第三十四話「再会と決別」
お久しぶりです。
残った影と匂いを頼りに、全速力で路地裏を駆け巡り、数十分の時が過ぎた。
とっくに元いた繁華街からは遠ざかり、暗く静かな通りをずっと走っている。辺りにはゴミや瓦礫が散らばり、埃っぽく腐臭がする。
ゾイクにとって既に見知ったこの道は、二年前と大して何も変わってはいなかった。だから、この先が以前と同じ袋小路になっていることは鼻から予想できたし、そこに“相手”が待ち受けているのも何となく分かっていた。そして、以前と変わらないように見えるこの場所も、今や自分のテリトリーではなくなっていることも、ちゃんと自覚していた。
それでも、ゾイクはただ己の直感に従って、気配の後を追うしかなかった。
前に現れたのは、やはり行き止まりで、そこには複数の影があった。正確には、見える範囲に三つの影があり、見えない暗がりにもいくつかの気配は感じた。
視界に捉えられる三つの影は、人の形をしていなかった。四つの足に、耳としっぽがあり、それぞれ大きさや毛の色は異なるが、みな獣の風体をしていた。
ゾイクが言葉を発する前に、三匹のうち中央に立つ一匹が、ゾイクに向かって口を開いた。
「ゾイク、テメェもうこっち側には顔を出さないんじゃなかったのか?ァア?」
金がかった赤茶色の毛を持つ、まるで狐のような容貌の獣が、目をギラギラと光らせながら流暢な日本語を喋った。
他の獣たちも、威嚇するような目つきでゾイクを見ている。決して歓迎されているとは思えない空気だが、ゾイクは一切怖気付くことなく言葉を返した。
「ナシウス、なんでお前らがニンゲンを狙う?そんなの捕まえたって、何の得にもなんねーだろ」
「質問してるのはこっちだぞ、ゾイク。どのツラ下げてこんな所までのこのこ追いかけて来てんだよ。まさか、テメェもニンゲンが欲しいってわけじゃねえだろうな?」
「なわけねえだろ。オレがニンゲンを捕まえて何になる?」
「じゃあ何でここまで追いかけてくる?それほどの理由があるんだろうが」
「だから、そのニンゲンはオレの……えっと、仲間みてえなもんなんだよ。だから放してもらわねぇと困る」
「……仲間?」
その単語を聞いたナシウスという獣は、あからさまに表情を曇らせる。周りの獣たちも、こそこそと何か囁きあっている。
「お前らのリーダーが、ニンゲン捕まえてこいっつったのか?」
ゾイクがそう尋ねた途端、ナシウスは鼻先にしわを寄せた。
「……ゾイク、初めて会った時からバカだバカだとは思っていたが、本当にとんだイカレ野郎だな。お前は」
「は?」とゾイクも怪訝な顔をする。
「ニンゲンが仲間だなんて、本気で言ってんのか?テメェ、本当に信頼できるのは同族だけだって、前に口酸っぱく言ってたのはどこのどいつだよ。しかもお前は、吸血鬼を何よりも憎んでたはずだろ。何だってわざわざ、吸血鬼どもが狙ってるニンゲンと関わろうとする?」
「知らねーけど、そうなっちまったもんは仕方ねえだろーが!別に、ニンゲンを信頼してるわけでも、吸血鬼を許したわけでもねェ。ただそのニンゲンが、殺されたり、吸血鬼の餌になったりすれば、弟が悲しむ」
「出たよ、弟。生粋のブラコンは健在か」
他の獣が冷やかすようにそう言うと、ナシウスは「黙れ!」と怒鳴り声を上げた。
「弟?テメェはここを抜けた時もそんなこと言ってたけどな、ンなクソみてえな理由のために、ニンゲンを返してやれるかよ。テメェの弟が泣こうが死のうが知ったこっちゃねえ、俺たちの生活がかかってんだ」
その言葉に、ゾイクは眉をひそめる。
「生活って、お前ら、何のためにニンゲンが必要なんだ?まさか、吸血鬼となんか関わってんじゃねえだろうな。シルバーはそれを」
「うるせえ!!いつまでもグチグチほざいてんじゃねえよ。お前はもうリーダーでも、【アーク】の一員ですらねえんだ。これ以上干渉するなら、俺たちも黙ってねえぞ」
激昂するナシウスに、ゾイクはしばらく考え込むように黙った後、ゆっくりと口を開いた。
「……気づいてんのか、ナシウス。もし、ニンゲンを売ることで生活しようとしてるんなら、お前らのやってることは、アイツらと同じだぜ?」
「本当に阿呆だな、お前は。俺たち獣族や吸血鬼どもに限らず、世の中はだいたいみんな同じようなことをやってる。売るか、売られるか。殺すか、殺されるか。重要なのは、どちら側に立つかってことなんだよ。俺は売られるくらいなら、売る側に立つのを選んだだけだ。何が悪い?」とナシウスは言いながら、ヘラリと笑うように牙を見せる。
ゾイクは顔をしかめたまま、拳を強く握りしめた。
「……かつて奴隷だったオレたちは、ジャクシャの痛みを知っている。だから、ジャクシャを救うための集団として、協力して生活していたはずだ。そんなカンタンなことも忘れてんのか、お前は」
「ムズカシイことが分からん馬鹿には理解できねえだろうけどな」
「理解したくもねえ。オレはな、アイツらのことはもちろん嫌いだけど、アイツらと同じことしてるヤツらは仲間だろうが何だろうが同じくらい気に食わねえ」
冷めた声音でそう言い放つゾイク。
ナシウスは束の間の沈黙を置いた後、大きくため息を吐いた。
「……結局、いつまでも過去の方針に囚われてんのはお前も同じか。お前らがこんなだから、俺たち獣族はいつまでたっても貧困や差別から逃れられねェ。まあ、お前とこれ以上話しても時間の無駄だな。ここに帰ってきた時点で、自分がどうなるかくらい分かってんだろ」
「…………」
闇に紛れていた何匹かの獣が、瞬時にゾイクの後方へと回り退路を断った。そしてナシウスの両脇にいた二匹が、低い唸り声を上げながら、ゾイクの方へにじり寄ってくる。他の獣たちもそれに倣ってじわじわと迫ってくる。
ゾイクは何も言わずに、素早く部位の獣化を全身に切り替えると、あっという間に褐色の肌を太く鋭い毛が覆い尽くした。そして先手必勝と言わんばかりに、ナシウスに向かって飛びかかる。
しかしナシウスにゾイクの爪が届く前に、周りにいた獣たちが次々とゾイクに襲いかかり、容赦なく分厚い皮膚に噛み付いた。ゾイクはもがこうとするが、相手の数が数なので、手足を自由に動かすこともかなわない。抵抗する暇もなく、ゾイクの獣化した手足は皮がえぐられ、血が流れ出てくる。
「情けはいらねえ。コイツはもう、俺たちを見捨てて出て行った、裏切り者のようなもんだ。【黒獣】はしぶといから、回復する前に一気に殺れ」
ナシウスがそう言うと、さらに何十もの獣たちがゾイクを取り囲み、代わる代わる攻撃をしかける。
ーー痛い。
とんでもなく痛い。
前回の吸血鬼との戦いで負った治りかけの傷が、開くどころの騒ぎではない。いくら獣化して身体が頑丈になっているとはいえ、多勢に無勢。獣たちの鋭い牙は何度もその真っ黒な毛皮を噛みちぎり、このままでは四肢がもげるのも時間の問題である。
自分の体から、血がぼたぼたと音を立てながら地面に滴り落ちていくのを、ゾイクはどこかぼんやりと眺めていた。
久しぶりの感覚。
頭と体と心が、バラバラになっていくような。
いくら傷が増えようと、痛みに慣れることはなく、脳内は痛覚に泣き叫び、体はジタバタと暴れ苦しむ。なのに、なのになぜか心はどこまでも“無”に近かった。
戦いの中で生まれ、戦いの中で育った。ゾイクにとって“痛み”とは、それくらいにあくまで日常的なものであり、親しみ深いものであった。
そう、二年ぶりだ。こんなに体が熱くなって、頭の中が真っ白になって、心が無になるのは。
それは決して心地いいとは言えない感覚だったし、忘れていられるなら忘れていたいものだったけれど。
命の危機。気づけば、それにすら懐かしさを覚えるほど、俺は。
「……ってえ」
「あ?」
ゾイクの体がわずかに震えているのを見て、ナシウスは怪訝な顔をする。
深い青の瞳が、ばちりと燃えるように光った。
「いってえんだよ!!!!」
吠えるように叫んだ瞬間、ゾイクに押さえつけていた獣たちは吹き飛ばされる。周りに集まっていた者たちも瞬く間に殴り飛ばされ、周囲のボロ屋に突っ込んでいく。蹴散らされた獣たちは態勢を整える間もなく、まさに倍返しという勢いで叩きのめされる。
ゾイクの纏う雰囲気は戦う前と少し変わり、形勢は完全に逆転していた。
「……何なんだよ」
赤茶色の狐は白い牙を剥き出し、顔を歪ませる。
何でだ。
配下はほぼ総動員だ。
三十はいる。三十対一で、何で。
何で、勝てない。
何で、殺せない。
何で、死なない。
何で、何もかも思うようにいかない。
何なんだよ、
「何でなんだよ!!」
ナシウスが暴れ回るゾイクに飛びかかろうとした瞬間、目の前に“銀色”の何かがふわりと降り立った。
その無色でいて鮮やかな色彩に、ナシウスは目を見開いた。そして、動きは自然にピタリと止まった。
「やめとき、ナシウス。ゾイクが暴走したら、家なしがもっと増えることになる」
「……なっ、シルバー」
ナシウスの顔が、みるみるうちに怒りから冷めるように真っ青になっていく。
そこには、“銀色の毛をしたうさぎ”がちょこんと座っていた。
「ご無沙汰。最近あんま顔見んな思とったら、あんた何しとるん?こんなとこで」
「……お、前には関係ない。いつか逃げるようにここを出て行ったヤツが、わざわざ帰ってきやがったから殺そうとしてんだよ」
ナシウスの言葉に、うさぎはクンクンと小さな鼻を動かす。
「は?何言うてんの、ゾイクは仲間やろ。ここを出て行ったヤツは敵になるなんて、わしはそんなルール作った覚えないわ」
「でもアイツはあんな大変な時期に、ここを捨てて出て行ったんだぞ!!」
「ゾイクはもともと、弟が見つかるまで、っていう約束でここのリーダーやっとったんや。わしが誘ってな。あんたの気持ちも分かるけど、それだけの理由で殺してまうのはやり過ぎちゃうん?」
ナシウスはぐっと言葉に詰まる。
一方で、ゾイクに立ち向かっていた獣たちも、銀のうさぎを視界に入れると、皆凍りつくようにその場に立ち尽くした。
「何で、リーダーがここに?」
「聞いてねえぞオイ」
「どうすんだ」
「殺される……」
口々に喚きながら、そのいずれもが逃走することもなく、ただ絶望している。
ゾイクも立ち止まり、荒い呼吸を繰り返しながら、突然現れた銀のうさぎを見据えた。
うさぎも、その場に固まるナシウスの前をぴょんぴょんと通り過ぎると、血まみれのゾイクをじっと見つめた。
「ゾイク……」
「シルバー……」
黒い犬と銀のうさぎ。二匹はしばらくの間ただ見つめあっていたが、どちらからともなく獣化を解き、人の姿に戻ると、お互いに強く抱きしめあった。
「生きとったか!ゾイク!!」
「いててててて、痛えけど、良かった!!そっちもまだ死んでなくて!!」
「あ!?まだとは何や、まだとは!!」
笑顔で抱き合う二人に、辺りにいた獣たちもとっくに戦意を失っているのか、ナシウス以外は獣化を解いて人の姿に戻っていく。
人の姿となったうさぎは、肩までの銀髪にひょこんと生えた長い耳、真珠のような銀の瞳をした小柄な女性だった。その容姿は清廉で美しく、薄汚い裏路地にはあまりに浮いて見えた。
「わしらはこの通り、元気にやっとるわ。まあ、元気すぎるのも大概やけどな。ほんまに」
銀髪の女性にじろりと睨まれた獣族たちは、びくびくと後退りをする。
ゾイクはシルバーの両肩に手を置き、その顔を改めてまじまじと見た後、はあと息を吐いた。
「お前、その訛りは変わってないのな……」
「ええやろ別に。通じるんやし」
「まあそうだけど、なんか見た目とあってねー気がすんだよなあ」
「どう見たってあってねえだろ」
ボソッと呟くナシウスに、シルバーはくるりと振り返り腹に蹴りを入れる。ゴブッという鈍い音とともに、ナシウスは倒れ、狐はたちまち人の姿に戻った。
明るいオレンジ色の髪に、狡猾そうな茶色の瞳をした青年。彼はすぐによろよろと立ち上がり、鋭い眼差しでシルバーのころんとした丸い目を見下ろした。
「お前が何と言おうと、俺はそいつのことは認めねえ。そいつは戦う仲間を放って、吸血鬼公爵様の屋敷にいる身内に会いにいくようなヤツだぞ。こっちに戻ってくる気なら、それ相応の落とし前はつけてもらわねえと」
「もうその話はええよ。元々ここのもんじゃないゾイクに、落とし前もクソもない。それよりナシス、わしがしたいんは、あんたの話や」
「は?俺が何だっていうんだよ」
眉をひそめるナシウスには、ほんの一瞬だけ動揺が見えた。シルバーは銀箔をちりばめたような睫毛をパチパチ瞬かせながら、薄桃色の唇を開いた。
「まさか、わしが何も知らん思っとるん?わしがこの街のことなら何でも知っとるんは、そばにおったお前さんが一番よう分かっとるやろ」
「…………」
「……んで、“ニンゲン”はどこにおんの?」
そう言って目を細めるシルバーに、ナシウスはいっそう顔を険しくさせるが、重い静寂が流れた後、急に表情を一変させクスクスと笑い出した。
「やっぱりリーダーには隠せねえか。それにしてもバレるの早すぎんだろ。一日どころか二時間も持ってねえぞ。こんな有能なリーダーを持って幸せ者だよなあ、お前ら」
「二時間どころか、あんたが吸血鬼と関係持っとるんは前々から薄々感じとったわ。大方、アイツらにニンゲン連れてきたら大金回したるとでも言われたんやろ?」
「だったら何だっつうんだよ?あ?」
「いや、それ、正気なん?」
シルバーの目は、もう笑ってはいなかった。
ナシウスはゴクリと唾を飲み込み、ニヤリと笑った。
「ああ。お前がいつまでたっても前へ進まねえから、俺が進めてやってんだよ」
「進める?あんなクソ連中にペコペコ頭下げて貢ぎ物献上することの、どこが進んでるん?なあ、あんたはどこへ進んでんの?ナシス」
「あんたは暇さえありゃ貧乏人やら犯罪者やら少数民族なんかとばっかつるんで、時間も金も浪費して、だからいつまで経っても俺たちゃみんな弱者のままなんだよ。強いヤツと組めば、俺たちは上へ上がれる。それが一時の恥だったとしても、相手が俺たちを迫害してたヤツらだったとしても、上へ上がるにはそれしかない。上へ這い上がり、富や権力を手に入れれば、お前の好きな弱者どもにももっと楽をさせられんだろうし、吸血鬼は利用するだけ利用して、用が済めば殺しゃいいだろ」
ナシウスがそこまで一気にまくし立てると、シルバーは華奢な足を前へ伸ばし、ナシウスを思い切り蹴り飛ばした。完全な不意打ちに、空中で立て直すことも出来ず、ナシウスは道の脇に積んであったゴミの山に派手に突っ込んだ。横で見ていたゾイクは、「おおー飛んだなー」と感心している。
「あんたの言う弱者って何や?強者って何や?上へ上がるって何や?富や権利を手に入れた先は?国でも建てる気なん?誰と手を組もうがあんたの勝手や、でも相手はよう考えとき?一時の恥とか言うとったけど、一生の恥の間違いちゃう?」
シルバーは低い声でそうナシウスに詰め寄ると、パッと後ろを振り向いた。そして、不安げにこちらの様子を見守る獣族たちに向かって、「ついてく相手もよう考えなかんで?こんなクソの反吐も出んような男に従っとったら、命いくつあっても足りひんで」と言い放った瞬間、ナシウスがゴミの中から飛び上がり、背後からシルバーの腕をガシッと掴む。その手をさらにシルバーの逆の手が掴み、すぐに引き剥がそうとするが、ナシウスの手はシルバーの腕から離れない。腕の骨が砕けるのではないかというほどの力の強さに、シルバーは思わず顔をしかめる。
「力比べだったら負けねえぞ、シルバー。言わせておけばこのヘタレうさぎが。それじゃあ逆に聞くが、お前にとっての弱者とは何だ?強者とは何だ?どこへ向かって、いったいどんな素晴らしい偉業を成そうとしている?」
「弱者とは、何も出来ん何も守れん奴。強者とは、何を失っても、一番大切なものだけはしっかりと守れる奴。【アーク】の現リーダーであり創設者である私は、どんなに貧しくとも、差別されようとも、仲間同士支え合って生きていけばそれでええと思っとる。どうや、これで満足か、副リーダーさんよ」
「……ああ、満足だ」
そう呟くと、ナシウスはあっさりとシルバーから手を離した。シルバーは赤くなった腕をさすりながら、チッと舌打ちをする。
「女の子に乱暴するもんちゃうで」
「なあ、ゾイク。お前もだいたいこのうさぎと同じようなこと考えてるんだろ?」
ナシウスの唐突な問いかけに、ゾイクは少し迷ってから「まあ、そうなんじゃねえの。あんまよく考えたことねえけど」と答えた。
「まあ、そうだろうな。でもな、俺だって考えてることはお前らと同じなんだよ。なのに、やってることはこんなに違うんだから、おかしいよなあ。……みな平和を望みながら、手には違う武器を持っている」
どこか嘲笑うかのように言うナシウスに、シルバーは眉をひそめる。
「ナシス、答えを見誤ったらかんで。あんたがやろうとしとることは」
「リーダーだからって、全知全能の神にでもなったつもりか?答えが正しいかどうかは、やってみるまで誰にも分からねえ。シルバー、俺はずっとお前のそう言うところが気に食わねえんだよ。何でもかんでも見透かしてるような面しやがって。お前にずっと従順についてきた仲間たちが、いったいこれまでで何匹やられた?何十が殺された?何百が死んでいった?」
詰問するナシウスに、シルバーは一瞬苦い顔をした。
「わしにも至らんところがあるんは認める。でも、吸血鬼に下るのだけは絶対に認めんよ。アイツらはわしらのことを、奴隷か物としか扱ってへん。それならまだエルフと手組んだ方がマシやわ」
「じゃあエルフと組んでみろよ。全種族に自由を与えるとか何とか偉そうなこと言っておいて、仕事もなけりゃ住む場所もねえ、当然金も食い物もねえ。こんなクソスラム街で俺たちが溜まってんのは、そもそも奴隷解放した英雄気取りのくせして、解放した後は何もしねえエルフどものせいなんだぞ」
「一部のエルフは、貧困に苦しむ獣族を援助しとる。死ぬまでこき使われ、使えんくなったら殺される、生きる権利すら無かった奴隷時代に比べれば、スラムでも自由でも無いよりはマシやろ」
「マシマシマシマシ、いつまで俺たちは、そのマシな泥を舐めて生活しなきゃいけねえんだ。何で俺たちは吸血鬼のように贅沢できない?何でエルフのように好き勝手できない?援助?それこそ偽善者どもがクソみたいな良心満たすためにやってるだけだろ。そんなのに縋るほど獣族ってのは落ちぶれてんのか?もう、お前とは話になんねえな」
「……そのセリフ、そっくりそのままお返しするわ」
激しい口論の末、火花を散らして睨み合う二人に、見かねたゾイクはまあまあと間に入った。
「オレはもうここの一員じゃねえし、また戻るつもりもねえから何も口出ししねえけど、とりあえず捕まえたニンゲンを放してくんねーか」
「まあ、そんな傷だらけで急ぎなさんな。ニンゲンのとこには“アリス”が向かっとるから、大丈夫や」
シルバーがそう返すと、ナシウスはハッと嫌味っぽく笑った。
「なるほど、アリスか。そりゃ俺の部下どもでもかなわねえよな。まったく、あんだけ使えりゃ汚ねえドブから拾った甲斐もあったな」
「ナシス、いい加減にしいよ。それ以上その腐った口動かすならもう容赦せんで」
「いいや、お前はせっかくの計画を台無しにしたんだ。この際言いたいことは全て言わせてもらうが、そもそも昔吸血鬼どもに下ってたのは他でもないお前じゃねえか。悪趣味なジジイと寝て、情報と金と権力を手に入れたから、この一帯を仕切れるようになったんだろ、違うか、アア?」
ゾイクは一瞬目を見張ったが、口は噤んだまま、シルバーの横顔にちらりと目をやる。
シルバーは何も言わず、ただナシウスの顔を穴があくほど見つめた後、静かに声を発した。
「…………ナシス」
「……何だ」
その声は想像していたより、とても落ち着いていて穏やかだったが、次に発された言葉はその声音とはまるで裏腹なものだった。
「追放や」
「……あ?」
「あんたとはいつか分かり合えるん思っとったけど、もう限界やわ。わしの言いたいことが、あんたに伝えたいことが、そんなに理解できんなら、こっから出てき。そんで自分の好き勝手すればええやろ」
吐き捨てるようにそう言ったシルバーに、ナシウスは少しの間茫然とした後、ペッと地面に唾を吐いた。
「……上等だ。これでもうあんたに指図されなくて済む」
「お、おい待てよ。まさか本気じゃねえだろうな?お前らもう何年も一緒にやってきてんだろ」
いきなりの展開で焦るゾイクを、シルバーはキッと睨みつけた。
「さっき口出しせん言ったんはあんたやで、ゾイク。部外者は黙っとき」
「だけどよ、こんなことで何もツイホウまでしなくても」
「これは、決して今回の一件だけが理由やないんよ。色んなもんが、溜まり溜まって、こうなったんや」
シルバーが厳しい口調でそう言うと、ナシウスはゆっくりと腰を屈め、シルバーに顔を近づけて言った。
「そりゃこっちだって同じだ、チビウサギ。自分で追い出したからには、やっぱやめたはナシだぜ」
「当たり前や。あんたがここに帰って来れるんは、わしに『すんませんでした』つって土下座した時だけや。その覚悟であんたが戻ってくるまでは、わしからあんたに関わることも呼び戻すこともせん」
「……言ったな」
「女に二言はないわ。吸血鬼と手繋ぐからには、あんた獣族の縄張りにはもうおられへんで?うちらが仕切る土地以外でどうやって生きてくんか、見てみようやないの」
余裕ありげに笑うシルバーに、ナシウスはしばらく険悪な表情を浮かべていたが、結局その後は何も言い返さず、背を向け狐の姿に戻ると、パッと消えるようにその場を去った。
それに続いて、何匹かの獣も闇に溶け込んでいったが、大半の獣族はそのままその場に膝をついていた。やはり、たとえナシウスの部下であっても、道を違えた以上、組織のリーダーについていく者の方が多い。
コイツら、こんな仲悪かったっけ……。
思いも寄らない展開に、もはやゾイクは呆気にとられていた。
「ゾイク、あんたには話がある。もちろんニンゲンの話も、それ以外の話も。ここ二年のことも聞きたいし、久々にうちに来てゆっくり話そうや」
「……いいのかよ」
「何が?」
「オレたち獣族にとっては、仲間と家族が全てだ。アイツはたしかに性格悪ィけど、お前にとっては仲間であり家族だったはずだろ」
「だった?今もそうやけど」
ケロッとした顔のシルバーに、ゾイクは理解不能と言わんばかりに眉間にしわを寄せる。
「じゃあ何でツイホウなんかした?アイツが本当に吸血鬼に命令されてやったんなら、ニンゲンを手に入れられなかったアイツは、吸血鬼に殺されるかもしんねーぞ」
「ならあんた、お仲間のニンゲン差し出すんかいな。それとも今度はナシスを追って、上にいる吸血鬼ぶっ倒すんか?そんな上手いこといかんやろ。それに、アイツは一回殺されるくらいせんと、頭冷やさへんで」
シルバーは一向に考えを変える様子もなく、ゾイクの反論を一蹴すると、また銀に煌めくうさぎへ変身し、薄暗い通りを飛び跳ねはじめた。
「ついてき。ニンゲンの子に会わしたる。傷の手当てもせなあかんしな」
「……おう」
どこか気のない返事をしながら、ゾイクは傷だらけの体を引きずって歩き出す。
これ以上彼女に何を言っても無駄だろう。
ナシウスの件はとりあえず置いておくしかない。
小さなうさぎを筆頭に、ゾイクと獣たちはぞろぞろと動き出し、それは一つの群れとなって廃れた路地裏をまっすぐに進んでいった。




