第四話「黒い月」
シモンは応接間を出ると、足早に一本の廊下をまっすぐ突き進み、二分で教会にある中庭へと辿り着いた。
そこには、一人の太った若い男がいた。
年は二十歳ぐらい、協会本部指定の黒い制服という格好で、ちょうど木の陰になって教会の窓からは死角になっている場所に、悠々と立っている。
その男は、シモンを視界に捉えると、口を横に広げてにったりと笑った。
「よお、シモン。元気だったか?」
シモンは無表情のまま早口で答えた。
「無駄話をしている暇はない。預けておいた荷物をさっさと出せ」
「おいおい、久しぶりに会ったってのにその言い草は無いだろうよ」
「ラーム。俺はお前と昔話をしに、ここに来たわけじゃない」
「分かってるさ、それくらい。百も承知のすけだ」
ラームと呼ばれた男は、ふんと鼻を鳴らすと、側に置いてあった大きめのリュックと数本の銃をシモンに投げ渡した。
シモンはそれを受け取ると、早速リュックから必要なものを手早く取り出し、ポケットや革製のウエストバックに詰め始める。
「マジでやるつもりなのか?」
ラームは問いかける。
その深刻そうな声色に、シモンは小さく笑った。
「俺は何度、その質問に答えなきゃいけないんだろうな」
「は?」
「いや、ジュノアにもさっき同じことを聞かれてさ」
「ああ、そうだったのか。まあ、お前のことだから、聞くまでもないとは思うけどな」
そう言うラームに、シモンは無言で返した。
庭にある池も草も、夜の静けさに今はすっかり眠り込んでいる。
最後にシモンは懐中電灯を手に持つと、荷物に混じっていた新品の拳銃をそっと懐に入れた。準備は終わった。
音も無く立ち上がるシモンに、ラームは心底名残惜しそうな顔をする。
「もう、お前の顔も見られないのか」
「勘違いするな、俺はまたここに戻ってくる。必ず、生きてな」
「神に誓って、か?」
ラームの真剣な眼差しに、シモンは少し躊躇う。
そして、一つ一つ注意深く選びながら、言葉を紡ぐ。
「ラーム、俺はお前たちの言う神を、未だ信じ切れていない。だから、真実を知る為に外の世界に行くんだ。……でも、本当に、この世に神が存在するのなら、神に誓って、俺はいつかまたこの街に帰って来るだろうよ」
「そうか。それなら、その日まで、俺も死ぬわけにはいかないな」
「当たり前だ」
ラームはスマートフォンを取り出し、時間を確認する。既に五分以上が経過していた。
シモンは中庭に面した一階の窓から、通って来たのとはまた別の廊下に降り立つ。
「監視カメラを誤魔化せるのは、十五分が限界だ。やれるのか?」
「やるしかないだろう」
あっさりと言うシモンに、ラームはため息を吐く。
「まあ、こっちも出来る限り善処するが、あまり期待はするなよ」
「ああ、恩に着る」
ラームはまた独特な笑みを浮かべた。
「俺は、いつかの借りを返すだけだ。シモン」
シモンもニヤリと笑い返す。
そして、「その台詞、言ってみたかっただけだろう?」と去り際に投げかけた。
「まあな」とラームは片目を瞑る。
シモンは、再び薄暗い廊下を走って行った。
一度も振り返ることなく。
ラームと呼ばれた青年も、あとは何も言わず、せっせと自分の仕事に戻って行く。
そうやって二人は別れた。
別に二人は、親友だったわけでも兄弟だったわけでもない。二人のちゃんとした接点は、たった一度だけ、協会の任務中にシモンがラームの命を助けたことぐらいだった。
しかし、それにしたって、死別にしてはあまりにも、あまりにも短く爽やかな別れ方だった。
シモンのこの第一教会に侵入し、外への通路を見つける作戦には、第一教会内部の協力者が不可欠だった。
そして、第一教会内部でシモンが信用できる人間は、ラームくらいだったのだ。
だから、仕方なかった。
仕方なかったが故に、シモンが今日の日のことを一生苦悩することになるのだが、それも今はまだ、知る由もない話であった。
地図を頼りに、シモンは広い教会の中を駆け抜ける。
部屋の数が想像以上に多く、これは地図が無ければ、進むのは相当困難だったかもしれない。
廊下に飾られた古き良き西洋画に、今だけはとても不吉な予覚を感じる。まだ春になりきれていない三月の夜は肌寒く、口から白い息が零れた。今夜は月が出ていないので、さっき手に入れた懐中電灯の光を常に前に向けながら忍び足で進んでいくと、やがて大きな扉に突き当たった。
長い廊下の先にあった重厚感のある扉には、鍵がかかっており、押しても引いてもビクともしない。
「この先に礼拝堂があるのか……」
シモンはリュックから工具を取り出すと、鍵の穴に差し込んで回し始めた。
カチャカチャ。カチャカチャ。
工具の先に全ての意識を集中させる。
眼帯に隠れていない方の青い目が、光を反射して微かに光る。
一分も経たないうちに扉は呆気ないほど簡単に開き、神聖なる神の領域へと、シモンを招き入れた。
シモンは辺りを警戒しながら、ゆっくりと一歩ずつ部屋の中を進んでいく。
礼拝堂の中は、綺麗に清掃されていて、埃一つ落ちていない。天井からは煌びやかなシャンデリア、壁には色鮮やかなステンドグラス、床には赤いカーペット、そして信徒が座る為のたくさんの長椅子が並べられている。
この礼拝堂は、普段は全く使われていない。というか、本来、アモル協会本部第一教会には、一般の信徒たちは入ることすら許されていない。
昔は何か大切な行事や儀式を行う時に、協会本部の上層部が集まる場となっていたのだが、それも過去の話で、近年、教会の信徒、協会の会員が共に多くなり、古くに造られた比較的狭い第一教会の礼拝堂に皆が集うのは難しくなった。
そこで、上層部は行事や儀式などでは、僻地にある広い第ニ教会を使うようになったのだ。
よって今日のヘブンセントバリア百周年の記念日、三月九日の儀式も、第二教会で行われている。
現在の第一教会は、もはや外から眺められるだけの遺産、鑑賞物と成り下がった。
シモンは呆れの混じった表情で呟く。
「幾ら何でも人が少な過ぎるな。警備も甘い。いくら百年に一度のめでたい日だとはいえ、協会の中心である本部がこんなにガラ空きのガバガバセキュリティだったとは。これが、慢心した支配層側の実態か」
外の光が、美しいステンドグラスを通して淡い翡翠色の明かりとなり、シモンの前に差し込んでいる。
息を呑むほど静謐で神秘的な風景を前にしても、シモンは変わらず独り言を続けた。
「むしろ今まで何も起こらなかったのが奇跡だな。今回で、現状も多少は改められるだろうが……」
思えば、逆に何故、過去に膜外へ出ようとした故人たちは失敗したのだろうか。見たところ、監視カメラも然程多くはないし、この程度の警備なら、少し頭を使えば誰でも突破できたはずだ。
……いや、違う。
シモンは首を振った。
恐らく、皆、ここまでは来れたのだろう。
この偉大なる遺跡と化した第一教会の礼拝堂までは。
そこに、外へと繋がる通路があると信じて。
ーーでも、見つけられなかった。
礼拝堂には入り口以外の扉は無く、どこを探しても、秘密の通路へと続く道のようなものは無かったのだ。
つまり、きっとこの礼拝堂こそが、反逆者たちの死に場所であり、超えられなかった壁。
「まさに、神の裁きを受けるのにはうってつけってわけだ」
皮肉を込めてそう言うと同時に、油断するなと自分の本能が繰り返し警告してくる。
シモンは慎重な足取りで礼拝堂の中心までやって来ると、深く深呼吸をした。
室内の空気はピンと張りつめ、時間が止まっているかのようにも見える。
そして真っ黒な眼帯をつけた青年は、自らの手で眼帯の紐をほどき、隠れていた右目を露わにする。
彼の右目は、右目があるはずの部分には、妖しげな光を放つ漆黒の【宝石】が埋め込まれていた。
一見してブラックダイヤかブラックスピネルと思われるその宝石は、暗闇に紛れながらも、確かにそこに異様な存在感を醸し出している。
''黒眼''。これが、彼がそう呼ばれる所以であった。
シモンはもう一度、ぐるりと礼拝堂の中を''視る''。
あらゆるものを見抜き、見透かすことができる。
それが、シモンに与えられた''神の力''だった。
宝石が周囲と呼応するように輝くと、シモンは迷わず、四方にある真っ白な壁のうちの一つ、入り口から見て右側の壁に向かった。そしてその壁の一部、青い紋章のようなものが描かれた所を左手で撫でて、こう言った。
「開け。我は主に遣わされた者である」
すると、何とも言葉では形容しがたい超常現象がそこには起こった。
あえて表現するなら、群青色だった紋章が七色に光り輝くのと同時に、空気が裂け、歪み、それに伴って壁がいくつもの立方体に分裂して、動き出したのだ。
シモン本人も目を瞠り、圧倒されるばかりで、身動き一つ取れなかった。
立方体は宙を飛び、または床を転がって、バラバラと己のあるべき場所を探す。
カタカタ、カタカタと細かく透き通った音が辺りに響き渡る。
やがて全ての立方体が、それぞれまた別の何処かに収まった時、礼拝堂は以前とは全く別のものになっていた。
入り口はそのまま、四方の壁には綺麗な凹凸が刻まれ、天井はより高くなり、所々立方体を組み合わせたオブジェのようなものが出来ている。
そして祭壇の手前に、さっきまでは無かった下へと続く階段が見えた。
シモンは、自分の胸が高鳴るのを感じる。
ーーその時、
「誰だ!!」
突如後ろから怒鳴り声が降ってきて、シモンはバッと背後を振り返る。
まるで魔法のような現象と、外に繋がる通路らしきものを見つけて、完全に意識は散漫していたのだ。
「どうしてこんなところに子供が?」
「どこから入った!ここで何をしてる!」
慌てた表情の大人三人に、シモンの右目の宝石は嗤うようにギラギラと光った。
「やっとか。むしろ待ちくたびれたくらいだ」
シモンは腰から二丁のハンドガンを両手で抜き取ると、瞬時に片手ずつで二人の男の足をそれぞれ的確に撃ち抜いた。男たちは唸り声をあげながら、あえなく跪く。恐らく、彼らは銃弾など受けたことがない。
シモンは倒れる二人の男を一瞥すると、階段めがけて一直線に駆けていく。
おおよそ人間離れした瞬発力に、思わず茫然としていた唯一無傷の女性も、すぐに我に返り、迷いながらもシモンに銃口を向けた。警備員らしき男たちも、ズボンや床を血の色に染めながら、必死にシモンに銃の標準を合わせている。
そして慣れない手つきで幾度も引き金を引くが、軽やかな身のこなしでシモンは全ての弾丸を避けきってしまう。
「に、人間じゃない……」
弾を掠りもしないシモンに、半ば絶望しながら、男の一人は小さく呟いた。
「さあ、ここからは鬼ごっこだ。捕まるか、逃れるか、行く末は二つに一つ。精々穴の開いたその足で、頑張って俺を追いかけてみろ」
そう言い残して、暗に消えるシモンの頭の中に、既にこの三人の人間はいなかった。
まあ、こいつらはどうでもいい。
問題は、我が同胞だ。
我が同胞、そう、世間からは''選ばれし子供たち''と呼ばれる崇高な組織。
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平和なヘブンシティに、今までにない異変が起きたのは、つい最近のことだ。
現在から二十一年前、ヘブンシティのとある地区で、一人の子供が額に真っ赤な宝石を宿して生まれてきた。その子の両親は驚き、恐れたが、自分の子供に違いはないので、帽子などで額を隠し大事に育てた。
しかし、その赤い宝石を持った子供は、不思議な力を持っていた。超能力のような類ではない、もっと自然的で空想的で突拍子もない力。例えば、その子は火を生み出し炎を操ることが出来た。
そして、そういう不思議な力を持って生まれたのは、その子だけではなかった。
当時既に新興宗教として名高かったアモル教会は、アモル協会を作り、無から有を創る''神の力''を持った子供たちを''選ばれし子供たち''と称え、超能力犯罪者を抑制させるシステムを作った。
そのシステムは、力を持った子供たちを利用すると同時に、子供たちの居場所にもなったのだ。
しかし、協会の制服を着た人間全員が、''選ばれし子供たち''だという訳じゃない。協会が正式会員と認めているのは、確かに、神の力を与えられた子供たちだけだが、協会には子供たちをサポートする非正規会員もいる。ほとんどの協会の大人たちがこれに当たり、制服や会員証を持ってはいるが、仕事は事務仕事ばかりだ。
超能力犯罪の取り締まりを行うのは、やはり専ら子供たちの仕事なのだ。
シモンは恐れていた。
自分の仲間と戦うことになるのを。
でも、覚悟はとうに決まっていた。
そういう運命なのだということも、何となく分かっていた。
「止められるものなら止めてみろ。この俺を、誰か」
宣戦布告のように低い声でそう呟くと、シモンはギリリと奥歯を噛み締めた。