《 鏡 》o。◈。o ヰクラの言の葉 o。◈。o
アマテルの言の葉ーーホツマツタエ17ー80より。
「磨く器は 本の護」
鏡に向き合うこと。即ち【己の心の中心を磨く】ことは、民の【基本】であり、民の【護り】となる。
「ヒミコが懸念していたことは、今後は無くなるそうだ。最近、森や山へ出かけるのを控えていただろう?」
部屋に一人、水を張った深めの器を静かに覗いていたヒミコは、アズマの声にゆっくりと顔を上げた。
「懸念していた、こと…?でも、用意してもらった水鏡があるから、家の中でも修行はできる」
内気な義娘は、イブキが共に居るならこれまでと変わらず郷や森へと出かけてはいるが、ここ最近は部屋に篭り、一人の時間を多く過ごしていた。
ーーここでは誰も、ヒミコが外へ出るのを咎めたりはしないのだが。
「……護人になる、と毎日欠かさず鍛錬していたウツギが《ようやく鍛治師を継ぐ気になった》と、カシワが告げに来たのだ」
「………鍛治師?」
ヒミコは、聞き覚えのない単語の音を確かめるように、繰り返し呟いた。
「金属加工を担う一家で、鉄器や青銅器を作るのが仕事だ。
カシワによると、ウツギは《身のこなしを鍛えるよりも、熱くなりやすい自分の精神を先に鍛えなければ》と、集中力を高めるつもりなのだそうだ。
カシワは、半端な仕上がりを頑として許さない、技術を極めた職人だからな。《後は息子の腕次第だ》と喜んでいたよ」
「精神と、技術を鍛える、鍛治師…」
「日がな一日、竃の前で槌を振るうのであれば、外を出歩くことは格段に減る。……今日は神樹のところへ行くか?」
「精霊の地に赴く刻は、その前に禊をしてからと決めているの。だから今日は……もし、郷の近くに湖があるなら、そこに、行ってみたい」
「……湖か。山の湧き水で出来た、小さな泉でも良いか?」
こくり、と静かに頷いたヒミコは、アズマのその提案に少しだけ嬉しそうな表情を見せた。
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アズマに連れられ、郷から見える山中の赤松を目指して辿り着いたその場所には、灰白のブナの木立に囲まれ、本当にささやかな泉があった。
木漏れ日が差し込み、辺りの木々を鮮明に映し出すその静謐な泉は、ブナの落ち葉に縁取られた楕円の鏡のようだった。
黒々とした足元の腐葉土は、熟成した木々の深く落ち着いた香りがする。
屈んで泉を覗き込めば、ちらちらと淡い翠の光を通す、ブナの葉を背景にした自分の顔が映った。
初めて訪れた場所への軽い驚きと、ほっと緩んだ表情のーー。
「志をもって、何かに打ち込むことと。一人静かに水鏡に映った自分の表情と、浮かんできた想いを感じることと。
過程は違っても何かを見出したいのは、似てる気がする」
「ヒミコも、ウツギの様に何かを見出したいのか?」
「………自分を、見失いたくなくて。
私がここに居るのは、《変わること》を赦されたのか、希ったままに導かれたのか、今も試されているのか……まだ分からないし。
故郷の暮らしを捨ててまで、私が《成りたかった私》ってなんだろう、って」
「そう不安に思わずとも。強い想いに行動力が伴えば、それに見合う結果も後からついてくるものだと、思うのだがな?」
「アズマは信念が強いもの。私は周りの影響を受けやすくて、他人のことはなんとなく分かっても、自分が視えなくなりやすいの」
だから、こうして自分を水鏡に映して……表情、顔色、髪や衣服に至るまで乱れや綻びが無いかを確認し。
外見を整えることから始めて、自分の内面を顧みるのだ。
ーー今は、穏やかな表情をしているから、自然と微笑むこともできる。
「……存外、皆そういうものだぞ?」
少し泉から離れたブナに近寄り、その幹を見上げていたアズマは、静かに言葉を発した。
「………みんな?」
「善し悪しに関わらず、皆生きていく上で少なからず互いに影響し合うものだ。個人に出来るのは、その《影響し合う相手》を選ぶことが出来るくらい、か。
少数の人物との接触だけに限られた環境では、その発想自体、生まれ難いのが難点だが」
「……私は、ウツギに《影響し合う相手》の標的にされちゃったんだ…」
「標…まあ、そういう事なのだろうな。合う、合わないも、人による。
どんなに近しい家族であっても、兄である郷長が苦手なのは何年たっても変わらないように」
「私も謁見した時にハイトが弟で、アズマが兄みたいだなって思ったけど。
現実は逆の立場だからこそ、調和がとれてるように思う」
「……調和、か。
そういうヒミコも、大人しく内気な気質のまま家に篭っているよりも、こうして外である自然の中にいる方が、落ち着くのではないか?」
「とっても。息が軽くなるっていうか…瑞々しさを分けてもらえてる気がする。それに、森の中の水鏡の方が、明るい」
「水鏡で修行、というのは…独り、《己を見つめること》なのか?」
「ありのままを清らかに、整えるため。【ヰクラ】も【ムワタ】も見えないけど、表に現れるわずかな兆しは、自分で気付けるものだから。
この泉くらい静かに澄んだ心に、天から言の葉が降されるの。その波紋も、僅かで儚いものだけど…確かに心に響いて、届くの。
届いた時に気づけなくても、ちゃんと受け取っていて、心の中に沈んでる。ふとした時に、浮かんできたりする」
ひらり、と一枚。
ヒミコの《天の言の葉》の表現をそのままなぞるかのように、規則正しく並んだ葉脈をしたブナの若葉が、泉へと軽く舞い降りた。
同心円状に現れた波紋も、広がりを見せながらすぐに消えてゆく。
「森の中の泉は、太陽の光の下だから明るい…のかも。」
ぽつり、と義娘の小さな呟きを耳にした養父は、ふむ、と軽く腕を組むと暫くそのまま思案に耽る。
泉を見つめたままじっと動かない養父をよそに、ヒミコは木立の周りを丹念に調べ、ブナの実を探してみたものの。
昨年は実をつけなかったようで、見つけることは叶わなかった。
「……秋には、拾わせてね?」
すべすべとした手触りの、ひんやりした幹を撫でつつ、灰白に灰青の斑紋を持つブナにヒミコはそっと話しかけた。
さくさくとした食感で、殻も簡単に剥けるし、そのまま食べても、炒っても甘くて芳ばしいブナの実。
好きな時に外へ出れる事で、生き生きとした山の緑に、群生した色鮮やかな野の花を愛で。
耳に心地よい虫の音や鳥の囀りを聴き。
季節によって変わる風や地の薫りに、肌を通して感じる、川の流れや森の泉の涼やかさ。
そんな癒しの体験だけでなく、新たな味覚との出会いは、この山郷へ来てからヒミコの細やかな楽しみの一つになっていた。
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「ヒミコ、ナガミ様が見えてますよ」
イブキは既に郷長の家へ、アズマは数日前に郷長の護衛として、数人の護人と共に國司の元へと出立している。
ナガミがヒミコを訪ねてこの家に来たのは、これが初めてのことだった。
「はい……?」
この郷で暮らしていくことを望む意思を汲んでくれた四人の護人達は、ヒミコを連れた、あてのない山歩きをやめ、忙しい護長に代わって、時折北の大樹まで連れて行ってくれるようになったのだ。
その話だろうか、と訝しみながらひょい、と顔を覗かせると。
こちらに気づいたナガミが、軽く手招きをして応じた。
左手には、白布に包まれた物を抱えている。
「《護長に頼まれていた品が出来た》と、鏡師から預かったものを、届けに来たんだ」
「《郷に戻る前に仕上がった時は、ヒミコに渡してくれ》と、叔父上から言付かっていたからね」とナガミが差し出した平たい品をそっと両手で受取ると、ヒミコはその場でゆっくり包みを解いた。
「………これ…」
「銅鏡。郷長の一族の者か、祭祀を務める祀人の為だけに造られる品だ。
その人が亡くなって地に還る刻も、光を抱いていられる様にと、共に埋葬する。
叔父上の意図までは聞いていないが、この郷では《そういう品》だと、心に留めておいてもらいたい」
手にしたそれは、森の中の泉のように清らかに澄んでいる。
確かに、これはイブキやミモザ伝いにヒミコに渡して良いものでは無いのだろう。
水鏡よりも鮮明に像を結び、光を宿すその銅鏡は、確かに貴重な品なのだ。
「……大丈夫。銅鏡にはびっくりしたけど、ちゃんと私には届いてる。
護長は、私の背を押してくれたの。《自らの内に篭る刻も、光を見失わないように》と。……大事に、します」
大切そうに銅鏡を胸に抱きしめ、腕の中に確かな重みを感じたヒミコは、自然と柔らかな微笑みを浮かべた。
常には感情を表に出さないヒミコの珍しい表情に、隣のミモザも正面に居たナガミもおや、と目を見張る。
「……ヒミコは、普段から《その笑顔》でいた方が、良いように思うな」
ミモザに手伝ってもらいながら再び銅鏡を白布に包み直そうとしていたヒミコは、見守るように佇むナガミをちら、と見やり。
ぽそりと一言、呟いた。
「……やっぱり、親子ってどこか似るんだね」
先刻の何気無い一言により、ヒミコの中でナガミへの信頼度が若干下がった事に気付かないまま。
郷長の父に比べ、真面目で落ち着きのある青年は、爽やかな笑みを見せ「要件は済んだ」と告げると、叔父の家を後にしたのだった。
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三種神器→治世の象徴であるトノヲシテ、サカホコ、ヤタノカガミのこと。
八代 天神 アマテルが神器へ、鏡を追加した。
八咫の鏡→ヤタには《全国民》の意味が込められ、カガミは《人の心の中心》を表現している。
【全ての人々の心に、自我が育つよう】
◇アマテルの時代に起きた《ハタレの乱》の背景に、ハタレの心中が混乱と錯誤で捻くれていた事、恫喝に怯み、騙されやすい一般国民が多かった事を踏まえ、動乱の再発を防ぐ為に、《人々の心の内を整える事》が重要視された。