》、暖かく昇る火が《ウ》。形の無い水は《エ》で、豊かな埴は《オ》の五つを示してる。
《イブキ》は針葉樹の名前なんだけど、ヲシテ文字の意味を繋げると《風が火を起こしてさらに風を呼ぶ》って……なんだか山火事でも起こしそうだよね」
イブキ自身を示す名の解釈が面白かった様で、ヒミコはクスクスと笑い、小さく肩を揺らした。
漸く同年代の少女らしい表情を見せたヒミコに、イブキの方もホッと緊張を解く。
いくら寝起きだったにしても、心ここに在らずの様に見え、少し不安だったのだ。
「じゃあ、今日はこれくらいにして。父上が戻るまでに、ご飯の用意をしよう?今の時期は菜物が豊富だから」
イブキが湯を沸かす間にヒミコは用意されていた食材を簡単に刻み、アズマが戻った頃には干し肉や乾燥きのこ、カタクリ等採れたての旬菜が入った雑炊が出来上がっていた。
二人の打ち解けた様子にアズマは目を見張ったものの、床に並べたままにしてあるヲシテ文字に気付くと、息子を労った。
「言葉と文字で会話をしたのか?ここでの暮らしにはとても大事な事だ。イブキの機転は助かる。
元々、天地唄も文字も《異なるもの同士が齟齬なく協力しあう為に》と天神様から授けられたものだからな。
そのヲシテ文字は、黒すぐりで染め記したものだから、水に濡れるのには気を付けた方がいい。」
「父上、明日はヒミコに郷の案内をしても?」
「いや、既に《山の迷い子》の事は皆の噂になっているからな。せめてヒミコの声が戻るまで、家の周囲だけに留めておきなさい。」
イブキは父の言い付けを守り、母に代わって衣服や食事の世話をしてくれている伯母のミモザにヒミコを紹介した後は、時折二人で野や川に出掛けるくらいだった。
少年達で川魚の仕掛け作りや、夏菜を摂る際に、まだ見ぬ《噂の少女》について皆が口々に興味を示した所為もある。
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一月程経過した頃。
穏やかに過ごした事が幸いだったのか、ヒミコは言葉少なに会話をするまでになり、元から大人しくて内気な少女だった事が知れた。
その頃には郷長への挨拶も無事に済ませ、アズマの口添えもあり、山を巡回する護人に時折ヒミコも同行する事となった。
迷い子の詳細を問われた際、ヒミコによると「自郷の山を駆けているうち、知らぬ場所に居た」らしい。
それには郷長のハイトも首を捻りながら、「國司の元へ各地の郷長が集う機会に、《迷い子》について聞いてみよう」と愉快げに請け負った。
ヒミコの縁者が現れるまでは、アズマの預かりで《郷の客人》という扱いになり、初夏の時期に漸くヒミコは郷の自由行動が許可されたのだった。
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七代 天神→イサナギ・イサナミ夫婦が就任。全国を巡業。
国政の中心 政庁の建設、国境の確定、民の言葉の統一に天地唄を制定、諸物の策定、食料増産、養蚕等の殖産、水田耕作や荷物運搬に獣力 (馬・牛)を用いる方法を広める。