第七話「空白」
真っ白な部屋。
何もない、まるでスケッチブックの白紙のページをそのまま写し取ったような場所に、一人の少女はいた。
艶やかな金髪にライトブルーの澄んだ瞳、シンプルな白いワンピースが揺れる度にのぞく、きめ細やかな肌。
端正な顔は、無表情で、しかし可愛らしい仕草で小首を傾げる。
「良いのですか?お兄様」
その視線の先には、鮮やかな桃色の髪をした好青年が立っている。少女と少し似ている整った顔に、優しげな微笑みを浮かべて。
「''彼ら''のことかい?」
青年がそう聞き返すと、少女は静かに頷いた。
「ええ。あの子たちを逃してしまって、本当に良かったのですか?今からでも、何とかすることは出来るのでしょう?」
「大丈夫、何も心配することはない。あの二人の運命は、我が主が望まれたことだ」
「お父様が……?」
少女の瞳が僅かに輝き、無表情だった顔に初めて感情が宿る。
「そう。だから、安心していいよ」
「はい、分かりました。お兄様」
青年は、少女の手を取ってゆっくりと歩き出す。
「やっと、摂理は進み出した」
「漸く、お父様の悲願が叶うのですね」
「うん。でも、それにはまだ早いな。我が主の通って来られた道のりは、あまりに長い」
「……そうですね」
少女は、その愛らしい顔に悲しげな表情を浮かべる。
青年は少女の頭を軽く撫でた。
「君が気に病むことは無いんだよ。全部、俺たちに任せておけばいい」
見ると、いつの間にか青年の逆隣に、肩までつく黒髪を持った別の青年(いや、もしかしたら女性かもしれない)がいる。
とにかくその黒髪の人は、少女に負けず劣らずの表情の無い顔で、コクリと頷いた。
「ありがとうございます。御二方とも」
まだ幼い少女は、深々と二人に礼をする。
そして大きく円らな瞳をパチパチと瞬かせ、突然、繋いでいた青年の手を離した。
「どうしたの?」と桃色の髪の青年が尋ねる。
空気中から何かを感じとるように、少女は俯き、目を伏せた。
「……もう時間です。戻らなくては」
「今日くらい、良いだろう。君の''百回目の誕生日''だ。久しぶりに、外にでも出てみるのはどうだい?」
そう言って、再び手を差し伸べるが、少女は頑なに首を振る。
「お誘いはとても嬉しいのですが、何度目の誕生日でも、我が使命には関係のないことです。お父様の願いが叶う日まで、私は''代理者''として、変わらず死力を尽くさなければいけません」
青年は少しの間黙り込んでから、嘆息する。
「……そっか。でも、無理はしたらいけないよ」
「はい。ご心配をおかけして、すみません」
「気にしないで、アモル。兄弟なんだから」
アモルと呼ばれた少女は、年相応ににっこりと笑うと、「おやすみなさい、お兄様たち」と言い残して、その場から煙のように姿を消した。
真っ白な空間には、桃色の髪をした青年と、寡黙な黒髪の青年の二人だけになった。
少女がいなくなった途端、桃色の方が、溜まったものを吐き出すが如く、ペラペラと喋り出す。
「あの子は一体どこへ行こうとしているのだろう。やっぱり、荷が重すぎたんじゃないかな。人間と接しようともせず、ただ主に信仰を捧げ、あとは膜や街の管理ばかりしている。あの子は幼くて、我が主による今までの摂理すらよく理解していないというのに」
黒髪は何も言い返さず、無言で遠くを眺めている。
「我が主の本懐を、あれから百年経った現在でも、あの子は知らない。それもそうだ、彼女と我が主が会ったのはほんの一瞬だけで、それきりあの子にとって我が主は、書物やデータなどの中の人物でしかないのだから。……主は、アモルを、''代理者''などとして産んだわけではないというのに。しかし、俺たちにはそれを彼女に伝える術も無い。結局のところ、主は、人選を違えたのではないか」
「ダーテ」
黒髪の青年は、そこで初めて口を開き、凛とした声を発した。
「なに?アンジュ」
ダーテ、と呼ばれたピンク髪の青年は、少女の前とは打って変わって機嫌が悪そうだった。
でも、恐らくそれが素であるようにも見える。
「主はいつも正しい判断を為さる。アモルには、確かに人々を導く素質がある。人選を違えたわけじゃない。それに、この摂理が成功するか失敗するかは、彼女一人で決まるものでもない」
真顔でそう言う青年に、ダーテはハイハイと肩をすくめた。
「分かってるさ。俺たちは俺たちの出来ることをするまで。そう言いたいんだろう?」
「うん」
アンジュという青年は短く肯定し、「それと」と付け加えた。
「君は相変わらず、やり方が荒っぽい。僕は、彼女より余程、君の方が心配だよ」
「へぇ、何のことだかさっぱり分からないな」
とぼけるダーテに、アンジュはため息を吐く。
「人を殺しすぎだ。もっと穏健に、事を運ぶことは出来ないのか?」
「何か大きな事を成し遂げる時、犠牲は付き物だ。それに、一度逃すと決めたなら、やはり最初から道は開けておくべきだと思ってね」
「何人か邪魔が入ったみたいだけど?」
「神にも誤算があるのに、''悪魔''である俺には尚更、誤算だらけだ。それくらいは許してくれよ」
ヘラヘラと笑うダーテに、アンジュは詰め寄る。
「そもそも、あの子は''選ばれし者''じゃなかった。子供を選抜するのは君の役目のはずだ。君はもっと自分の仕事に責任を持つべきだ。後天的に力を与えることは、体にも負荷を与えーー」
「ハイハイ、分かったって。説教は勘弁してくれ」
アンジュは、うんざりとした顔のダーテを横目に、また重いため息をつく。
「君の後始末は、いつも僕がやることになるんだ。人間も馬鹿じゃない。いつまでも、君の思い通りになるとは限らないぞ」
「あはは、ご冗談を、我が女神。人間はいつだって俺の思い通りにはならないし、何しろそこが一番面白い。今回は、俺の趣味嗜好を抜いても、本当に必要な犠牲だったんだ。分かってくれよ」
アンジュは、ふんとそっぽを向く。
「僕はそう思わないよ。我が主の治められる地に、犠牲など必要ない」
「……あっそ。俺たちはやっぱり馬が合わないな」
「昔からずっとね」
会話が途切れる。
二人以外何も存在しない部屋の中に、緩やかな沈黙が流れた。
ダーテは天を仰ぎながら、小さく呟く。
「あの方は、何処かから見守って下さっているのだろうか」
「……きっと、ね」
アンジュもそれに習って上を見上げる。
果てしなく続く白い空を眺めて、ダーテはどこか寂しそうに笑った。
「ここは、空白だ。救済も罰も存在しない。人間には、ただ慈悲深き主の加護があるだけ。愚かにも、彼等はそれすらまともに理解していないようだが」
「いつか、彼等にも分かる時が来るよ」
「さあ、どうだろうね。百年前だって、終ぞ奴等は主を信じなかった。……まあ、その話はいい。人は変わる。今回に期待するまでだ」
諦め半分でそう言うと、ダーテは華奢な両手を思い切り広げた。その手が、白亜にぶつかることはない。
「この空白は、人間にとって自由な、まるで休息のような一時なのだろう。だが、歴史は止まることなく進んでいく。我が主は人の側にアモルを選び、外の側にあの二人を選ばれた」
「僕たちは、その二つを主の望む方に導けばいい」
アンジュが抑揚のない声でそう言うと、ダーテはカラコロと笑った。
「簡単に言うじゃないか」
「難しくてもやるしかない。それが僕らの使命だ」
「出来るのか?」
「出来るよ、二人なら。僕たちは……」
「俺たちは、二人で一人だ」
「そう、二人で一人」
風も吹かない純白の中で、二人は顔を見合わせる。
まるで、時が止まっているようだった。
絵になるその光景を、もし見た者がいたなら、一生忘れることは出来ないのだろうが、生憎ここには二人以外に誰もいない。
そして、次の瞬間、
ダーテの背中からは真っ黒な翼が、アンジュの背中からは真っ白な翼が生える。
それと同時に、二人の青年は砂漠の幻のように、あるいは蝋燭に灯った炎のように、ゆらりと消えていってしまった。
美しいモノクロの羽根を、白紙の中に残して。
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さて、この物語は、ある少年たちが、閉鎖された世界から抜け出し、真実と信じるものを求めて未知なる地へと旅立った物語。
またこの物語は、ある者の成長と復讐の物語であり、ある者の血と涙に濡れた物語。
あるいは、多くの者達が、神に見捨てられた混沌の世界で神を信じ、愛を叫び、絶望に嘆き、そして喜びを分かち合った物語。
そして、この物語は、誰もが待ちわびる世界の救い主が、深く長い眠りの中にいた時の物語。
これは、空白の物語。