第二十四話「赤の戦い 決意」
夕月は、既にそこにはいなかった。
シモンの背後で、ヒュッと風の音がする。
「!?」
振り返った瞬間、すぐ後ろまで迫っていた夕月を、ウォルカが横から蹴り飛ばした。
間一髪でガードしていたのか、夕月は宙で華麗に一回転して、地面に足を揃えて着地する。
「大好きな兄様がエルフにぶっ飛ばされたみたいだが。加勢しなくていいのか?夕月」
ウォルカの軽口に、夕月はくすりと笑う。
「アレに兄様が負けるはずないでしょ。マーティン、槍の矛先を変えたいのは分かるけど、それならその人間から離れているしかないね」
「だよな。正直俺もこんなガキのお守りはもうこりごりだ」
ウォルカは心底怠そうに肩を回してみせる。
「でしょ?それに、何かを守るなんて、キミらしくもない。キミは今までずっと、自分の地位と利益のためだけに生きてきたじゃん」
夕月はそう言って、不思議そうに首を傾けた。
「せっかく、ゴミ溜めの最下層から、公爵の座にまで上り詰めたのに。その人間を庇って、キミに一体何の利益があるわけ?」
ウォルカは赤い瞳に鋭い光を灯しながら、同じ色の目を持つ彼女を見据えた。
「随分俺のことを知ったような口だな。生まれた時から王族という地位を持つお前に、''成り上がり''の俺の何が分かる?」
「あは、何も分かんないや。ゴメンゴメン」
夕月は無邪気な笑顔を浮かべた。
大地が砕けるような爆発音が、遠く聞こえる。
次はウォルカの方から動いた。
音もなく夕月の後ろへ回り、もう一度足を蹴り上げるが、夕月はそれを槍の柄で受け止める。そのまま槍を回転させウォルカの胸に突きつけるが、すんでのところでウォルカは身を引き、鋭利な槍頭から免れる。
「いつまで逃げられるかな?」
「それはこっちの台詞だ」
ウォルカは身を翻して、瞬く間に夕月の目の前まで詰め寄る。ローブがバタバタと暴れるようにはためく。
そのまま右手拳を前へ突き出すが、夕月は軽やかに飛び跳ねてその拳を躱した。
さらに手に持っていた赤い槍を、高い空に向かって投げ打つ。槍は空中で四本に分裂し、ウォルカを取り囲むようにして襲いかかる。
どう見ても、今回は逃げ場がない。
しかしウォルカは涼しい顔でパチンと指を鳴らした。軽快な音が辺りに響き渡る。
その瞬間、何がどうなったのか、四本の槍は折れて地面に突き刺さった。
間髪入れず、ウォルカがもう一度指を弾く。
大きな衝撃音と同時に、未だ動かず待機していた大軍の一部が、爆発したような勢いで吹き飛んだ。
夕月の姿はどこにも見えない。
「あの女は?」
咄嗟にシモンが尋ねると、ウォルカは一際列が乱れた隊の一箇所を指差した。
「あそこ」
そしてウォルカは懐から煙草を取り出し、癖のように指を鳴らして火を付ける。灰色の荒野に、唯一熱を持った赤がポツリと浮かんだ。
シモンは唖然とした。
夕月を、あそこまで投げ飛ばしたというのか?いや、蹴り飛ばした?
何にせよ、俺には指を鳴らしているようにしか見えなかった。
夕月と対峙した時、正直とても戦って勝てる相手だとは思えなかった。勝ち目が全くないとは言わない。ただ、逃げるに越したことはない相手だ。
それを、表情一つ変えず、指を鳴らした一瞬でぶっ飛ばすとは。
ウォルカは間違いなく、強い。
シモンは目の前のやる気のなさそうな男に、畏怖にも似た感覚を覚えながら、チラリと夕月の飛ばされた方へ目を移した。
「あはは、あははははは!!イイよ、マーティン!!昔より腕落ちたかと思ったじゃん!!」
甲高い笑い声が聞こえたかと思えば、夕月が兵士たちの中から割って出てくる。黒い制服の所々が破けているが、どこかに重症を負っている様子は全くない。
何より、本人が苦い顔一つせず笑っているのだ。
末恐ろしいのはどいつも同じか。
しかし、今は黙って見守ることしかできない。
シモンは少し離れた岩場から、二人を見比べる。
「まさか。こっちの組織はお前らのとこ以上にブラックなんだぜ?寝てる暇すらロクにない」
大方予想はついていたのか、ウォルカは無傷の夕月を見てもさして驚かず、そのまま煙草を吹かしている。
夕月はこちらに歩いてきながら、恍惚とした表情で、また一本に戻った槍を撫でた。
「へぇ、けど嬉しいよ。これでもうちょい、本気が出せるもんねぇ」
そう言うや否や、夕月は目にも留まらぬ速さでウォルカの元へ突っ込んで行く。
ウォルカは煙草をくわえたまま、さっと構える。
もう槍の長いリーチに慣れたのか、難なく夕月の攻撃を避け切った。
ように見えた。
少なくとも、シモンの目には。
にも関わらず、みるみるウォルカの顔が歪んでいく。
その視線を辿っていくと、ローブの左腕が裂け、真っ赤に染まっていた。
「あれぇ?腕一本もらってったつもりだったんだけど、鈍ったのはボクの方だったかなぁ。あはは!」
「……お前どんだけ速くなってんだよ。前はもっとトロかっただろ」
ウォルカはぎりりと奥歯を噛みしめる。
どうやら、ウォルカの知っている夕月と、今の夕月は少し違うようだ。
夕月は容赦なく追い討ちをかけてくるが、ウォルカも今度こそ素早く躱す。そして上へ飛ぶ。避ける。避ける。
立場は一転して、完全に夕月が攻め、ウォルカは逃げに徹している。
「だってさぁ、これくらい速くないと、姉様たちに勝てないし、兄様にもついていけないんだもん。ボクさぁ、みんなと比べたらそんな力強くないし、丈夫でもないから。足は速くなるようにしよーと思って」
そう得意げに語りながら、夕月はふふっと笑った。
血が落ちて、地面には赤黒い斑点が出来ている。
「そういえば君って、そんな大して強くないんだっけ?まぁ、父様に認められたのも、人間が生き残ってた時代に、生きた人間を何人か父様に捧げたからってだけだもんねぇ」
ただの偶然か、それともタイミングを合わせたのか。
夕月がそう言い終わった直後、猛スピードで迫って来た何かによって、夕月は横へ弾け飛ばされた。
不意打ちを直に受けた彼女は、またも自軍の配列に穴を開けることになる。
少し遅れて、砂埃を伴った爆風が辺りに吹き荒れた。
シモンは思わず片目を瞑る。
「……あーあ、何だよもう」
少しよろけながらも、すぐに夕月は闘いに巻き込まれた兵たちの中からパッと飛び出してくる。
一対一の戦いに水を差した、不埒者への怒りを募らせながら。
空中から見下ろしたそこには、布切れのような服をまとった、一匹の獣族が立っていた。
血だらけで、一見満身創痍に見えるが、なるほど。細い腕には余りなく筋肉がついているし、その濃い青の瞳からは、只ならぬ敵意と憎悪が垣間見えた。
しかし、高貴な身分をもつ夕月にとって、それは相手をする価値もない、薄汚い犬に変わりなかった。
「……なんだ、犬か。ボクの邪魔する気?殺すよ?」
夕月は本当に、虫けらでも見るような目で、ゾイクを見ていた。ゾイクは睨みつけるように、正面から彼女を見据えて言った。
「お前はオレを殺せない」
「ハァ?」
「お前も、そこのクソ野郎も、オレが殺す」
「犬ごときが、吸血鬼を殺すって、それ本気で思ってんの?」
大真面目に頷くゾイクを見て、夕月は「ふーん」と興味なさそうに呟いた。
そしてゾイクへ槍を二回転させ、嘲るように笑う。
「キミ、バカなんだね。ま、不意打ちとはいえ一発もらったし、なるべく楽に、即死させてあげるよ」
「夕月!!」
ウォルカが二人の闘いを止めようと、声を上げた瞬間、これまた良いタイミングで、すぐそばで一際大きな爆発が起こった。
いや、正確には、何かが地割れを起こす勢いで空から降ってきたのだ。
土煙が晴れると、実際に地面は円状に凹んでいて、いくつもの亀裂が入っており、その中心に一つの人影があった。
「流石に強いなぁ。王子ともなると」
空から物凄い速度で落ちてきたのは、レイフィアだった。
体の至る所から血が出ていたが、彼女は痛くも痒くもないといった調子で、軍服についた砂をぱっぱと払う。
ウォルカは立ち尽くす夕月とゾイクに警戒しながら、レイフィアの元へ近寄っていく。
「おい、レイフィア。大丈夫なのか」
「何とかね。君の方こそ大丈夫かい?その腕が赤いのは、ドッキリ?それともマジ?」
「残念ながらマジだ」
「それは失敬。まあ、子育て専門の君には、少々キツい戦闘だよね」
レイフィアはわざとらしく肩をすくめる。
「その子育てをさせてんのは、お前なんだけどな」
「ねぇ、エメルダ。ボクと戦ってよ。マーティンも犬もつまんないし」
「ああ!?オメェは絶対オレが殺す!!」
レイフィアの方へ駆け寄っていく夕月に、それを血眼で追いかけるゾイク。
もはや無法地帯と化す戦場に、ウォルカは呆れて口を開ける。
「夕月!遊んでないで、人間をさっさと捕まえろ!!」
いきなり上空から大声で一喝され、夕月はびくりと肩を震わせる。
夜闇に紛れて輪郭を失っているが、そこにはレイフィアを地面へ叩き落とした張本人であろう、黒スーツの男がいる。
空を飛んでいるのは、魔術の一種だろうか。
それとも吸血鬼特有の技だろうか。
何にせよ、宙で静止している男は、苛立った目でこちらを見下ろしている。
「だってマーティンが邪魔するんだもん」
夕月が子供のように頬を膨らませると、男の顔は更に鬼の形相と化す。
「邪魔をするなら、早く殺せ。お前の仕事は人間を生け捕ることだ。レイフィアは俺が相手をする」
「ぶぅ……」
不服そうな顔をしながらも、兄の命令なら従うしかないのだろう。
黒髪の隙間からちらりと見える、紅い月。
夕月はウォルカの方へ向き直り、その後ろに立つシモンを一瞥した。狙いを定めるように。
「卿、てきとうに生き延びてくれ」
「ああ、言われなくても」
ウォルカはぶっきらぼうにそう返す。
その横顔に、レイフィアは何かを言いかけるが、結局何も声には出さないまま、ひび割れた地面を蹴って空へ跳躍した。
目には追えない速さで、再び男との熾烈な攻防を繰り返す。
ウォルカは乾いた唇を舐めた。
夕月はこちらの様子を伺っているようで、まだ動く気配はない。
そもそも、これは相手に勝つ必要のない、時間を稼ぐだけの戦いだ。ナツとツクヨミが来るまで、この場を凌げてさえいればいい。
それでも、ウォルカは全力で頭を回転させていた。
向こうが本気で来る以上、こちらも本気で行かなければ、本当に腕の一本や二本持っていかれかねない。
ーー俺の今の戦いは、夕月からいかにシモンを守るかだ。そして、ツクヨミ次第では、この軍隊全員を相手に戦わなきゃならないかもしれない。本当にやれるのか。いや、やるしかないのか。
自らの行く末を考えると、煙草でも吸わなきゃやってられないが、生憎それを嗜む余裕もない。
どうしてこうなったのだろう。
何が俺をこうさせているのだろう。
俺は一体何のために戦っているのだろう。
分からない。
考えたって仕方ない。
きっと答えは出ない。
時間も相手も待ってはくれない。
なら、いっそ腹を決めるしかないだろう。
運命を、選択を、結末を覚悟するしかないだろう。
ただ一つ確かなのは、自分がここにいるのは、レイフィアのためでも、シモンのためでも、過去に出会った誰かのためでもない。
「俺は、俺自身のために、ここにいる」
自分に言い聞かせるように、ウォルカは呟いた。
胸をざわつかせる遠い過去も、今は見ないふりをして、かつての同胞と命をかけて拳を交える。
昔とは変わってしまった立場で。
同じ寒空の下。
ーーーーー
ナツは階段を駆け上り、三階へ向かった。
あの日、ツクヨミは三階のバルコニーにいた。
ナツやシモン、ゾイクと同じ二階で暮らしているように見えない。つまり、ツクヨミは三階の部屋のどこかにいる。
三階にも鍵がかかった部屋がたくさんあった。その中からツクヨミの部屋を当てるのはかなり低い割合だが、何となく、何とかなる気がした。
ナツは走りながら、想像を巡らせる。
おそらくツクヨミは今も、外を見ているのだろう。
彼女は多分、あの日もそうだったように、いつも窓やバルコニーから外の景色を見ていた。
でも今そこにあるのは、果てしなく何もない荒野や、息の詰まるような切ない夜空、いつもの変わりばえしない景色などではない。自分を迎えに来た、人間を捕まえに来た仲間たちがいるのだ。
彼女は、今、嬉しいという気持ちなのだろうか。
それとも、まだ何かに苦しんでいるのだろうか。
あの真っ赤な瞳は、いったい何を探しているのだろう。
そうやってぐるぐると考え込むのは、もはや自分の直らない癖だが、ここ数日、頭の片隅ではいつも彼女のことを考えていた気がする。
何故だろう。
自分と少し、境遇が似ているから?
それとも、どこか、クーナと似ているところが、あるからだろうか。
見た目も性格も大して似ていないのに、何故か、ナツはツクヨミを自分の姉と重ねて見る節があった。
三階の廊下、ぼんやりと柔らかな星の光が差している。なのにここの空気は、時折凍てつくように冷たくなる。その度に、肌にざわざわと鳥肌がたつを感じた。
外の喧騒が嘘のように、しんと静まり返る屋敷の中。
ナツは、鍵のかかった扉を一つ一つ、ガチャガチャと開かないか確認していく。
廊下に飾られた赤い花が、怯えるように微かに震えている。
「誰を探しているの?」
七個目のドアノブを回そうとした時、そう隣から小鳥のさえずりみたいな声が聞こえた。
手を止め、そちらを見ると、やっぱりそこには夜の漆黒より深い黒髪を持つ少女が立っていた。
「君だよ。君を探してた」
「私を?何の用かしら」
無表情で首をかしげるツクヨミに、ナツは一歩ずつ近づいていく。
「見ただろう。君の仲間たちが、屋敷の前に来てる」
「ええ。懐かしい、愛しいお姉様とお兄様の気配がするわ。あと、私の配下にいた子たちもいるわね」
ツクヨミは可笑しそうに含み笑いをした。
そして、全く笑っていない目でナツを捉えた。
「……それで、私にどうしろと?」
ナツはピタリと止まり、ツクヨミの目を見返した。
「ちゃんと聞いておきたいんだけど、君は、ここに囚われているんだよね?自分の国には帰りたいの?それとも、帰りたくないの?」
そう尋ねると、ツクヨミは少し間をおいてから、悲しそうな笑みを浮かべた。
「……あなた、意外と残酷なのね」
「え?」
「どれだけ帰りたくても、帰りたくなくても、お父様が帰ってこいと言われたら、私はあそこへ帰るしかない。逆にお父様に呼ばれなければ、私は自分の家に自分から帰ることもできないのよ。私の意思なんか、関係ない。十年近く、放ったらかしにされていたけど、お兄様たちが迎えに来たということは、私はあそこへ帰るということなのよ。帰りたいとか帰りたくないとかじゃない。帰らなくてはいけないの。それ以外のなにものでもないわ」
「君って、どうしようもないくらい、縛られてるんだね」
独り言のように呟いたナツの言葉に、ツクヨミは怪訝そうな顔をする。
「……どういう意味?」
「だって君のお父さんっていうことは、吸血鬼の王様ってことでしょ?吸血鬼の国では、王様に縛られていて、この屋敷では、人質として軟禁されていて、向こうへ帰っても、結局また王様に縛られて生きていく。縛られてばっかりだ」
「……」
ツクヨミはナツを見つめたまま、何も言わない。
「それでいいの?君にも、やりたいこととか、抑えたくない感情があるでしょ?」
「……ええ、もちろんあるわ。でも、お父様はいつも正しいし、絶対よ。私は、いや、私たちはずっとそう信じてきた」
「僕は君のお父様を知らない。でも、お父さんの望みを優先して、君が自分の意志を抑え続ける必要はないと思う。きっと親は子供に、そんなこと望んでいないよ」
「じゃあ、お父様に、逆らえと言うの?」
「……僕は、それが、君のためになると思う」
ナツが慎重に言葉を選びながらそう言うと、突然二の腕に激痛が走った。驚くと同時に、容赦なく襲ってくる痛みに顔を歪ませる。
見ると、顔を赤くしたツクヨミが、ナツの華奢な腕を、爪が食い込むほど強く掴んでいた。
ナツのすぐ近くまで顔を近づけた彼女は、初めて会った時のようなひどい剣幕で怒鳴り散らす。
「あなたに何が分かるのよ!?私が今までずっと何のためにここで耐えてきたと思ってるの!!」
ナツはただ息を呑むことしかできなかった。
怒りに任せるように、ツクヨミはまくしたてる。
「仲間の足枷になるという屈辱を受けても、必死に我慢してきたのは全部この日のためなのよ!!全部!!お父様が呼んで下さる日のため!!」
燃えるような瞳に、吸い込まれそうになる。
一度起こった癇癪は、そう簡単に収まらない。
「また、お父様に必要とされるのをずっと待ってた!!ずっと、十年以上も、待ってたのに!!」
そこまで喚くと、少女は急に口を横にぎゅっと結んだ。小さな肩が、凍えるようにわなないている。
目の前で、何かが、少女の大きな瞳から落ちていった。
星みたいな、何だか熱くて遠い光を放つ玉。
嗚咽の一つもない、静かな涙だった。
ぽろぽろと何滴も零れると、彼女は力なく顔を伏せた。
さらりと溢れた黒髪の下から、か細い声が漏れる。
「……私を迎えに来るのは、あなたたちを捕まえるついで?」
ちくりと、胸に何かが突き刺さった気がした。
「馬鹿みたいでしょ?十年も放って置かれてるのに、まだ期待して、待ってるなんて。本当はずっと前から、心のどこかでは分かってた。もうお父様は、私を愛していないんだって。心配してないんだって。いらないんだって。自分が、惨めでしょうがない」
腕をしめつける力が、だんだんと緩んでいく。
ナツは出来るだけ穏やかな声でツクヨミに言った。
「君は、どうしたいの?」
「……帰りたかったけど、今は分からない。だってあそこにはきっともう、私の居場所なんてない。お父様から愛されていないなら、戻る意味なんてないから。ああ、でもそんなこと考えたくもないわ。私はどのみち帰らなくちゃならないのだから」
「こうしなきゃいけない、なんてないよ」
「え?」
ナツは、まだ自分の腕を握るツクヨミの手を、そっと掴んだ。ツクヨミは濡れた瞳を瞬かせる。
「僕の友だちが言ってた、受け売りなんだけどね。こうしなきゃいけない、なんてことは、本当はこの世にないんだよ。こうしたいっていう誰かの選択だけで、この世界はできてる。守らなくちゃいけない約束は、守りたい約束でないと意味がない。だから、君の意志が国に帰りたくないのなら、帰りたくないって素直に言えばいい」
ツクヨミはナツの腕から手を離し、俯いて黙りこくった。
何かをぐるぐると考え込んでいるようだったが、やがてため息を吐きながら口を開く。
「……でも、やっぱり無理よ、そんなの」
「どうして?」
「私がここに残れば、少なくとも今外にいる吸血鬼たちとは戦いになる。お兄様とお姉様相手に、私が勝てるわけがない。だからといって、マーティンやレイフィアが戦っても、双方かすり傷じゃ済まない。……マーティンはまだしも、レイフィアにまで迷惑をかけるわけにはいかないわ」
ああ、そうか。
今もなお、外では戦いが繰り広げられているのだ。
窓から漂う、濃い夜の匂いが、ナツを現実に引き戻す。
でもナツには、さっきからずっと頭に浮かんで離れないことがあった。
「……切り札」
ツクヨミはその単語を聞いて、わずかに目を見開いた。ナツはその反応に確信のようなものを得て、言葉を続ける。
「いや、何となく思い出したんだけど。君たちには、切り札があるって言ってたよね。僕がどうしても勝たなきゃいけない戦いにあった時、私を頼りなさいって、君は言っていた。それって、逆に君が絶対に勝たなければならない戦いにも使えるんじゃないの?」
「それは……」
ツクヨミは口ごもると、言いにくそうに下を向いた。
彼女のいう切り札が何なのか、ナツにはまだ見当もつかなかったけれど、それが自分に絡んでいるものだろうということは何となく察していた。
そして、今はそれに賭けるしかないということも。
「僕が力になれることなら、出来る限り協力するよ」
「……ええ、ナツ。そうでしょうね」
声が微かに震えている。
ツクヨミの迷いのある目に、ナツは訝しげな顔をした。
「何か、問題があるの?」
「問題は、ないわ。ないから、戸惑っているのよ」
「……不安なの?」
「そうね。切り札は、吸血鬼の地下帝国では絶対に使ってはいけない決まりになっている。だからつまり、それを使うということは、私は完全に故郷を捨てるということになるから」
「何かを選ぶためには、何かを捨てなきゃいけない時もあるよ」
「あら、随分と簡単に言ってくれるわね」
ツクヨミは一笑してから、冷ややかな目でナツを見る。
ナツは言葉に詰まった。
分かっている。
自分がどれだけ都合よく、強引に説得しているのかは。
けれど、彼女はきっと地下帝国から解放された方が良いのだと、この時僕はなぜか確かな確信を持っていた。
僕がヘブンシティから出て、後悔していないのと同じように。
かなり長い間、ナツとツクヨミは向かい合ったまま、沈黙していた。
二人以外誰もいない、空っぽ同然の屋敷の中に、言いようのない思いと静寂が満ちていくようだった。
頭の中では、色々な考えが行っては戻ってを繰り返しているのに、時間だけが、刻々と前へ進んでいく。
そして、どれくらい経ったのだろう。
「……分かったわ」
聞き逃してしまいそうなほど小さな声で、不意にツクヨミは呟いた。
「あの切り札を使うなんて、人間にしては、悪くない思い切りだわ。今の私には、そういう覚悟や決意が、足りないのかもしれないわね」
思いの外、あっさりとした口調で彼女は言った。
そして、ナツの手を取り、グイッと自分の方へ引き寄せる。
びっくりして目を見張るナツに、ツクヨミは触れそうなほど顔を近づかせて耳打ちした。
「じゃあ、もらうわよ」
「え?何を」
ナツは戸惑いながら、今は黒い髪しか見えない少女に向かって尋ねる。
どちらのかは分からない、鼓動の音が聞こえた。
少女は紅い目を細めながら、形のよい唇を開いて囁く。
「あなたの血を」




