第二十話「マーティン邸元通り大作戦」
「おい、ナツ。起きろ」
「…………シモン?」
目を開くと、眉間にしわを寄せたシモンがこちらを覗き込んでいた。
「お前なんでこんな所で寝てるんだ」
「え?」
瞬きを繰り返しながら周囲を見ると、そこは二人の部屋の外、しんと静まり返る廊下だった。
何を考えるより先に、まず驚くほど自分の体が冷たいことに気がつく。
「寒っ」
思わずそう呟いた口から、真っ白な息が漏れた。
「そりゃそうだろ。とにかく中に入れ」
おもむろに壁から体を持ち上げると、体の節々が少し痛んだ。ずっと硬い地面の上に座っていたからだろうか。
シモンが扉を開けてくれたので中に入ると、中のあったかい空気に凍えた体がじんわりと溶けていくように感じた。
ナツは身震いをして、小さく息を吐く。
「僕、なんであそこで寝てたんだろ」
「俺が聞きたいよ。昨夜のこと、何も覚えてないのか?」
一瞬沈黙してから、ナツは「うーん」と口ごもった。
歯切れの悪いナツに、シモンは何か隠してるなと長年の勘で察する。が、くしゅんとくしゃみをする友人を、とりあえずは暖炉の前のソファに座らせた。
「どこか悪くはないんだろうな?」
シモンは明るい茶色の瞳を覗き込む。
「悪くはないって?」
「心身ともに健康かどうか聞いてるんだ。寝ながらフラフラ歩き回るとしたら、正気じゃないだろ」
「大丈夫だよ、僕は」
「じゃあ何で廊下で寝てたんだよ」
「それは、ちょっと夜中起きて、散歩してて……あまりよくは覚えてないんだけど……」
ナツは相変わらず何かを誤魔化すように、はっきりと物を言わない。
シモンは少しの間ナツを見ていたが、これ以上何を探っても無駄だと悟ったのか、肩をすくめて言った。
「まあ、いいけど。ここはヘブンシティとは勝手が違うんだから、気をつけろよ」
「……うん」
心ここに在らずといった返事のナツに、シモンは右眼の眼帯に指を乗せて何か考え込んでいたが、結局何もせず、いつも通り分厚い本を読み始める。
ナツは昨夜のことについて思いふけっていた。
クーナの夢、ツクヨミがここにいる理由、彼女の最後の言葉の意味は、いったい何だったのか。
そして僕はなぜ、気づいたら部屋の前で寝ていたのだろう。ベランダでツクヨミと話したことはちゃんと覚えているのだが、ここに至るまでの経緯はまるで記憶にない。ツクヨミが、あの黒髪の少女が何かしたのだろうか。
ぱちぱちと燃える暖炉の前で、ぼんやりとそんなことを考えていると、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
そっと控えめに開かれたドアの隙間から、子犬のような目と耳がひょこっと顔を出す。
「ナツさん、シモンさん、おはようございます」
「ジールさん、おはようございます」
ジールはにっこりと笑うと、そろそろと部屋の中に入り、お盆に乗せた朝食をテーブルの上に置いた。
美味しそうなサンドイッチの隣で、緑色のスープが宙に向かって白い煙を吐き出している。
ナツは自分がお腹が空いているのに気がついた。
ジールは食事を二人に勧めて言った。
「食べて下さい。その後、一緒に下に降りましょう」
「これからのことを考えると、あんまり食欲も湧かないけどな」
そう言うわりに、シモンはサンドイッチをぱくぱくと快調なリズムでかじっていく。
「本当にすみません。兄の仕事にお二人まで付き合わせてしまって」
「そんな、困った時はお互い様ですよ」
ナツはジールを励ますように声を和らげた。
そう、ジールの兄であるゾイクが、昨日ナツとシモンを見て暴走し、屋敷の大部分を破壊してしまったのだが、屋敷の持ち主であるマーティン卿からの提案で、ゾイクとの親交を深めるためにも、ナツとシモンが屋敷の修復の手伝いをすることになったのだ。
「でも、そういえば僕、建物の修復とかしたことないんですよね。シモンは?」
「無論ない。お宅の兄貴は、実は大工か何かか?」
ジールは真顔で首を横に振る。
「いえ、兄は大工が出来るほど器用じゃありません。せいぜい積み木が関の山です」
「なるほど、ひどい言いようだな」
「客観的事実です。でも本人には内緒にしてて下さい。弟の僕でも、命に関わりますから」
そう言って、何を想像したのか、恐怖に肩を震わせるジール。
「こんな所で命の危険を犯さないで下さいよ……。でもどうするんですか?誰もまともに出来る人がいないみたいですけど」
ナツはスープを飲みながら、昨日見た玄関の荒れ具合を思い出す。未経験者だけで到底何とか出来るレベルではない。とはいえ、この毒々しい緑のスープは、見た目に反して味はかなり美味しい。カレーのようなスパイシーさとさっぱりとした魚介の風味が見事に調和している。
シモンもサンドイッチを口に入れながら、ジールの顔を伺っていた。
なぜかジールは期待に満ちた瞳で、二人の顔を見つめながら、小声でこう尋ねてきた。
「お二人は、ただの人間ではないのでしょう?」
「まあ、そうだな」とシモン。
「何か、凄い力を持っているんですよね?」
「そうですね」とナツも頷く。
「じゃあ、屋敷のロビーをちょっと直すことくらい、容易く……」
「……出来ると思ってるのか?」
都合の良すぎる憶測に、シモンは呆れた顔をする。
ジールは意外そうに小首をかしげた。
「出来ないのですか」
「残念ながらな」
「……そうですか」
シモンの返答は、どうやら見当違いだったらしい。ジールは思わずガッカリと肩を落とす。
ナツは不安げな面持ちでまた尋ねた。
「他に何か方法はないんですか?」
「うーん……」
ジールはしばらく悩んだ末、窓の外をちらりと見た。
ガラスに反射した自分たちと目が合う。
「……仕方ありません。僕からマテオ様に頼んでみようと思います」
「マテオって、あの仮面の?」
シモンは訝しげにジールを見た。
「はい。ああ見えて、とてもお優しい方です。マテオ様に助けてもらったと、ウォルカ様に知られたら、怒られるかもしれませんが」
ナツは昨日見たマテオの姿を思い浮かべた。
敵意や悪意は感じないものの、彼はどこか人を寄せ付けない雰囲気を持っている。
「マテオさんなら、屋敷を元に戻せるんですか?」
ナツの問いに、ジールは柔らかく微笑んでみせた。
「普段はあまり見せてくださいませんが、魔術の腕はウォルカ様と並ぶほどです。きっと何とかしてくれます。とはいっても、兄さんやナツさん、シモンさんにももちろん働いていただきますけどね。今から【マーティン邸元通り大作戦】の順序を話しますから、よく聞いていてください」
「マーティン邸元通り大作戦?」
聞くからに怪しい単語に、シモンとナツは揃って顔を見合わせる。
この後、ジールから聞かされた例の作戦内容は、あまりに単純明解で簡単そうに思えた。
が、それが大きな間違いだったということを二人はすぐに知ることになる。
ーー数時間後ーー
「もーやってられっかァ!!」
「ちょっと兄さん!待ってよ!」
ほぼ外壁が壊れて開放的になった屋敷の玄関。
逃げるゾイク。追いかけるジール。
既に何度も繰り返されたその光景に、ナツはいよいよ頭が痛くなってくる。
ナツ、シモン、ゾイクの3人は、もうずいぶんと長い間、煉瓦をひたすら上へ上へ積み上げていた。比較的集中力のあるナツやシモンでも、2時間経てば足腰が痛くなるし、単調な作業に飽きてくる。
ゾイクなどもってのほかで、既に何十回と逃亡を試みている。彼に至っては、もはや、どうすればはやく煉瓦を積めるかより、どうすればこの場から逃げ出せるかを必死に考えている始末だ。
ジールの作戦はこうだった。
元々壁があった部分をとりあえず煉瓦で埋めて、まず一面を煉瓦の壁にする。
3人の仕事は実質ここまでで、その後マテオに魔術で煉瓦の壁を補強してもらい、美しい壁紙や装飾を施してもらう。
そのようにして玄関が完成したら、同じ手順で二階も修復する。至ってシンプルで分かりやすい手法だ。
しかし、巨大な公爵邸の壁は想像以上に高く、3人がかり(ゾイクは戦力外なので、実際には2人がかり)ではいくら煉瓦を積んでも終わりそうにない。
「何であんなクソ野郎のために、こんなクソつまらねえことをしなきゃいけねェんだ!!」
ジールに連れ戻されたゾイクの叫び声が、辺りにこだまする。
「兄さんが壊したからだよ……。ナツさんとシモンさんも手伝ってくれてるんだから、兄さんももっとちゃんと協力してよ」
「ニンゲンにはお似合いの仕事かもしんねえけど、オレには合わねー。こんなバカみてぇに同じことの繰り返し」
赤茶色の四角い物体をこれでもかと睨みつけるゾイクに、シモンはくすりと笑って呟いた。
「まあ、忍耐の一つも出来ないバカには、どんな仕事も無理だろうけどね」
ジールの顔から血の気が失せていく。
ゾイクはキョトンとした顔で、周囲を見回した。
煉瓦の山々に一瞬の静けさが戻るが、すぐにゾイクの顔が険しくなっていく。
「……ああ?バカってもしかしてオレのこと言ってんのか!?」
「お前以外、誰がいるんだよ」
呆れを通り越してむしろ感心するシモン。
ジールが間に入る前に、ゾイクは口から牙をむき出して、低く唸るように言った。
「ニンゲンのくせに、結構言うじゃねえか。いーぜ、オレをバカ呼ばわりしたらどうなるか、教えてやるよ」
「ぜひご教示願いたいね」
恐れ知らずにもそう言い返すシモンに、ゾイクは瓦礫の中から、まるで眠りから覚めた熊のようにのっそりと立ち上がった。
本当にそのように見えたのは、屋敷の中では薄着だった彼が、今は何枚も重ね着した上に真冬に着るような厚手の上着やブーツを履いて、熊みたいに着太りしていたからだ。なお、これはジールも同じなのだが、何でも獣族は毛皮がない状態の時、外の寒さに異常に敏感になるからならしい。
ともかく、そのダルマのようになっているゾイクは、顔を一目見ただけで理解できるほど、非常に分かりやすく怒っていた。
ジールは自分の兄から距離を取りつつも、シモンに向かって叫ぶ。
「シモンさん、流石に忍耐の一つも出来ないバカは言い過ぎですよ!一つくらいなら兄さんだってきっと我慢できます!!」
「怒るところが違う気がするが、勘違いするな。これは向こうが先に売った喧嘩だぜ」
「でも、困りますよ。兄さんは気が短くて、自分を貶した相手を絶対に許さないんです」
「つまり、毒舌なシモンとの相性は、最悪ってことか」
納得した顔をするナツに、シモンはため息をつく。
「厄介極まりないな」
時の流れを感じさせない空から、ぶわっと生温い風が吹いてくる。
野性的な鋭い目が、真正面にシモンを捉えた。
「シモン、オレとサシで戦ってみよーぜ」
その気迫とは裏腹に、声は無邪気で楽しげだった。
ナツはシモンをちらりと見た。
シモンは落ち着いた表情で、ゾイクを見つめ返している。まるで性質は真逆のような二人だ。
「いいけど、大きな実力差のある者同士の喧嘩なんて、ただの時間の無駄だろう」
シモンの何やら遠回しな返事に、ゾイクはキョトンとする。
「あ?それは、オレが強すぎるって言いたいのか?」
「ほんとに馬鹿だな、積み木も満足に出来ないヤツが、強いわけないだろ」
シモンがそう言って鼻で笑うと、ゾイクの顔はみるみるうちに赤くなっていく。
「……オメェ、いい加減にしろよ。よく分かんねえことグチグチぬかして、何が言いてえのか、もっとハッキリ言え!」
苛立ちが頂点に達して、地面を思い切り踏みつけるゾイク。
地面が僅かにひび割れ、煉瓦を積み上げるのに使っていた梯子が音を立てて倒れた。
「悔しいなら、喧嘩を売る前に、俺やナツよりたくさんの煉瓦を積んでみろよ。こんな簡単な作業で負けてるようじゃ、戦闘なんて話にならないだろ」
「…………」
余裕そうな笑みを浮かべて、諭すように言ったシモンに、ゾイクは口を開けたまま黙り込んだ。
だだっ広い荒野のど真ん中なので、ここにいる四人が何も喋らないと、本当に辺りは無音の世界になる。
ジールはハラハラした表情で二人を見ている。
シモンの言葉の意図は分かるが、流石にいくらゾイクでも、そんな見え透いた手には乗らないだろう。
ナツはこれからゾイクがどう出るかを警戒しながら、何かフォローをせねばと頭を回す。
しかし、ナツが次の手を閃く前に、ゾイクが僅かに口を動かした。
「……こい」
「え?」
よく聞こえず、ナツとジールが同時に聞き返す。
ゾイクは拳を握りしめ、今度は大声で怒鳴るように叫んだ。
「さっさと煉瓦持ってこい!!!!」
「えぇ!?は、はい!!」
突然の兄の変貌ぶりに、ジールはびっくりしながらも、煉瓦の入った袋の方へ慌てて走っていく。
ナツは恐る恐るゾイクに「ど、どうするつもりですか?」と尋ねた。
「なにが?」
「煉瓦、です。持ってきてどうするんですか?」
「ハ?積むに決まってんだろ。頭イかれたのか?」
逆にゾイクに怪訝な顔をされ、ナツは呆気にとられる。
まさか。
シモンのあの分かり易すぎる挑発で、やる気になったのか?
ナツは目の前にいる獣族の青年の、素直さというか、精神年齢の低さに、もはや感動すら覚えた。
「いーか、ぜってぇオレが一番高く煉瓦を積んでやるからな!見てろよ!!それで喧嘩にも勝ってやる!!」
シモンにそう宣戦布告すると、ゾイクはジールの持ってきた煉瓦の山に向き合い、クソだのハゲだのと悪態をつきながらも作業を始める。
怒りがエネルギーになっているのか、今までにないスピードで壁が出来上がっていく。
大真面目な顔で煉瓦を積み上げるゾイクに、ジールはただ唖然と立ち尽くすばかりだった。
ナツがふとシモンの方を見ると、真っ青な瞳と目があった。
「……どうやら案外、相性はいいみたいだぜ」
彼はそう言って、ニヤリと笑った。
第一話を投稿してから一年が過ぎました。
今まで読んで下さった方々、応援して下さった方々、本当にありがとうございます。
これからも遅筆稚拙ながら、自分のペースで頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いします。




