第二十五話「赤の戦い 追憶」
赤い月の中にいた。
幼い私はただ、父の眩い威光に目を輝かせていた。
絶対的な王の権威を前に、無力なこの身を委ねていた。
王に仕える者たちは、王に人間の血を捧げる。
今や貴重品となった、絶滅種の血を。
王から生まれた兄弟たちは、王に無尽の忠誠を捧げる。
こうして我が王の世は、幾百年も栄え続けた。
吸血鬼にとって、地下帝国は楽園だ。
外の世界は、蹂躙するための地。
内の世界は、秩序の守られた地。
この世から太陽が消えたとはいえ、我が種族にとってやはり地下は住み慣れた、安心できる故郷。
人間の文化から受け継いだ、伝統的な建物が多く建ち並んでいる。一見昔ながらの街に見えるが、そこは魔術と科学によって発展した、最先端の地下都市でもある。ここには水も、食料も、布も、奴隷も、今時稀有な''血''さえ、十分にあるのだ。
そんな賑やかな街並みを一望できる崖の上に、王家の住まう城はあった。かつて東洋の人間が造ったものと同じ造りであるその宮殿は、荘厳でいて美しく、洗練された存在感があった。
そして城の上空には、地下にあるはずもない夜空と、まん丸の赤い月が確かに浮かんでいて、ここが吸血鬼の治める地だということを暗に象徴している。
「お父様、月が見えますわ」
そういえば、まだ幼かった頃、私は父にそう話しかけたことがある。
なかなか眠れなくて、裸足のまま城の中庭へこっそりと出ていた時のことだ。
庭の奥の四阿に、赤い寝間着姿の父が座っていた。
どこか物憂げに草花を眺める王は、普段より厳かな雰囲気は和らいで見えた。が、それでも王の圧倒的な品格は揺らいでおらず、当時の私は畏怖して体が硬直しかけたほどだった。
そんな幼子の気も知らず、父は私に気がつくと、隣へ来るよう長椅子をそっと手で叩いた。
私が父に、そこまで近づいたことは今までになかった。
私は何だか気恥ずかしくて、顔が真っ赤になっていくのを感じながら、それでも出来るかぎりお行儀よく、ちょこんと王の隣に座った。
そして、何か話さねばと思い、咄嗟に出てきた言葉が「お父様、月が見えますわ」だった。
父と二人きりなのは初めてで、私は緊張を紛らわすために空の月ばかりを見ていた。だから、いきなりこんな当たり前のようなことを言い出したのだろう。
しかし、父は笑いもしなければ怒りもせず、穏やかな声音で私にこう返した。
「月詠。お前の名前は、あの月の輝きからつけたんだよ」
「……そうなのですか」
王は私を見下ろして、小さく微笑んだ。
浮世離れした微笑みに、思わず目を奪われる。
「あの月のように、気高く、高潔であれ。そして誰よりも強い光を放ち、周りの者を照らせる者になれ」
そう言って、父は私の頭を優しく撫でた。
私はそれがすごく嬉しくて。嬉しくて。
忘れられなくて。
その夜が終わった後も、何度も何度も、月の見える中庭へ通った。
もう二度と、そこで父に逢えることはなかったが。
ーーーーー
「あの子は、クラブ幹部の末席を汚しているも同然よ」
「一番下だから、可愛がられているだけでしょう?」
「まさか。クラブの中では下っ端だから、大した任務も与えられていないらしいわよ?陛下の視界にすら入っていませんわ」
「幹部の最下位で雑用扱いされるくらいなら、入らない方がマシですものね。私、幹部にならなくて良かったわ」
ひそひそと、陰からこんな悪口が聞こえてくるのは、執行クラブの幹部になってから日常茶飯事だった。
私は三十を過ぎた頃から、少しでもお父様の目に留まりたくて、クラブの幹部入りを目指していた。
クラブの幹部は、王族の中でも、特に秀でた才能と戦闘力、知性が必要となる。
周りの貴族たちを含め、身内でも十一人の姉のうち、ほとんどは私がクラブの幹部になることをよく思っていなかった。
私が、特に大した力も持っていない末っ子だったから。
でも、どうしても入りたくて、毎日遊びも勉強もせず鍛錬に明け暮れた。応援してくれる人たちは、武闘の相手をしてくれたり、励ましてもくれた。
執行クラブ幹部になれるのは、世界で七人だけ。
七人のうち誰かが死ぬか、外されれば、候補者の中から王が新たに指名する。
当時、王女の中で幹部になっているのは、夕月姉様だけで、他のお姉様たちは、戦いに興味がないか、諦めているかのどちらかだった。
クラブの幹部になれば、王からの命を受け、地下帝国の外へ出ることになる。いくら吸血鬼が他種族に勝るとはいえ、それは、死と隣り合わせになるのと同義だ。強いエルフに殺される吸血鬼は少なくなかったし、時には、王に反逆した同族とも戦うことになるのだから。
よって、王女や貴族の女性たちが幹部の座を狙うことは、ほとんどなかった。
夕月姉様に至っては、例外で、生まれ持っての才能やセンスが他とは違っていた。二十歳にもならないうちに、素手で同胞の兵士十人は倒せたし、最年少の二十九歳で既に幹部入りを果たしている。
まさに天賦の才能、天稟と呼ばれるものだろう。
世の中、不平等にもそれが当たり前のようにありふれている。
しかしそれを妬んでいても仕方ないので、夕月姉様にも協力してもらいながら、私は少しずつクラブの中で業績を上げていった。
そして、ちょうど四十になった頃、先の戦で幹部に欠員が出て、私は幹部に選ばれた。
父様の下で戦えることが、本当に夢のようで、陰で悪口を言われようと、姉様たちからいじめられようと、クラブの使い走りにされようと、必死に戦い続けた。
そうして最初の数年は、あっという間に過ぎていった。幹部に入っても、お父様と会えることは限りなく少なかったし、大変なことの方が常に多かった。周りから狂ってると言われたこともある。幹部に入ったことで、壊れた関係もある。
それでも、私は幸せだった。
王のために、働けることが。
そしていつか。
いつか、あの日、お父様に言われたような者になりたい。
気高く高潔で、強い光で周りの者を照らせる者に。
お父様のような人に。
私は、あの日の月に溺れていた。
楽しい夢の中に、いつまでも浸かっていたかった。
なのに。
目覚めると、見たこともない場所にいた。
城の中でも、戦場でも、あの中庭でもない。
本棚で埋め尽くされた部屋の中、目の前に薄緑色のエルフが立っていた。
お父様やお姉様達とは異なった美しさを持っているエルフだった。周囲を圧倒するというよりは、周囲に馴染むような。
彼女は起きたばかりの私に、つらつらと意味不明なことを喋り出した。
地下帝国がエルフ圏へ侵攻するのをやめさせるために、君を人質にとるだとか。あろうことか、我が王と交渉するだとか。
笑い話にもならない。
当然、私は相手にせず、城へ戻ろうとした。
力づくでも、私は私がいるべき場所へ、帰るつもりだった。
でも、それが出来なかったのは、そのエルフが見た目以上に強かったからだ。
つまり、私はそのエルフに勝てなかった。
本棚は倒れ、壁は崩れ落ち、もはや原形を留めていない部屋の中、レイフィアと名乗るエルフは、私に根気よく一から説明し直した。
延々と繰り返されてきた、エルフと吸血鬼の勢力争い。地下帝国で生まれ育った私には、知る由もない現在の世界情勢。そして、吸血鬼が世界を支配するための、植民地化計画。近々起こるかもしれない、エルフ対吸血鬼の全面戦争。
私は何も知らなかった。
けど、知る必要もなかった。
だって、私はただ、お父様のために戦えばよかったのだから。
でも、知ってしまった。
私は、心から王に憧れ、王に仕える一方で、主君のことを何一つ知らなかった。あの綺麗な緋色の瞳が、一体何を見ていたのか。何を考えていたのか。
しかし、そんなことで揺らぐほど、私の忠節もやわではなかった。
状況をようやく呑み込めた私は、迷わず鋭い爪を自分の首に向けた。
「人質にとられるくらいなら、死んだ方がマシよ」
するとレイフィアは、顔色一つ変えずに、一歩こちらへ近づいて言った。
「君が死んだところで、人質になる者が変わるだけだ。帝国への忠誠を重んじるなら、君は人質でいるべきだ」
そして少し屈み、包み込むように私の手をとった。
「君の身の安全は、私が保証する。今は大人しく、向こうからの迎えを待っていればいい」
まるでお人形のように整った顔を、私はまじまじと見つめ返す。
「牢獄に籠って、王家の恥を晒せと言うの?」
「牢獄は罪人のいる場所だ。君は罪人じゃない。君は、部下の邸宅に預けるよ。……彼は吸血鬼で、しかも公爵の地位を持っている。彼の家なら、王家の君も暮らしやすいはずだ」
「閉じ込めないってこと?隙があれば、私はいつでも逃げるわよ」
「隙があれば、ね。まあ、とりあえず彼を紹介するよ」
レイフィアが手を叩くと、部屋の外から灰色の髪の男が入ってきた。私は、その男に、確かな見覚えがあった。
マーティン卿。
実際に会ったことはないものの、写真や絵で見たことがある。
かつて、まだ人間が生き残っていた時代。貧しく無名だった彼は、生き残りの人間を捕獲する作戦で類を見ない功績を上げ、王から公爵の地位を授かり、執行クラブの幹部になった。
吸血鬼の貧民層が幹部に入った例はこれまでなく、ある種伝説となった男が、ウォルカ・マーティンである。
そうして夢のような富と名声、権力を手に入れた彼だが、幹部になって数年も経たないうちに、忽然と行方不明になったと聞いている。
どこかで戦死したのかと思っていたが、まさかエルフ側へ寝返っていたとは。
「なぜ、裏切ったの」
私がそう尋ねると、男は無表情のまま、退屈そうに私を見下ろした。
「それに関して、お前に話すことは何もない」
「……恩知らず。恥を知りなさい」
私が強い口調で罵ると、その時初めて男は薄っすらと笑った。
その日から、私は荒野にポツンとある屋敷で、無愛想な公爵と、使用人の獣族と、仮面を被ったエルフの四人で生活することになった。仮面のエルフと接触する機会は少なかったけれど、獣族の少年は頼んでもいないのに手厚く私の世話をした。
そのくせ、そいつはドジを踏んでばかりだったから、比較的短気な私はしょっちゅう怒っていた。
「もう私に構わないで」と、何度も何度も怒鳴ったのに、あいつは必ずまた、はにかんだ笑顔で紅茶を淹れに来る。
その時、私は初めて、吸血鬼以外の種族に少し心を開いた気がした。
それでも、レイフィアに隙さえあれば逃げると言ったのは本気で、私はこれまで何十回と逃走を試みた。
しかし、マーティン卿は隙のない男で、私が逃げ出すと昼夜問わずすぐに捕まえた。何でも、屋敷の周りに結界を張っているので、中から出るとすぐに分かるのだとか。
これでは、閉じ込められているのと同じだ。
私はいつしか逃亡を諦め、仲間が救出に来るのを待つようになった。人質となるのは心苦しいが、自殺するのが怖いのもまた事実だった。
クラブの幹部だった私を、同胞たちが見捨てるわけがない。
きっと、お父様が、私を助けに来てくださる。
思えば、何度も何度も、その夢を見た気がする。
でも、十年の歳月が過ぎても、帝国の吸血鬼がこの屋敷に来ることはなかった。
あろうことか、絶滅したはずの人間が現れるまでは。
私は、きっと悪夢を見ている。
ずっと慕ってきた王に、背を向けるなんて。
けれど、この人間は、何故だろう。
今まで父への供物としか思っていなかった彼らが、思いのほか自分に似ていて。色々なことを考えていて。
それは人間だけじゃなく、獣族も、エルフも、他の種族も、ただの王への生贄なのではなく、ちゃんと生きていたのだと思い知った。
そして、たぶん、私も。
私も生きている。
王への供物や生贄じゃない。
私は、私の生きたいように生きてきた。
今までも、私は幹部になりたいから幹部になったし、王の為に戦いたいと思っていたから、厳しい鍛錬も耐えてきた。
お父様を、信じていたいから、
お父様が、私を必要として下さっていると、
私を心配して下さっていると、
私のことを愛して下さっていると、
信じていたかったから、今までずっと、ここで十年間も、ただ夜空を見上げていた。
また、紅い月が昇るのを待っていた。
……私は今、どうしたいんだろう。
きっと、私のことなどもう、必要としていない、心配していない、愛していない、王の元へ。
父の元へ、帰りたいのだろうか。
いや、本当は最初から、愛されてなどいなかったのかもしれない。
そんな後ろ向きなことも考える。
私はもう、十年前の私とは変わってしまった。
地下帝国の外の世界を知り、他種族が生きていることを実感し、人間との共通点を見つけてしまった。
この悪夢の中でなら。
私の罪も、許されますか。
私はまだあなたを想っているけれど、きっとあなたは、思ってすらいないから。だから。
ああ、どうかお許しください。
たった一晩だけ、掟を破ることを。
わがままを言うことを。
悪い娘になることを。
この夢から覚めた時は、その時は、ちゃんと罰を受けますから。
だから、それまでは。
どうか、あの月から落ちる夢を見させてください。
地と血に足をつけた、悍ましい悪夢を。
出来ることなら、永遠に。
夜明けなど来ない、この世界みたいに。




