第二十八話「地下帝国にて」
コツコツと、等しい間隔で靴音が鳴り響く。
中世西ヨーロッパのロマネスク様式をふんだんに取り入れた、荘厳で巨大な城の中。
その人間が生み出した文化の中に、今や人間の姿はない。いや、人間が地球を支配していた時代には、そもそもこの場所自体が存在しなかっただろう。
ここは、吸血鬼の王が統べる、吸血鬼のため“だけ”の国なのだから。
常に空には夜の闇と紅一点が浮かぶこの世界で、時計もちょうど忠実に深夜を指している現在。
王族の住まう宮には、いつも以上に緊迫とした空気が漂っていた。
星空の見える長い回廊を、二つの影がゆっくりと歩いていく。
指の間を、ひんやりと冷たい風が流れていく。
それは、まるで深海へ沈んでいく水葬のような、ゆったりと死に浸っていく感覚に似ている気がした。
が、それは朝の海辺のような、心地よい温度でもあった。
柱と柱の間から、くっきりとした白い光が溢れている。
「ふんふふん、ふんふんふふんふん」
静閑な雰囲気を無視した陽気な鼻歌が、辺りに小さくこだましていく。
二つの影のうち、一つは男の影で、もう一つは女の影だったが、鼻歌の出所は女の方だった。
男は、隣を歩く女をチラリと見やった。
風に靡いた黒髪が、さらりとその頰を撫でていた。
そして、服の上二つのボタンが、だらしなく外れているのが目に映った。
「ふんふん、ふんふふんふんふん」
視線に気づいていないのか、女の鼻歌は続く。
男は若干顔をしかめながら、口を開いた。
「静かにしろ、夕月。それと服くらいきちんと着てくれ。陛下の御前に立つんだぞ」
「ええー、だってこの服窮屈なんだもん」
夕月と呼ばれた女は、めんどくさそうに口を尖らせた。
「はやく直せ。陛下のお気に障ったらどうする」
「……ちー」
夕月は渋々、ボタンをきちんと上まで止め、ポケットから黒いドレスグローブを取り出し、両手にはめる。
そして真っ黒のネクタイを、隣の男に向かって差し出した。
「ケイ兄、ネクタイを結んでくれ」
「……お前、そんなのもまだ一人で出来ないのか」
「うん、する時は侍女にしてもらってるし」
「はぁ……」
心底、大きなため息が出る。
しかし、コイツにちゃんとしてもらわないと、こちらが困るのだ。仕方ない。
廊下を進む足を一旦止め、男は夕月の襟にネクタイを巻いてやる。
壁に飾られた肖像画たちが、向かい合う二人をじっと見つめている。
まるで時間が止まったかのような、静寂のひととき。
男は慣れた手つきで、するすると細いネクタイを締め終える。皺一つない、綺麗な仕上がりだ。
「ありがと、兄様」
にこりと笑う、我が種族を象徴する瞳。
男はそれを一瞥すると、無表情のまま、またすぐに先へ歩みを進める。
「次の招集までには、一人で出来るように練習しておけよ」
「りょーかいりょーかい」
そう言って、あははと軽く笑う、自分とよく似た顔。
絶対にコイツ、練習などしないだろう。
そう察するが、いちいち叱る気力もないので、これ以上は何も言わないでおく。
もしかしたら、そもそも自分たちには次など“無い”かもしれないし。
男は一人静かに深呼吸を繰り返す。
これからのことに精神を統一させながら、昨日のことを改めて回顧する。
王に見える前に、夕月と一度話しておきたかった話題があったのだ。
男はおもむろに口を開く。
「……月詠のことを、お前はどう思う?」
「月詠?」
思えば、昨夜の戦いで、夕月は一言も月詠と言葉を交わしていなかった。地下帝国で共に暮らしていた頃は、腹違いの姉妹の中でもかなり仲が良い方だったし、約十年ぶりに再会したのだから、何か話したいこともあっただろうに。
男は夕月の横顔をチラリと見やる。
彼女は大きな丸い瞳を、更に大きくしていた。
その紅玉の中には、色んな感情や思い出があてもなく渦巻いていたが、夕月はその全てを懐かしむように頬を緩めて言った。
「知らない間に、大きくなっていたねぇ」
「まあ、見た目はあまり変わっていなかったがな」
「中身の話だよ。姉としては、その成長が少し寂しいとも思うけどさ、ボクは今でも彼女を妹として愛しているよ?」
男は怪訝な顔をする。
「……道を違え、こちらに刃を向けても?」
「うん。それでも、好きだということは変わらないよ。間違いを犯したのなら、その間違いを正してやるのが家族でしょ?愛しているからこそ、ボクは彼女と戦おうと思うけどね」
「あいつを殺せるか?」
男が尋ねると、夕月はケラケラと笑った。
「もちろん。やむなく仲間を殺したことは今までにも何度かあるし。月詠も、それと同じ。次に会った時は殺すつもりだよ。もし、それ以外に方法が無ければね」
「それ以外に方法が無ければ、な」
男はそう反芻しながら、人間の血を飲んだ月詠のことを思い返した。少なくとも、あの状態の彼女を止められる方法が、他にあるとは思えないが。
そもそも、俺たちは血を飲んだアイツにまるで歯が立たなかった。次に会った時、もしまた血を飲まれたとしたら、俺たちは勝てるのか?逆に殺されるのではないか?
難しい顔で思案していると、夕月が顔を覗き込んできた。
「兄様は?だいぶ月詠に怒ってたけど。本当は、殺さずに自由にさせてあげたいんじゃないの?」
「ふざけるな。陛下に背を向け、叛逆した者には死しかない。俺はもう、アイツを妹だとも思っていない」
「またまた〜。冷たいこと言っちゃって」
ぷくくと夕月は可笑しそうに笑った。
そして、案外情に厚い妹は、何が楽しいのかご機嫌にもスキップを始めた。
タンタンという軽やかな足音と共に、肩の上で切り揃えられた髪が、元気に跳ねている。花畑の中にでもいるかのような調子で、自分の後ろをついてくる。
その能天気さは、胸を締めつけていた緊張感をいくらか解したが、城内を満たす張り詰めた空気の中で、彼女の纏う雰囲気はまるで異質だった。
とても、“死”に向かって行っているとは思えない、夕月の足取りに、男は眉をひそめた。
コイツは、自分たちが今どういう状況にあるのか、本当にちゃんと分かっているのか?事の深刻さを、理解出来ているのだろうか?
我が妹ながら、何を考えているのか、さっぱり分からない。
男はもはや呆気にとられながら言った。
「夕月、お前さっきからやけに楽しそうだな」
「えー?そりゃ、久しぶりに父様に会えるからねぇ」
本当に嬉しそうに、はにかんだ微笑を浮かべる夕月。
父様とは、つまり王であり陛下で、陛下とは、つまり臣下に“罰”を下す主である。
男は眉根を寄せたまま、少し冷めた声音で言った。
「……俺たちの任務は、完全に失敗している。その意味を、分かってて言ってるのか」
「分かってるよ」
ぼそりとそう答えた夕月の瞳は、紅く澄んでいて、僅かに揺れていた。それは無知な者の目ではなく、覚悟を決めた者の目だった。
「……そうか」
男は妹から視線を逸らし、目的地へ向き直る。
クラブの主力が集う玉座の間は、もう、すぐそこだ。
襟を正す。
それでも、顔の筋肉が硬直していくのは、どうしようもない。汗ばんだ手を握り直す。
ただならぬ気配が漏れ出る、厳かな扉の前へ立つ前に、小さく呟くように言った。
「ごめんな」
隣を歩く夕月は、ぱちぱちと目を瞬かせた。
そして、キョトンと首をかしげる。
「なにが?」
「…………」
その問いには何も返さず、ただ王の元へ迷わず向かう自分の手を、夕月はそっと握った。
所々に傷がある、でも柔らかい、真っ白な手。
「ボク、兄様の妹でよかったなあ」
目に映ったのは、本当に心の底から、幸せそうな笑顔で。どうしたら、死ぬかもしれない時に、こんな顔が出来るのだろうか。
久しぶりに感じる、心のどこかでずっと埃をかぶっていた感情に、男の無表情は崩れそうになった。
「……俺もだよ」
幸せと不幸は、本当に紙一重のところにある。
待つのは、死よりも酷い極刑かもしれない。
逃げ場など、どこにもありはしない。
我が主であり、父である吸血鬼王の命を遂行できなかったのだ。罰は受ける。覚悟はとうに出来ている。
……でも、あわよくば、夕月だけは。
まだネクタイも一人で結べないこの妹だけは、救ってやりたい。
もう一度、小さく深呼吸をしてから、重い扉に両手をかけた。
開いた先から零れ出る暗闇。点々とついた微かな灯りだけが足元を照らしている。
中へ足を踏み入れた瞬間、多方向から複数の鋭い視線と圧迫感を感じる。
しかし、それでも一番強いのは、やはり真正面から突き刺さる、畏怖をも感じさせる威圧的な眼光。影の中で光る、鮮紅色の双眸だった。
ーー
「陛下、只今戻りました」
平坦とした声を装うが、それでも微かに震える。
「……随分と遅かったな。桂月」
そう言って優雅に笑うのは、父であり、王である独りの吸血鬼。王は、一番高い玉座に堂々と座り、二人の美しい女性を両脇に従えていた。
その容貌はまだ精悍としていて若々しく、オールバックでまとめられた黒髪も艶やかで、とても“三百”を超える老人には見えない。
しかし、その身から滲み出る威厳は、間違いなく一種族を治める王のそれであり、息子である自分でも畏敬の念を覚えずにはいられないほどのものだ。
過去、魔王に次ぐ世界第二権威とされた、現吸血鬼王マルコ。又の名を絶対王。その名の由来は、彼の絶対的な思考と権力から来ている。
選民意識が強く、吸血鬼以外の種族を差別する思想を持っていて、それに準じた政治体制をとっているため、種族平等を唱える現エルフ王とは相容れない、犬猿の仲である。
が、逆に言えば、同種族からの崇拝は他種族の王に寄せられるそれとは比べ物にならないほど厚い。また、王室には三人の妃と数え切れない側室、四人の王子、さらに十二人の王女がおり、他の親類も合わせると膨大な数になる。
この招集の場に居合わせている、執行クラブという組織もメンバーの大半が王族か、その遠縁の貴族から成り立っている。とはいえ、桂月にとって親族は、ほぼ腹違いか、全く血の繋がりもない者のどちらかだ。実際、夕月は実の妹だが、月詠は側室の娘であり腹違いの妹だった。
桂月や夕月がそれを気にしたことはないが、種族に誇りを持つ吸血鬼にとって、血が繋がっているか否かは重要なことであった。よって、王の血を継ぐ王室の子供たちは、帝国民はもちろん、貴族たちからもそれこそ“神”のように崇められていた。
ただしそれも、王に忠実に従い、その命を実行するだけの力を持つ器に限り、だが。
「父様!夕月も帰りました!」
その場の、とても穏やかとは言い難い空気を紛らわすように、夕月は明るい声で言った。
父王は、それには何も返さず、ただくつくつと口だけで笑った。ぐるりと円のように二人を取り囲む幹部たちも、二人を見てざわめいたり、何かを囁いたり、嘲るように笑ったりしている。
今は、この場に招集されているクラブのメンバー全員が、同じ組織にいる仲間ではなく、自分たちの罪の采配を振る審査員だ。一瞬の隙も見せてはならない。
桂月は頭上にいる王に向かって、さっと傅いた。
「陛下、恐れながら申し上げます。ジャパムスの連中から、人間二人を生け捕りにすることは出来ませんでした。処罰は、何でも受ける覚悟です」
「生け捕りにすること“も”、出来なかった、だろう」
王は余裕のある笑みを浮かべながらも、その瞳の色は冷然としていた。
「……申し訳ありません」
桂月は奥歯を噛みしめながら、さらに深く頭を下げる。
「見たところ、“例の人形”どころか、月詠すら連れ帰っていないではないか」
「……月詠は、陛下への捧物である人間の血を飲み、我々に反抗してきました。それで退却せざるを得ず、エメルダ・レイフィアも、取り逃がしました」
桂月の言葉に、一気にその場は騒然となる。
「十三王女が反逆か」
「まさか、人質にとられていたのに?」
「ジャパムスに寝返った?」
「エルフの洗脳だ」
「あの公爵の影響じゃ」
「黙れ」
王の一声で、吸血鬼たちの喧騒はすぐに鳴り止む。
王は依然として表情を変えないまま、低い声音で続けた。
「それでのこのこ帰ってきたと?手ぶらで?」
「返す言葉もございません」
こうべを垂れる桂月の隣で、夕月は王座に向かって唇を開いた。
「しかし、父様、聞いてください」
「おい、夕月」
王の許しもなくむやみに発言するのは、たとえ王族であっても憚られる。桂月が急いで遮ろうとするも、夕月は構わず声高に公言した。
「敗因は、月詠が“王の血”を使ったことだけでなく、そのそばにマーティン公爵、レイフィア、そして、エルフの王族の者がいたこともあります。僭越ながら、あのエルフの王族さえいなければ、人間一人は父様に捧げられたと思います」
最後の言葉に、吸血鬼王はピクリと眉を上げる。
「エルフの王族?」
「はい。実際にボクが戦ったので、確かです。隠しているようでしたが、あれはエルフの王族のみが操れる炎でした」
「何故そのようなことが、お前如きに分かる?夕月」
凄むような王からの問いかけに、夕月は思わず目を泳がせるが、口ははっきりとそれに答えた。
「ボクは、父様と、エルフ王の戦いをまだ覚えています」
「ああ、なるほど」
王は顎を触りながら、どこか遠くの方に目を移した。遥か昔の記憶を遡っているかのように。
「このような状況でしたから、いくらボクと兄様でも、むやみに奴らを深追いするわけにはいかなかったのです。寛大なるご慈悲で、どうかもう一度、ボクたちにチャンスをください」
「…………」
王は黙り込んだまま、ただ夕月の瞳を見つめた。
「王に意見するなど」
「いくら王女とはいえ無礼すぎる」
「何にしろ、全てが言い訳に過ぎん」
「命乞いか?」
周囲からひそひそと聞こえる非難の声。
桂月は妹を庇うように、上にいる父親の顔を見上げた。
「妹の非礼をお詫びいたします。陛下、まだ幼き者です。どうかご容赦ください」
そう言ってまた、粛として頭を下げるが、それでも一向に辺りのどよめきは収まらない。
王はしばらく沈黙していたが、やがて隣の女性の髪を触りながら、口を開いた。
「桂月よ、俺は二十一の時に王の座まで上り詰めた。当時の俺は今のお前たちの何倍も若かったが、決して幼き者ではなかったぞ」
それを聞くと、ようやく聴衆の席も静まり返り、王の言葉に耳を傾ける。
「だが、我が娘の話は、なかなかどうして興味深い。あの老害が自分の“息子”を、人間のそばに置いているのだとすれば、事は相当に面白いことになっているようだ」
吸血鬼王は一瞬、微かに口元を緩めたが、すぐに鋭い眼差しで夕月を見下ろす。
「しかし夕月よ、お前は、お前の父親に寛大なる慈悲があると思うか?」
そう言いながら、王は妖しげに目を細める。
その真紅の瞳は、慈悲があるようにもないようにも見えた。
夕月は苦い唾を飲み込んでから、慎重に言葉を選ぶ。
「……父様には、偉大な力があります。力を持つ者は、慈悲を持つ者であると、ボクは思っています」
「ほう」
王は短くそう呟くと、今度は桂月の方に目を移した。
桂月は強張った表情のまま、こちらをじっと見据えている。その顔は、妹の傍若無人な行為を前にして、微かに青白くなっていた。その様子を見るからに、自分の命の心配というよりは、妹の命の心配をしているようだ。
王は内心ため息を吐いた。
ーー余裕を持っているのは、兄より妹か。先人の時代から、男より女の方が芯は強いと決まっているが、今もそれは変わらないらしい。
まあ何にせよ、答えは決まった。決まったのなら、時間を浪費する前に、さっさと愚かな群衆に示してやらねばならない。
それが指導者である王の使命。
この場の決断は、全て王ただ独りに委ねられている。
室内がまたざわめきだす前に、王は赤と金の玉座から立ち上がり、威厳に満ちた声を響かせた。
「良いだろう。本来ならば死刑だが、桂月と夕月には、今回だけ特別に猶予を与える。俺が罰を下す前に、人間を一人でも捕らえられれば、今回の罰は全て無しにしてやろう。ただし、人間を捕らえて来るまでは、同胞に助けを求めることも、ここに帰ってくることも禁ずる」
「……猶予とは、いつまでのことですか」という桂月の問いに、王はふっと笑った。
「俺の気まぐれが続くまでだ。それは明日かもしれないし、一年後かもしれんがな」
「父様、月詠はいかがなさいますか」
夕月が尋ねると、王はまた躊躇なくそれに答えた。
「言うまでもないだろう。裏切ったものなど、さっさと殺せ。……ああ、ただし、エルフの王族と対峙することがあれば、その者はなるべく生かして俺の元へ持って来い」
「……?分かりました」
敵国の頭である、エルフの王族こそ、殺した方が良いのではないか?人質にでもするつもりなのだろうか。
桂月は疑問に思ったが、余計な事は言わぬが吉だろうと、口には出さなかった。
桂月は背中に嫌な汗を感じながらも、胸の内では少なからず安堵していた。
とりあえず、どうやら一命を取り留めることができたのだ。細かいことより、今はそれが何より重要なことだった。
「兎に角は、人間の生け捕りに専念すれば良い。人形と公爵があまりにも邪魔なようであれば、その時は俺の判断で別の者を送るが、基本的に人間の捕獲に関しては、引き続き桂月と夕月の二人に一任する。他の者が関与することは認めない。無論、異論は認めない」
王の言葉に、周囲には困惑の目が見られるが、王に異議を唱える者はいない。
桂月は左胸に手を添え、絶対者である主君の前に敬礼する。
「光栄です。陛下」
夕月も続いて礼をし、新たに王の命を受けた二人は、やがて薄暗い玉座の間から退場する。
次にここに向かう時は、果たして生きて行くのだろうか。死にに行くのだろうか。
幸せだろうか。それとも不幸だろうか。
未来のことは誰にも分からない。
“神”にすら分からない。
だから、この二人がこれからどこに向かうのか、何を得て、何を失うのか。それは、今は誰も知る由のないことだった。




