第八話 「出発」
地下通路は長かった。
何十キロ歩いたのだろうか。
とにかく、僕は人生でこれほど歩いたことはないだろうと言うほどには歩いた。何せヘブンシティは、狭い街だったから。
そして僕たちは最初に下ってきたのと同様に、高層ビルと良い勝負ぐらいには段数のある階段を上った。
何か喋る余裕もなく、ただ息を弾ませて、黙々と重い足を上へ上へと持ち上げる。止まったら、もう二度と進めないような気さえした。
しばらく上り続けると、遠く、微かな光が見えた。二人はそこに向かって、無心に足を早める。
頰に、温く異質な空気を感じた。
最後の一段を登りおえる。
直後、僕たちはようやく、外の世界を目にしたのだ。
世界は、存外美しくなければ感動的でもなかった。
目に飛び込んできたのは、ただの純粋な、何の混じり気もない現実。
「これが、外の世界……」
僕はそう呟いて、立ち尽くした。
隣にいる眼帯の青年は、口を閉じたまま、目の前の光景をじっと見据えている。
その青い隻眼は、希望に輝いているようにも見えたし、絶望に沈んでいるようにも見えた。
どこからか、聞いたこともない何かの遠吠えが聞こえる。
そこは正しく、混沌だった。
空は絵の具をてきとうにぶちまけたように色んな色が混ざり合い、地面は焼け野原のように荒れ果てていた。
月が無ければ太陽も無く、唯一の光源は空狭しと散りばめられた星。植物は枯れ、生き物の姿は影一つ見られないにも関わらず、どこからともなく、強い殺気だけは感じられる。
そこにいるだけで自然と背筋に悪寒が走り、ナツはゴクリと唾を飲み込んだ。
「……行くか」
ずっと黙りこくっていた眼帯の青年は、いきなりすたすたと歩き出した。
「どこへ?」
ナツが慌ててそう問いかけると、眼帯の青年は歩みを止めて振り返った。
そしてナツの後方を指差す。
見ると、ついさっき上ってきたはずの階段が跡形もなく消えていた。
「元いた場所に戻ることはできない。戻れないなら、前に進むしかないだろ」
「シモン。膜の外に出たこと、後悔してる?」
僕が思い切ってそう尋ねると、シモンはニヤリと笑った。
「まさか。お前が後悔しているんじゃないのか?ナツ」
図星だった。ナツは肩をすくめる。
「少しね。ここまで酷いと」
「後悔するにはまだはやい。伝説の通りなら、この世界には恐ろしい化け物がたくさんいて、人間を殺しまくってたんだ。酷いのはこれからだぜ」
「……気が重いよ」
項垂れるナツを見て、シモンは楽しそうに笑った。
「まあ、俺がいるからにはそう簡単に死なないさ。それに、お前も“ジュエルの力”さえコントロール出来れば、自分の身くらいは守れるようになるだろ」
ナツは自分の左手首に付いた宝石を見た。
星々の光を浴びて、ほんのりと青く光っている。
地下通路を歩いてくる時に、シモンから受けた説明によると、この宝石は、何でも''選ばれし子供たち''の証ならしい。
彼らは皆、体のどこか一部にそれぞれ違った宝石を持っていて、その宝石が、''神の力''の源となるのだとか。
大体の子供たちは、先天的に生まれた時から宝石を持っているが、中にはナツのような後天的なケースもあるらしく、つまり、ここが膜の内側なら、恐らく僕も孤児院に入って''選ばれし子供たち''の一員になっていたということだ。
そして、何より疑問なのは、
「どうして、僕に力が与えられたのだろう」
クーナと別れた後、僕は確かに力が欲しいと願った。
でも、願っただけで手に入れられたら、世の中苦労しないのだ。
第一、あの声の主は一体何者だったのか……。
「それは俺にも分からないが、きっと、神か何かの思し召しだろう。利用するだけ利用してやれ」
シモンが軽く放った言葉が、ナツの心に深く突き刺さる。
クーナは生前、神には頼らないと言った。
シモンの言うことが本当なら、僕は神の思し召しで、神の力を得たことになる。
湧き出る何とも言えない感情を、ナツはぐっと胸の内に抑えた。
贅沢を言える身分ではない。今は何の力であれ、利用して生きていかなければならないのだ。
「……そうだね。君はだいたい何年で力をコントロール出来るようになったの?」
「うちは英才教育だ。幼稚園に入る前から練習を初めて、小学校に入る頃には何とか扱えるようになっていたかな」
「そんな小さい頃から?」
「驚くことじゃないさ。あそこの子供は、みんなそんな感じだった」
「そうなんだ」
「そう。でもまあ、様子を見る限り、お前なら数ヶ月で基本は身につけられるだろう」
「でも、数ヶ月か……」
その数ヶ月を生き延びられるか、どうか。
考え込むナツをよそに、シモンはまたさっさと前を歩いて行く。
「くよくよ悩んでもしょうがない。お前だって、そんなハンパな覚悟で出てきた訳じゃないんだろ?」
ナツはシモンを追いかけながら、何時間も前のことを思い出した。動悸がする。
「もちろん。この世界の真実を見る為なら、たとえ命を失ったって構わないと思ってる」
「命が無かったら真実は見られない。命は大切にしろ」
「分かってる、物の例えだよ。僕の命は、もう、僕だけの命じゃないんだ。そう簡単には捨てられない」
シモンはチラリとナツを横目で見てから、ふんと鼻で笑った。
「その勢いが、これからも続けばいいんだけどね」
ナツはシモンの隣に並んだ。
「どこへ向かうの?」
「とりあえず、今はこのまままっすぐ進む。するとどこかには出るだろう。外の世界に実際どれだけの文明が存在するのかは、分からないが……」
シモンはそこまで言いかけて、口を閉じた。そしてピタリと足を止める。
僕も同じように立ち止まった。
「どうしたの」
「……何か来る。気配は小さいが、複数だな」
シモンの真剣な表情に、僕も身構えながら辺りを見回すが、まだ特に何も見えない。
「どうする?」
「戦闘において、迎える側の選択肢は二つ。返り討ちにするか、それが出来なければ逃げるしかない」
「逃げることは可能なのか?」
「この荒野のど真ん中じゃ、まず無理だろうな」
「じゃあ、返り討ちにするしかないんだ」
「……外の世界の人外がどの程度のものなのかは分からないが、そうするしかないな」
「勝てそうなの?」
「足手まといは黙って見てろ。俺一人で何とかする」
シモンはそう言うと、右手で眼帯を軽く抑えた。
僕はシモンの隣にくっついたまま、ひたすら何かが現れるのを待つ。
そして左手首に意識を集中させた。もしかしたら、これを使わないといけなくなるかもしれない。
すると三十秒も経たずに、荒野の水平線に複数の黒い影が見えた。ものすごい勢いで、こちらに走ってくる。
「犬……?いや、狼か?」
シモンは目を凝らしながらそう呟く。
「目が良いんだな」
「まあね」
前方に、三匹、狼のような動物の姿を確認する。
しかしそれがどれくらい強いのかは、やはり皆目見当がつかない。
「ねえ、やっぱり僕も戦うよ」
「だから、お前は大人しくしてろ。また変に暴走されでもしたら、こっちが困るんだ」
「でも……」
足手まといなのは自覚している。
でも、最悪の展開を考えると、不安にもなってくる。
人の死は、もう見たくない。
「ほらよ」
シモンが荷物の中から何かを取り出し、僕に手渡した。
見ると、片手に収まるほどの小さな銃だった。
「拳銃?」
「そう、それなら素人でも比較的扱いやすいはずだ」
「前から思ってたけど、君は宝石の力があるのに、どうしてそれを使わず、わざわざ武器を使うの?」
「俺の力は、あまり戦闘に向いてない。それに、また詳しく話すけど、ジュエルの力、もとい神の力は、危険なものだ。使わないに越したことはない」
「危険なもの?」
「いいから、さっさと離れろ」
シモンはシッシッと手を振る。
僕は小型の銃を懐にしまった。
「でも僕、銃は使ったことないんだ」
「当たり前だ。護身用だよ。もしもの時は、頑張って使え」
「結局、僕は戦うなと?」
「ああ。邪魔だから、二十五メートル以上は離れておけ」
「……分かったよ」
僕はしぶしぶ言われた通りにする。
シモンが頑固で、一度言ったら聞かないということは、もう何となく分かっている。
「俺は負けない。絶対にな。今までに何回死にかけたことがあると思ってる?」
シモンは半分自分に言い聞かせるようにしてそう言うと、腰にぶら下がった二丁のハンドガンを抜き取った。
真っ黒な銃口が、数十メートル先の獣たちに向けられる。
狼にしては随分と大きい猛獣たちは、鋭い歯を剥き出して、シモンに向かって低い唸り声をあげた。三匹の藍色がかった瞳は、総じて殺気に満ちている。
シモンは目を細めた。
「狼狩りは初めてだな」
ギラギラと光るその瞳は、それ以上の殺気を放っていた。
白い指が引き金を引き、弾が連射される。
高い炸裂音が鳴り響き、火薬の匂いが辺りに漂った。
狼たちは銃弾を器用に避けると、一斉に口を開けてシモンに飛びかかる。
シモンもそれを間一髪で避けて、振り返り際に撃った数発が一匹の狼の足に命中する。狼は鳴き声をあげて後退し、威嚇するが、血は一滴も出ていない。
「へぇ、硬い皮膚持ってるじゃん」
残りの二匹も襲いかかってくるが、シモンは全てを避け切り、また銃を連射する。
でもやはり命中するが、皮膚を貫通しない。
シモンは静かに狼から距離を取ると、ハンドガンをしまって、素早く背中のスナイパーライフルを構えた。
向かってくる狼に標準を合わせ、黒い銃器から重みのある一発を撃つ。
狼は避けきれず、胴体を弾が擦った。艶やかな灰色の毛並みに血が滲む。
「くっ」
しかし手を回せなかったもう一匹が、シモンの足に噛み付いた。
急いで蹴り払い、ライフルを連射するも、狼は俊敏な動きで避け切り命中しない。
引き裂かれたズボンが赤く染まり、地面に血がポタポタと滴り落ちる。
「シモン!」
「来るな!!」
狼たちは視界にナツを捉え、狙いをシモンからナツに移した。
シモンは背を向けた狼たちに向かってライフルを乱射するが、勢いを止めることは出来ない。
そのまま三匹の狼はナツに襲いかかる。
「ナツ!!」
シモンの叫ぶ声が聞こえる。
ナツは目を閉じ、左手首に全意識を集中させ、拳を強く握った。
力がどこからともなくふつふつと込み上げ、左手首に埋め込まれた緑色の宝石が淡く光り出す。
ーー熱い。
瞬間、ナツの周りに熱風が巻き起こり、飛びかかってきた狼を跳ね返した。
急に様子の変わったナツに、他の狼たちは動きを止めて警戒する。
茶髪が風になびいて、光を反射した。
ナツの体は淡い緑色の輝きに包まれ、宝石の煌きはどんどん強くなっていく。
かと思うと、突然弾けるように光が消え、風はやみ、全身から力が抜けた。
足に力が入らず、地面に膝をつく。
ーーまずい。
額を冷や汗が伝った。
狼たちはこの隙にナツに飛びかかろうと、体勢を整える。
宝石に再度意識を集中させるが、思考が乱れてうまくいかない。
「ほんと、バカだな」
そう言うシモンの声が聞こえた瞬間、発砲音と共に狼たちはバタリと倒れた。見ると、それぞれ頭部に開いた穴から、赤黒い血が流れ出ている。
その向こうには、大型のライフルを構えるシモンの姿があった。
「はぁ……」
ナツは安堵からか、深く息を吐く。
緑の宝石は光を失い、沈黙している。
左足を引きずりながら、シモンがこちらに歩いて来た。
「ため息を吐くのはこっちだよ。いいか、ジュエルの力はむやみに使うものじゃない。特にお前みたいなまだろくに扱えもしない奴が下手に使えば、逆に命を持ってかれるぞ」
「そうは言っても、非常事態だったし……」
「非常事態?どこが非常事態だったんだよ」
「君が怪我したから」
「怪我だと?」
シモンはうんざりとした顔をした。
「これだからお坊ちゃんは困るんだ。よく聞けナツ、こんな怪我はな、怪我のうちにも入らないんだよ」
「君こそ、あまり自分を買い被りすぎない方がいい」
「は?」
ナツはしゃがみ込むと、ズボンをまくってシモンの怪我をじっと見つめた。
傷は深く、血は止まっていない。
「この狼が何らかの感染症を持ってたら、噛んだ拍子にそれが移っている可能性がある。そもそもここじゃこの動物が狼であるという保証もないんだ。もしかしたら歯に毒を持っているかもしれないし、ここの空気中には人間に有毒な菌みたいなのがたくさん浮遊していて、傷口を通して君の体内に入ったかもしれない。君は今、君が思ってる以上に危険な状態にあるんだよ」
シモンは黙ったまま、自分の怪我とナツを見比べる。
本気で考え込んでいるナツの目は、とても冗談を言っているようには見えなかった。
緊迫とした空気が辺りに流れる。
そこへ、二人の背後から声がかかった。
「心配するな。こいつらは何の病気も持っていないし、毒もない」