第二十七話「贈り物」
後に残ったのは、満身創痍な体と、面影が僅かに残っているに過ぎない、廃墟と化した豪邸。
壁が崩れて、吹きさらしになっている部屋の中に、三つの影があった。
生暖かい風が、血生臭い匂いを伴って、沈黙の中を流れてくる。
しんみりとした静けさを打ち砕くように、ゾイクは「あーー!!」と叫んだ。
「兄さん?」
ジールが首をかしげる横で、ゾイクは薄く埃を被ったソファにどかっと座った。
辺りに白い塵が舞って、ジールが軽く咳き込むのをよそに、ゾイクは大声を上げた。
「ジール!腹が減って死にそーだ!メシ!!」
「ええ?飯じゃないでしょ。まずは怪我の手当てからしないと……」
そう言って辺りを見回すが、食べ物がなければ、怪我の治療をするものも持ち合わせてはいない。
ジールは途方に暮れながら、頭の片隅で、今と似たような状況が、以前にもあったような気がした。
「んなもん唾つけときゃ治んだよ!腹は唾じゃいっぱいにならねえ!!」
「もう、そんなこと急に言われても、料理なんてできるような状況じゃないし……」
「ゾイク」
不意に、背の高い吸血鬼が前に現れると、ゾイクは、まだ幼さの残る顔を一気に険しくさせた。
「あ?んだよ」
相変わらず喧嘩腰なゾイクの足元に、ウォルカは何かをポンと投げた。
細い、白い布。
それは、一巻きの包帯だった。
目をパチクリとさせるゾイク。
ウォルカは、ゾイクの驚く顔を一瞥すると、そのまま外へ向かって歩き出した。
「お前はもっと、頭を使って考えろ。そんなんじゃ、いつ吸血鬼に殺られたっておかしくねえぞ」
「……余計な世話だ」
床に落ちた包帯を見つめて、ゾイクはボソリと呟いた。
清潔な布は、床の砂で僅かに汚れてしまっている。
「ジール、お前は?」
「僕は大丈夫です。ありがとうございます」
直接戦いに参加しなかったジールは、ほぼ無傷だった。
ウォルカは、奥の扉の方を顎でしゃくった。
「向こうのキッチンは、まだギリギリ使えるはずだ。ナツにも何か作ってやれ」
「分かりました。……あの、ツクヨミ様は、大丈夫なんでしょうか」
味方であるはずの吸血鬼との戦いで、ツクヨミの様子は確かに異常だった。
同じ吸血鬼であるウォルカには、あれが“人間の血”を飲んだことによるものだと、すぐに分かったが、獣族のジールやゾイクには、よく分からないのも無理はない。
不安げな表情のジールに、ウォルカは肩をすくめてみせる。
「レイフィアがついてるから、たぶん大丈夫だろう。俺も少し外を見てくる。くれぐれも、兄貴から目を離すなよ」
そう言って、ウォルカがジールに目で合図すると、ゾイクはソファから勢いよく立ち上がった。
「オレが離さねーよ」
ウォルカは口を閉じて、ゾイクに目をやる。
いつものように、殺気立った青い瞳が、こちらを鋭く見つめていた。だが、その奥には、憎しみの他に、微かに淋しさのようなものも見えた。
「もう、コイツはオレが守る。お前じゃねえ」
ジールの肩を持って、親の仇のように睨みつけてくるゾイクを、ウォルカはふんと鼻で笑った。
「……なら、せいぜいぴったりとそばにくっついとけ。敵を前に一人猛進していくようじゃ、そんな鈍間、守りきれねえぞ」
「…………」
仏頂面で黙り込むゾイクと、心配そうな顔で二人を見比べるジール。
見た目だけがそっくりな二人を、ちらりと見てから、ウォルカは瓦礫をまたいで、ヒョイッと外へ跳んでいった。
遠ざかって行く気配。
その場に残された双子は、しばらくの間、目も合わせずに沈黙していた。
空虚な風の音だけが、耳に入ってくる。
気まずい空気が十分に流れた後、ジールは苦笑しながらゾイクの方を向いた。
「ウォルカ様も、兄さんも、心配症なんだよ」
「……ジール」
ゾイクは俯いたまま、おもむろに口を開く。
珍しく真剣な声音の兄に、ジールは首をかしげた。
「なに?兄さん」
「俺たちは、もう離れないでおこうな」
俺たちは。
そう言ったゾイクの横顔は、どこか遠い過去か未来を見ているようで。それは何か、自分の知らないものを手に持って、今ここにいる自分ではない、別の誰かに話しかけているようで。
ジールは言いようのない不安に駆られながらも、唯一無二の片割れをそっと抱きしめた。
その体は、あまりにも傷ついていたし、自分の血と他の血で汚れていた。
「そうだね」
背中を撫でながら、ジールは安心させるようにそう返す。
しかし、ゾイクは変わらず曇った面持ちで、下を見つめていた。
そこには、風に揺られる細い布があった。
静かに白を放つそれは、彼の硬い表情を、さらに強張らせるだけだった。
ーーーーー
ベッドの脇に座り、ナツは重いため息を吐いた。
どこからともなく湧いてくる焦燥感に、胸がざわざわする。何も出来ないのがひどくもどかしい。
下の階から小さく聞こえてくる、ゾイクやジールの喋り声が、唯一ナツの気を紛らせてくれていた。
ナツは今、もはや暮らすことは困難な屋敷の中でも、まだ最もマシな部屋にいた。
小さなヒビや傷はあるが、屋根や壁が崩れ落ちてくるほどの致命的な欠損はない部屋。
しかし、屋敷全体としては、もう煉瓦でどうこうなる話ではないということは明らかだった。
これから、僕らはどうするのだろう。
ウォルカさんたちは、どうするつもりなのだろう。
ナツはぼんやりと、床の赤い絨毯の模様を眺めた。
ーーツクヨミは、僕の血を飲んだ。
人間の血を飲むこと。
それが、吸血鬼の切り札だった。
いや、吸血鬼のというよりは、吸血鬼の王族のみが使える技ならしい。
人間の血を飲むと、外見には特に変化はないが、魔術的にも物理的にも、通常の何倍も力が強くなる。その効力に個人差はあるが、血を飲んだ王族の吸血鬼に、一般の吸血鬼が勝てることはまずないという。エルフも、相当腕の立つ者でないと相手にすらならない。
それくらい凄い技なので、普段は王族の者でも使うことを禁止され、唯一現王のみが、人間の血を飲むことを許されていた。だから、人間の血のことを、吸血鬼たちは【王の血】と呼ぶ。
当たり前だが、この外の世界において、生きている人間が、僕とシモンの二人しか残っていない現在、人間の血はとても貴重なものだ。吸血鬼王のいる地下帝国には、かつて殺された人間の血を、冷凍し保管してある場所があるらしいが、それでも人間の血が稀有である状況に変わりはない。
よって、吸血鬼王以外の吸血鬼が、人間の血を飲んだ場合、身分問わずそれは重大な掟破りであり、地下帝国及び吸血鬼全体への宣戦布告と言っても過言ではないという。
その危険を承知して、覚悟して、ツクヨミは僕の血を飲んだ。
事前に注射器で抜いて、小瓶に入れた赤黒い血を。
その後は、何が起こったのか、正直僕にもよく分からない。
ツクヨミが屋根の上から荒野へ舞い降りると、整列し構えていた兵たちが、バタバタと無残な姿で倒れていった。
ツクヨミの動きは、僕の目には追えなかった。
ただ、夕月と桂月という吸血鬼が、二人がかりで彼女を抑え込みに行ったようだったが、まるで歯が立たなかったのを覚えている。
黒髪の少女は、人が変わったように無表情で、無慈悲に、かつての仲間を惨殺していった。
風のような速さで駆け抜け、既に息をしていない死体を蹴り、踏みつけ、軍隊もろとも一人で片付ける勢いだった。
その後、夕月と桂月はかなり負傷していたが、生き残った吸血鬼たちを連れて後退し、どこかへ転移して逃げていった。
賢明な判断だろう。
それでもしばらく、ツクヨミの衝動は収まらず、死体は飛び、大地は抉れ、その衝撃で屋敷も更に壊れた。
それを見て何となく、ゾイクが暴走した時のことを思い出したが、今回はあの時の何十倍も凄まじかった。
吸血鬼たちを止めるには、こうするしかなかったとはいえ、これほどまでに恐ろしい力だったとは思わなかった。
当たり前のように、たくさんの敵が死んだ。
たくさんの吸血鬼が死にそうになった。
ウォルカやレイフィア、ゾイクも深手を負った。
宝石の力を使って、夕月と闘ったらしいシモンも、ウォルカに殴られたっきり目を覚ましていない。
その時のことを僕は見ていなかったが、やはり眼帯を外したシモンはまるで別人のようだったと、ジールやゾイクが言っていた。
『……宝石の力、もとい神の力は、危険なものだ。使わないに越したことはない』
そう、前にシモンが言っていた。
それはこういうことなのだろうか。
僕もこの力を使っていると、時期に自我を失ってしまうのだろうか。
それなら、僕はどうすればいいのだろう。
シモンはどうするのだろう。
シモンには聞きたいことが山ほどあるけど、今はただ、目を覚まさない彼を心配することしかできない。
レイフィアと一緒に、外に出たままのツクヨミも気がかりだけど、やっぱり第一にはシモンのことで頭がいっぱいだった。
シモンが何を考えているのか、今の僕にもやっぱり分からなかった。吸血鬼相手に闘うなんて、命知らずにもほどがある。今回は命に別状はなかったが、次も無事でいられるとは限らない。
これはシモンだけの話でもない。
生まれて初めて、目の前で戦争のような戦いが起こっているのを見た。
僕は、ツクヨミが僕の血を飲む以外、この場を切り抜ける方法はないと確かに思った。思ったけど、今は少し心が揺らいでいる。
今更迷ったところで、どうしようもないのは分かっている。
でも、僕とツクヨミの計画によって、あまりにたくさんの人が傷ついた。
ここで散っていった命を、死を、僕は背負い切れるのか。
もし、仲間が死んでいたら、その責任をとれたのだろうか。
それでも前へ進んでいけたのだろうか。
そこまで考えて、ナツはゴクリと唾を飲み込む。
じわりと手に汗が滲んだ。
時計の音だけが、その場の空気を淡々と刻んでいく。
「やあ」
不意に横から声が飛んで来て、ナツはバッとそちらを振り返った。
木々の葉と同じ、新緑色が視界に映る。
「私だよ」
「……レイフィアさん」
彼女は和やかに微笑みながら、そばにあった小さな椅子に腰かけた。
「どう?調子は」
「……分かりません。意識がまだ戻らないんです」
「あ、違う違う。シモンじゃなくて、君のことを聞いたんだ」
「僕は、大丈夫ですよ。大した怪我もないし」
「本当に?」
「はい」
ベッドの方をじっと見つめたまま返事をするナツに、レイフィアはくすりと笑う。
「なら、いいんだけど」
「レイフィアさんは、大丈夫ですか?」
「私もこの通り、平気だよ。ま、当分腕相撲以上の戦闘はしたくないけどね」
レイフィアはおどけた調子でそう言うが、ナツの表情は一向に崩れない。むしろ、どんどん緊迫としてきているようにも見える。
レイフィアは、ナツの横顔を眺めながら、やれやれとため息をついた。
「……とりあえず、一件は落着したことだし。少し私とおしゃべりしないか」
「僕と、ですか」
「そうだよ。君のことが知りたいんだ」
「僕のことが」
「まあ、君さえ良ければ、だけどね」
ふふ、とレイフィアが笑うと、ナツはようやくベッドから目を離し、レイフィアの顔を見上げた。
「もちろん、いいですよ。でも、あんまり話は得意じゃないんです。何を話したらいいのか……」
「何でもいいんだ、話したいことを話せば。なんなら、私に質問するのでもいいよ」
「レイフィアさんに質問ですか?」
「うん。好きな食べ物とか好きなアイドル、好きな人のタイプでもオーケー。何か聞きたいことがあれば、何でも」
レイフィアは剽軽に片目を瞑ってみせる。
うーん、としばらく逡巡してから、ナツは顔を上げた。
「じゃあ、良ければ、レイフィアさんの小さい頃の話、とか」
「……小さい頃?」
「はい、ダメですか?」
何となく話題を振ったはずだったのだが、レイフィアは面食らった顔で、僅かに目を泳がせた。
「いいや、いいとも。いいんだけど、まさか、よりによってその話だとは思わなくて……」
「その話?」
ナツは首をかしげる。
レイフィアは椅子から立ち上がり、新たな居場所を探すかのように、その辺をうろうろと歩き始めた。
ナツはその様子を、黙って見つめる。
部屋の中を二、三往復して、またベッドのそばまで戻ってくると、レイフィアはおもむろに口を開いた。
「しかし、正直私は小さい頃の記憶があまりないんだ。断片的で、あまりに不確かなものさ。君の期待するような回答はできないかもしれない」
「いいですよ。それでも、話してくださるなら」
「……分かったよ」
そう言って頷くと、レイフィアは結局また元の椅子に座り、慎重に言葉を綴り始めた。
「私が幼少期で唯一思い出せるのは、優しい父の声と、ぶくぶくという水の音……」
「水の音?」
「そして、生ぬるい液体が体を包み込む感触、どこまでも続く真っ暗な闇。これらは全て、記憶と呼べるのかも分からないほど曖昧なものだ。あの頃は何も考えていなかったし、私の周りには何もなかったから。……だけど、ただ温かくて、絶対的な安心感だけはあったのを、今でも覚えている」
レイフィアの口から出た予想外の言葉に、ナツは訝しげな顔をする。
「……それは、一体どこにいた時のことなんですか?」
「ナツ」
「はい」
「私はね、本当は、ただのエルフじゃないんだよ。君たちが、ただの人間じゃないように」
「……え?」
ナツは目を瞬かせる。
彼女の、その翡翠色の目が、何を考えている目なのか、ナツには全く分からなかった。
レイフィアはずっと昔の記憶を手繰り寄せるように、遠くを見つめながらこう言った。
「元は、吸血鬼の地下帝国にある、第七研究所にいた。でもこれは、世間にもまだ公表していないことだ。民の混乱を招かないようにね。だから、君たちにも今は詳しく話さない」
レイフィアの口調は、これまでにないほど厳しく、異論は認めそうになかった。
「……分かりました。でも、それならいつ話されるつもりなんですか?」
「さあ、いつだろうね。時が来れば、話すさ。でも、今回の件で、私たちが君たちの味方であると少しは証明できたはずだ。全てを話せないのは申し訳ないけど、私を信頼してくれると嬉しい」
「いえ、全てを話せないのは当然です。それに、僕もシモンも、レイフィアさんのことは信頼していますよ」
ナツが笑顔でそう言うと、レイフィアも「ありがとう」と柔らかな笑みを浮かべた。
「君たちの過去のことについても、いずれ詳しく聞きたいな。……でも、今はもう休もうか。君は色んなことを些か考え過ぎているように見える。彼にも、君にも、少し休息が必要だ」
そう呟きながら、レイフィアはベッドに横たわるシモンに目をやる。
彼女の表情には、優しさと、緊張と、僅かな疲労が垣間見えた。
ナツは小さく微笑んで言った。
「レイフィアさんにも、ね」
「あはは、そうだね」
「……そういえば、ツクヨミは何をしてますか?」
ふと思い立って、そう尋ねると、レイフィアは暗い窓の外に視線を向けた。
「彼女は、一人で少し歩くと言っていたよ。そう遠くまで行かないだろうし、そのうち戻って来るさ」
レイフィアは椅子から立ち上がると、そばに置いてあった大きめの袋から、一つの箱を取り出した。
それは誰かへのプレゼントなのか、リボンと包み紙で綺麗に包装されている。
「これは?」
「君たちへ、だよ」
「レイフィアさんから?」
「そう」
レイフィアは箱をテーブルの上にのせると、そのままナツの方へ差し出した。
箱はかなり大きくて、両手でやっと持ち上げられるくらいの大きさだ。
「何ですか?これ」
「見たら分かるだろう。贈り物だ、しかもサプライズのね」
「何が入っているんですか?」
「開けてごらんよ。そうすれば分かる」
できれば、開ける前に中身を知りたいんだけど……。
ナツは少しの間躊躇っていたが、おもむろに謎の箱へ手を伸ばした。
レイフィアはにんまりと笑いながら、ナツの顔を見ている。
時間をかけて丁寧にリボンをほどき、包み紙を剥がして、ナツはそっと箱を開けた。
「これは……」
そこにあったのは、円形の白い物体だった。
丸の中には、色とりどりの実のようなものや葉っぱが乗せられている。そして、黒いソースのようなもので、何か文字のようなものが描かれていた。
そう、それはさながら、誕生日ケーキのような。
「どう?なかなか美味しそうじゃない?」
「これは、ケーキ、ですか」
「そう、君たち人間は、これを生まれた日に食べるんだろう」
「そうですけど、ここの人たちも食べるんですか?」
「いや、少なくともエルフにそういう風習はないね。人間のイベントや慣わしを模倣する者たちは、時々見かけるけど」
「じゃあこれは、僕らのために?」
「まあね。ケーキ自体はこの世界にもあるんだけど、なるべく人間が作っていたものと似せられるように、昔の文献を見ながら作ったんだ。私のお手製だよ」
「手作りなんですか?すごいですね……」
久しぶりに見る、もはや懐かしさすら感じる食べ物に、ナツは少なからず感動していた。
ナツの家も、毎年誰かの誕生日には真っ白なショートケーキをみんなで食べていた。
形は少々歪だが、これは紛れもなくショートケーキの体裁を有している。
しかし、これがケーキであるなら、一つ疑問があった。
「でも、どうして?僕もシモンも、誕生日ではないですよ」
「誕生日だよ。君たちは、つい先日この世界に生まれたじゃないか」
「生まれた……」
レイフィアの言葉を反芻しながら、ナツは首をかしげる。
確かに、僕とシモンは、この前初めて外の世界へ出たきたわけだが。
そんな捉え方もあるのか。
彼女の考えが、完全に理解できたわけではないが、何となく、その意味は分かる気がした。
レイフィアは手を伸ばして、眠るシモンの前髪にそっと触れた。
「このおてんばな子が目覚めたら、彼にも分けてあげてね。味は保証しないけど」
「はい、分かりました。みんなでいただきます」
じゃあこれで、と立ち上がるレイフィアに、ナツはパッと顔を上げた。
「レイフィアさん」
「ん?」
「ありがとうございます」
レイフィアは何度か瞬きをすると、にっこりと微笑んだ。
「どういたしまして」
レイフィアは軍帽を少し上げてみせると、軽やかな足取りで部屋を出て行った。その足音はどんどん遠ざかっていき、やがて何も聞こえなくなる。
残されたナツは、そそくさと部屋に備え付けられていたキッチンに向かった。そして、食器棚からフォークを一本取り出すと、さっそくテーブルにつき、ケーキから一欠片掬ってみる。
ふわりとした感触。白いクリームが乗った、薄黄色のスポンジ。
ナツはしげしげとそれを見つめてから、パクリと口に入れた。
もぐもぐと口を動かし、レイフィアの作ったケーキを味わう。
しかし、いくら舌を動かしても、ショートケーキらしい味はしない。何なら、生クリームの味もスポンジの味も、乗っていたはずの木の実の味すらしない。甘くもなければ苦くもなく、しょっぱくもない。
これは…………。
「…………無味だ」
無味とは、料理において最も忌むべき味であり、食す上で何よりも厄介な代物だ。まさか、よりによってケーキに味がないなんて……。
『味は保証しない』
謙遜だと思っていた言葉が、今更脳裏をかすめる。
いや、でも諦めるにはまだ早い。
このケーキには、一口目と二口目で味が違う、魔術的な何かがあるかもしれない。
ナツは、レイフィアに料理の才能がないことを、心の片隅で確信しながらも、最初の一口目を覆す何かを期待して、もう一口食べてみた。
しかし、そんな奇跡が起こるはずもなく、やはり無味であることを再確認したに過ぎなかった。
とはいえ、貰ったからには、残さず全部食べなければ良心が痛むというもの。
この量を、シモンと二人がかりでどうにかなるとも思えないが……。
さて、どうしたものかと、ナツは丸いケーキを前に、一人思い悩むこととなった。
ーーーーー
もはや廃屋敷と化した自邸の、潰れた屋根の上に、マーティン卿は佇んでいた。
ここから見る景色は、もはや見慣れた一枚の絵画のようだった。見慣れすぎていて、見るのにも飽きて、存在を忘れていた。だが、今こうして改めて見ると、そこに感慨深い何かを感じざるを得ないのも確かだった。
「ウォルカ」
後ろから近づいてくる気配に、ウォルカはゆっくりと振り返る。
崩れかけた屋根の上を、レイフィアが器用に渡ってこちらへ向かってきていた。
しかしウォルカは黙ったまま、レイフィアの顔をじっと眺めている。彼女の顔もまた、ウォルカにとってはもう見慣れたもののはずだが、その顔に目立った傷がいくつも付いているのを見るのは、久しぶりな気もする。
「すまないね、君の屋敷がこんな形になってしまって」
すまないと思ってもいないような顔で、レイフィアは謝った。
ウォルカはもう諦めているのか、特に何を非難することもなく、肩をすくめた。
「なってしまったものは仕方ねえさ。これが託児所の宿命だとすればな。それより問題は、これからどうするかだろ」
「そのことなんだけど、向こうに場所を特定された以上、この屋敷をもう一度復元したとして、ここに居座るのは危険だ。こんな広い荒野、囲んで下さいといっているようなものだし……」
そう言って、レイフィアはウォルカの隣に立つと、遠くに聳え立つ高層ビルの群を指差した。
「ということで、君、これからあそこに住む気はないかい?」
「……前にも言ったが、あの国に住む気はねえ。あんなごちゃごちゃした訳わかんねえ所、俺の性には合わん」
「でも、時には合わないことをしてみるのもいいかもよ?それに、シモンとナツにはとにかく色々な経験が必要だ。他の子供たちにもね。我が都市国で、波に揉まれるのも良い経験になる」
「俺には、穏やかな余生が必要なんだがな」
「まさか、君はまだ現役じゃないか。ウォル」
ウォルカは煙草に火を付け、夜空に向かって白い息を吐き出した。
「どうだか。お前に比べれば、相当爺ちゃんだろうよ」
風に乗って、微かに苦い香りがする。
レイフィアは困ったように笑った。
「あの子たちには、君が必要なんだよ」
「俺の代わりなんていくらでもいるだろ。殊に、人間に興味を持ってる奴なんてわんさかいる」
「王からこの件を一任されているのは私で、その私が、君に頼みたいのさ」
「拒否権はないと?」
「私は、これは君にとっても良いことになると思ってるよ」
「良いこと、な」
ウォルカは煙草をふかしながら、足元の見る影もない屋敷と、遠くに見える栄えた国を交互に眺めた。
確かにあそこは、寂れた荒野とは比べ物にならないくらい、人と物に溢れた賑やかな場所だ。子供にとっては、こんな何もない所よりも、ああいう煩いくらいの所の方がいいのかもしれない。
毎日何かしらの事件で大騒ぎしているような。
別に自分も、都会が嫌いなわけではない。
むしろ、暮らしていくのに便利に越したことはないと思っている。
それでも、俺が、ここにいたのはーー。
ウォルカはため息をついて、どこまでも続く枯れた大地を見下ろした。
「ここは、気に入ってた場所だった」
「そうだろうとも。君はもう何十年と、ここに住んでる」
こんな辺境の地に屋敷を構えたのは、人の少ない静かな場所が好きだったから、だけではない。
この荒野を見ていると、思い出すことがあった。
ずっと昔、出会った一人の人間、今でもよく分からない気持ち、自分が犯した罪。
ここにいると、どうしたって戻らないあの日が、ずっとそばにあるような気がしていた。それは結局、気がしていただけに過ぎないのだが。
「この何もない地平線を見てると、あの人間の顔が、声が、頭をよぎるんだよ」
レイフィアは同じように荒野を見つめて、頷いた。
「今でも、忘れられないんだね。君を助けてくれた人間のこと」
「この先も一生忘れないだろうよ。覚えてたって、何にもならないことだけどな」
かつて、ウォルカはこんな場所で、一人の人間に命を救われたことがあった。
ヘブンシティ内以外の人間が、まだ僅かに生き残っていた時代だ。
もしかしたら、そこからかもしれない。彼が人間と何かしらの妙な縁があるのは。
「どうにもならないことほど、覚えているものだよ。ここを離れたって、それはきっと同じさ」
「ああ、それもそうだな」
「それに、何かをいつまでも覚えているってことは、とても素敵なことだよ」
「それが、どんなにくだらないことでも?」
レイフィアは声を上げて笑った。
「ああ。むしろ、くだらなければ、くだらないほどいいね」
「変なヤツ」
ウォルカはそう言いながら、フッと煙草の火を消した。
「お前の国だ。さぞかし上等な家が用意されているんだろうな」
「みんなの国さ。君の次の家は、一級の高級マンションの最上階だよ。いくら物にうるさい君でも、不満は出てこないと思うね」
「暖炉はあるか?」
「もちろん」
「シャンデリアは?」
「著名な美術家に特注してある」
「でもマンションなら、石造りではないだろう」
「ご安心を。壁も床も、ほとんど大理石で造られているからね」
「……そりゃ結構。公爵の俺にはもったいねえくらいだな」
ウォルカは気怠そうに肩を回す。
ようやく乗り気になったウォルカに、レイフィアは嬉しそうに声を弾ませた。
「シモンが目を覚ましたら、子供たちを連れてすぐにでも来てよ。エルフ王も、久しぶりに君の顔も見たいってさ」
「あ?冗談じゃねえ。誰が好き好んであのジジイに顔見せに行くかよ」
「はは。マタイシュが聞いたら、相当腹をたてるね」
「あのファザコンっぷりも大概にしてほしいもんだな。まあ、とりあえずはそのジジイの国に世話になるんだ。気が向けば、王の有難い面でも拝みに行くさ」
「そうしなよ。誰も彼も、いつ会えなくなるとも分からないものだ」
レイフィアは意味深げにそう呟くと、一歩前へ歩み出た。
もう少しで、屋根から落っこちそうなほどギリギリな所だ。
平然とその様子を見つめるウォルカに、レイフィアは親しみ深い笑みを浮かべた。
「じゃあ、着いたら連絡をくれ。待ってるよ」
「もう行くのか?」
「もっと話をしていたいけど、残念ながら、仕事がまだ残ってるんだ。向こうのお偉いさんたちには私が話をつけるから、君たちは都合のいい時に、何も気にせず入国すればいい。国の案内は私がしよう」
「それはまた、至れり尽くせりだな」
半ば呆れたような顔をするウォルカに、レイフィアはくすりと笑った。
「君には感謝しているんだよ。これでもね」
「それを聞いて、心底安心したよ。これで何とも思われてないなら、俺の苦労も報われないってもんだからな」
ウォルカの言い分に、レイフィアは腹を抱えて笑った。
「あはは、まったくだ」
彼女はよく笑う。何でも、心から楽しそうに。
まるで怖いものなど、何も無いかのように。
そのあどけない笑顔を残したまま、レイフィアは後ろ向きに屋根からピョンと飛び降りた。
「じゃあね」
そう短く残して、緑の髪のエルフは姿を消した。
どこからともなく現れたかと思うと、驟雨のようにまた突然去っていく。
ウォルカはポケットに手を突っ込んだまま、残り香のように微かにまだ感じる彼女の気配に耳を澄ませる。
辺りには静寂が戻るが、下の方から聞こえてきたツクヨミとゾイクの怒鳴り声で、その静けさはあっという間に掻き消された。きっとまた、犬も食わない喧嘩でもしているのだろう。
ーーさて、あのクソガキ共を、次の家へ引っ越すまで、どう寝かしつけりゃいいもんか。
こんな半壊した屋敷の中で、文句も言わず大人しく座っているような奴らではない。
ツクヨミは、上から目線で小生意気なことばかりを言うだろうし、ゾイクなんて話すら通じないだろう。シモンに関しても、目を覚ませば何を言い出すか分からない。
ウォルカは暫くの間、考えあぐねていたが、結局、殴って黙らせればいいか、という結論に落ち着いた。
それはある意味においては正しく、ある意味においては正しくないのだが、もはやそんな第三者的な見解は彼にとって知ったことではない。
拳をポキポキと鳴らしながら、ウォルカは屋根から滑り降りるように下の階へ向かう。
その後、大きな悲鳴と叫び声が、荒野にまで響き渡ったことは、言うまでもない。




