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Break;on hiatus  作者:
マーティン公爵邸編
20/37

第十九話「ナツの夢」




母親のお腹から生まれた瞬間を、だいたいの人間は覚えていないように、僕も気づけば空白(そこ)にいた。

辺り一面、何もない、ただ白い地面と空。

影も奥行きもなければ、どこまで続いているのかも見当がつかない。


『ねえ、ナツ。私のナツ』


どこか上の方から、透き通った女性の声がする。

クーナの声だ。

まだあまり時間も経っていないのに、ずいぶん懐かしく感じる。


なに?クーナ。


いつものようにそう返すが、僕の口から出た声は泡のように消えていくばかりで、とても空に届きそうになかった。


『ナツ、どこにいるの?』


ここにいるよ。クーナ、僕は、ここだよ。



『どうして私を置いていったの?』


え?


ナツは、どきりとした。

昨日の出来事が、血に濡れたクーナの姿が、駆け巡るようにして脳内を支配する。


違うよ、置いていったわけじゃないんだ。

だって、だって、ただ、僕は…………。


言葉が続かない。

思い浮かばない。

何か言わなくてはと思うのに、

口に出すと、全てが言い訳になってしまいそうで。



『どうして父さんと母さんと私は死んだのに、あなたは生きてるの?』


…………。



『ずるいよ……』



苦しそうなクーナの声に、ナツは胸がしめつけられた。喉元がズキズキと痛いのを堪えて、絞り出すように、声を出す。


……ごめん。


謝ることしかできない。

クーナは僕のせいで死に、クーナのおかげで僕は生きている。



『ああ、私は寂しいのよ、ナツ。あなたがいないと、ちっとも楽しくないんだもの』



元気のないクーナの声に、ナツは少し笑った。

僕もだよ。僕も、クーナがいないと寂しい。



『なら、こっちに来てよ』



……え?



ナツが目を見開いた瞬間、真っ白だった地面は、一瞬で赤黒くなり、そこから無数の人間の手が湧き出て来た。

血に塗れたようなその手は、どんどんとナツを下へ引き込んでいく。

ナツは必死にもがくが、まるで沼のように、もがけばもがくほど深く沈んでいってしまう。



クーナ……!!



上に向かって無我夢中に叫ぶが、その声は音にならず、僅かに辺りの空気が震えただけだった。


あっという間に、体全てが闇に呑み込まれる。

無数の手は溶けるように消えていき、視界は真っ暗になる。

冷たい、怖い、苦しい。

僕は死ぬのか。

死とは、こんなに恐ろしいものだったのか。



助けて、だれか。助けて。



息ができない。

死にものぐるいで助けを求めるが、もちろんこんな地獄のような所に救いなどない。

信じたこともないのに、いざとなれば奇跡のような救いを求めることの愚かさを、今さら知ったって遅い。

もう、いっそ死を覚悟した。


しかし、体が柔らかさと熱を失い、意識が混濁し始めた頃、ようやく僕の目は覚めた。




「ハァ、ハァ、ハァ……」


荒い呼吸を繰り返す。

一瞬、そこがどこなのか分からなかった。

それぐらいに、鮮烈な悪夢だった。

ナツはベッドの上で、激しい動悸が落ち着くのを待ってから、ゆっくりと体を起こした。体が、冷たい汗でびっしょりと濡れていた。


まだ動くのが億劫で、何となく、部屋を見回してみる。

少し離れた所にあるベッドで、シモンが寝ているのが目に入った。すーすーと穏やかな寝息が聞こえる。

ナツはその音にしばらく耳を傾けて、気持ちを休ませた。そして目から溢れていた水滴にようやく気がつくと、手の甲でそれを拭い、そっとベッドから降りた。


そのまま何も考えずにお風呂へ行ってシャワーを浴び、服を着替える。さっぱりとして、部屋に戻ってきてまたベッドへ向かうが、やっぱり眠る気にはなれず、ソファに座り込んだ。

そして思い出したかのように、水を一杯飲む。ひんやりとした水が、さらさらと喉を伝って流れていくのを感じる。乾いた喉が潤い、気持ちもいくらか休まった。

ふと時計を見る。

まだ夜の3時。6時起床まで、あと3時間もある。



ーーーーー



ウォルカが食堂を出て行った後、ジールとも別れて二人は部屋に戻り、ナツはシモンに宝石の力を扱う基本的な練習方法を教わった。

ナツの場合、宝石が埋め込まれた左手首に力を入れ、力を集中させる。体中から力が湧き、宝石に集まってくるのを感じたら、力を抜いて平常の状態に戻す。

完全に元に戻ったら、また力を入れ宝石に集中させる、その繰り返しだ。

聞く分には簡単そうだったが、やってみるとかなり難しい。

練習は初めは少しずつやっていくのが良いらしく、無理にたくさんやっても体を壊すだけならしい。

分からないなりに練習を続けていると、いつのまにか時刻は夕方になり、先に風呂に入っていたシモンは早めに就寝した。その後、ナツも明日に備えていつもより早くベッドに入ったのだが……。

眠りが浅かったのか、普段あまり夢を見ないナツが、覚めても目に浮かぶほどハッキリとした夢を見た。


大丈夫、ただの夢だ。現実じゃない。

昨日は色んなことがあったから、きっと疲れてるんだろう。


そう自分に言い聞かせて、ナツは昨日シモンから貰った本に手を伸ばした。何ページかペラペラとめくってみるが、全然内容が頭に入ってこない。

思い起こされるのは、ここにはいない家族のこと。特に、たった一人の姉のことを考え始めると、他に何も手につかない。

本をテーブルに置き、真っ黒な窓の外を眺める。

嫌でも、さっきまで見ていた悪夢を思い出してしまう。地獄とは、まさにああいうもののことを言うのだろう。実に、悪夢と呼ぶのに相応しい悪夢。


「……クーナが、生きろって言ったのに。こっちに来てって、僕、どうすればいいんだよ」


掠れた声でそう呟くと、余計に虚しくなって、ナツはソファの上で体を丸めた。

フラッシュバックみたいに何度も目の前に蘇る、残酷な光景。

しつこいくらいに耳鳴りのような銃声が聞こえてくる。


正直、あの瞬間から、僕は生きていくのにさほど希望も抱いていないのかもしれない。シモンのように目指すべき志も持っていない。勢いで外の世界へ出てきて、世界を見たいと言ったけど、あの時はただ、クーナの死を無駄にしたくなかった。死ぬ前のクーナの願いを叶えたかった。

でも、クーナがもし本当に来てと言うなら、僕は''向こう''へ行くべきなのだろうか。


いたたまれなくなって、ナツはソファから立ち上がると、椅子にかかった上着を羽織って、部屋の外へ出た。

夜になると一層不気味さを増す屋敷の廊下を、か細い蝋燭の火を頼りに歩いていく。あんな夢を見た後だからか、この程度の気味の悪さは不思議と怖くはない。むしろどこか神秘的にも思える静けさの中、何に邪魔されることもなく階段まで辿り着く。

ナツは少し迷った後、階段を上へ登った。三階には行ったことがなかったから、純粋にどうなっているのか気になったし、それで怒られるということも多分ないだろう。


赤い絨毯の敷かれた階段を三階まで登りきり、ナツは思わず息を吐いた。口から白い息が零れる。寒い。

どこかの窓が開いているのだろうか。

上着を着てきてよかったと思いながら、冷気の流れてくる方へ吸い寄せられるように進んでいく。

三階の廊下も、二階とほとんど同じ造りになっており、等しい間隔で鍵のかかった扉が並んでいる。


「あ……」


見つけた。

廊下の途中に、窓というよりは少し広いバルコニーのような空間があって、そこに繋がるガラスの扉が開きっぱなしだった。

二階にはバルコニーなどなかったはずだが、三階にはあるらしい。誰かが扉を閉め忘れたのか。

冷たさを増す空気に小さく震えながら、近づいて扉を閉めようと手を伸ばしたところ、その向こうに立っている小さな人影に気づいた。


暗闇の中でも妖しく光る紅い目が、ナツをしっかりと見据えている。夜空に混じった黒髪、病的なまでに白い肌、寝巻きのようなゆったりとした服装。


「人間、ね」


鈴の音のような声で、目の前の少女はそう言った。

その声を聞いて、ナツはハッと思い出す。

そうだ、この子は、食堂で突然怒って出て行ってしまった子だ。たしか、ツクヨミっていう名前の、吸血鬼の国の王女様だったか。


「何をしに来たの」

少女はバルコニーの柵を背に、堂々した態度でナツの顔を見ている。

ナツには、少女が朝に食堂で見た時より、なんだか落ち着いているように見えた。


「えっと、歩いてたら、何となくここに。特に、何をしに来たっていうわけではないんだけど……」

「そう」

少女は興味なさげに短く返すと、星が煌めく夜空を見上げた。その横顔は、どこか不安げで、切なさが滲み出ていた。朝の印象とはだいぶ違う。

開け放たれた扉から一歩進み、ナツは少し緊張した面持ちで尋ねる。


「ここにいてもいい?」


少女はその問いかけには答えず、夜空を見つめたまま口を開いた。


「……今日は、星がよく見えるのよ」

「星?」

「ええ。いつもは、夜闇が濃くてあまり見えないのだけど、今夜はなぜか空気が澄んでる」

隣に並んでナツも夜空を見上げた。

確かに星は見えるが、昨日来たばかりのナツにはいつもと違うのかどうかは分からない。

「僕には、よく分からないな」

ナツが素直にそう呟くと、少女も頷いた。

「人間には、分からないでしょうね」


「君はここで何をしてるの?」

ナツがまた尋ねると、今度は数秒の沈黙を置いてから、少女は素っ気なく言葉を返した。


「見れば分かるでしょう。空を見てるのよ。私は昼より夜の方が暮らしやすいのだけど、この屋敷は退屈で何もないから、空を見る以外にやることがないの」

「ああ、そうじゃなくて、君が吸血鬼の国の王女様だって聞いたから。どうしてお城じゃなくてウォルカさんの屋敷にいるんだろうと思って」

それを聞いた少女は、ナツを見て目を丸くさせた。

「あなた、人間のくせに私に向かってそんな質問をするなんて、無礼にも程があるのを自覚しているかしら」

ナツはキョトンとした顔で瞬きをする。

「無礼?」

「そうよ。礼儀がないってこと。人間はそんなことも分からないの?」

ナツは少しの間考え込み、ようやく合点がいった。

「ああ、ごめん。初対面でいきなりこんな質問するなんて失礼だよね。……何も、聞かない方がいいのかな」

「まあ、今夜はいいわ。特別よ」

相変わらず高慢な態度の少女に、ナツは小さく微笑む。

「ありがとう」


少女は押し黙って、バルコニーの柵に手を置いた。

しばらく彼女は俯いていたが、やがてその長い睫毛に縁取られた大きな目が、正面からナツを捉える。


「さっきの質問だけど、マーティンから、私について、何も聞いていないの?」

「ああ、そうだね。他にも話すことが多かったから。ウォルカさん、忙しそうだし」

「そう……」


ひんやりとした風が、艶やかな黒髪を靡かせる。

少女はまだちょっと躊躇った後、決心したようにナツの方へ一歩近づいた。


「鈍いあなたにも分かるように、簡単に言えば、私はね、人質なのよ」

「……え?」

ナツは目をパチクリさせる。


彼女は今何と言った?

人質?聞き間違えだろうか。


おそるおそる「人質?」と聞き返すと、少女はあっさり「そう」と答えた。

「この屋敷に軟禁されているの」

「え、ええ!?」

驚きのあまり大声をあげるナツに、少女は眉をひそめる。

「声が大きいわよ、もう少し静かにして」

「ご、ごめん。でも、人質ってどうして?」

不思議そうな顔をするナツに、少女は肩をすくめてみせた。

「一から説明すると長くなるわよ」

「いいよ、君さえ良ければ」

ナツは迷いのない目で頷く。

少女はナツから目をそらし、遠く、地平線まで続く荒野を眺めながら、ぽつりぽつりと話し始めた。


「人間のあなたは知らないかもしれないけど、エルフと吸血鬼は昔から真逆の種族なの。神や自然への服従を好むエルフと、支配を好む吸血鬼。魔術を得意とするエルフと体術を得意とする吸血鬼。両者は、文化や思想の違いから、長年敵対していた」


「へぇ……。でも、エルフや吸血鬼以外に他の種族も数えきれないくらいたくさんいるんでしょう?」


「まあ、この世界には多種多様な種族がいるけど、エルフと吸血鬼は他の種族とは格が違う。地球先住民の獣族や植物族、ドワーフや魚人、妖精なんかの少数種族はだいたいエルフか吸血鬼の傘下に入ってる。……エルフの傘下に入れば共存、吸血鬼の傘下に入れば奴隷。多くの種族はエルフの傘下に入りたがるけど、圧倒的に強い吸血鬼の勢力によって強制的に植民地化される場合も少なくないわ」


ナツはただ「うん」と相槌を打つ。


「世界は、いくつかの例外を除いて、だいたいはエルフ陣と吸血鬼陣に両断されていた。それでも大きな全面戦争になることもなく、エルフと吸血鬼の睨み合いが続く中、エルフ圏に中央都市国という種族差別のない新たな国ができて、一部の吸血鬼たちは地下帝国から都市国へ出て行った。地下帝国の吸血鬼たちはそれが気に食わなくて、中央都市国を滅ぼし、それを機にエルフに戦争をしかける計画を立てていた。ほぼ互角とはいえ、エルフより吸血鬼の方が少し優勢だったから、エルフ側は何らかの策を練らなくちゃいけなかった。そこで、地下帝国にスパイを送り込み、王族でクラブの幹部の一員でもあった私を誘拐し、吸血鬼側に対して私を人質にとったわけ。これで地下帝国の吸血鬼たちは、安易に中央都市国に手を出せなくなったし、エルフと戦争ができなくなったの」


「へぇ……、そうだったんだ」


想像以上に重い話に、ナツの口からはありきたりな言葉しか出てこない。


吸血鬼との戦争を避けるために、エルフが人質にとったのが、このツクヨミという少女。

つまり、この少女のおかげで、エルフや中央都市国は吸血鬼に滅ぼされずにすんでいるということか。

でも、となると彼女にとって中央都市国にいるウォルカやレイフィアは憎き敵ということになるし、そもそも戦争を起こそうとしていた吸血鬼が元凶だからといって人質をとるという考えはどうなのか。その人質の権利は?


様々な疑問や思いが湧き出てくるが、重い事情を背負った少女にまず何と声をかけるべきなのか分からず、ナツは複雑な表情を浮かべるしかなかった。


「難しそうな顔ね」

「何て言ったらいいのか、よく分からないんだ」

「正直ね。素直なのは嫌いじゃないわ」


くすりと笑うと、少女はそよそよと流れる夜風に目を瞑った。


「かれこれ十数年が経つわ。ここに来て」

「長いね」

「ええ、でも短くもあったわ。ここは退屈な場所だけど、地下帝国の方が百倍は退屈だったもの。城から外には出してもらえないし、毎日同じような鍛錬と勉強の繰り返し。けど、ここはたまに外に出してもらえるし、何も強制されないし、話し相手もいる」


「エルフのこと、憎んでないの?」

思い切ってそう聞くと、黒髪の少女は意外にも表情を変えず、ただため息を吐いた。


「最初は敵だと憎んでたけど、最近はそうも思わなくなってしまったわ。人質にされてるけど、痛めつけられたわけでも、苦しめられたわけでもないし、それに……」

「それに?」


言葉を探すように夜空を見上げてから、少女は困ったように笑った。


「大して変わらないのよ。エルフも吸血鬼も。考え方が少し違うだけで、果物を食べれば美味しいと感じるし、星を見れば美しいと思うし、家族と会えなければ寂しいと思う。そう、レイフィアというエルフから教えられた」

「レイフィアさんに?」

薄緑色の長い髪が、脳裏をよぎる。


「ええ。それで、色んな種族が同じ場所で笑い合ってるあの国を見させられて、私は何が正しいのか、分からなくなったわ。お父様、陛下が間違っているわけないの。でもここも悪くない、楽しいって思ってしまったのよ」

そう語る少女の顔は、どこか晴れ晴れとしていた。

ナツは昨日見た都会の風景を思い浮かべる。

「中央都市国は、それくらい良い所だったんだね」


「良い所かは分からないけれど、あの時の、小さい世界で暮らしてた私にとっては、人生を揺るがすくらい新鮮で衝撃的だったわ。都市国だけじゃない、世界の何もかもが」


そう呟く少女の赤い瞳は、星のようにチラチラと煌めいていた。

まだ幼く見える少女は、記憶を辿るように話を続ける。


「誘拐されてここへ連れてこられた時に、レイフィアと話をしたのよ。彼女は私に、『吸血鬼が攻めてこれないようにするために、君を人質にとりたい。でも吸血鬼王がエルフ王と半永久的な休戦協定を結ぶなら、君をすぐに解放する』ってきちんと説明してくれた。まあ考え方としては合理的よね」

「それで、吸血鬼王は?」

「ご覧の通りよ。私がここにいるのだから、協定は結ばれず、前と同じ睨み合いの状態」

「そっか……」

少女は自嘲気味に、でも悲しそうに笑った。

「当たり前よ、お父様が戦いをやめるわけがないわ。そんな、吸血鬼の誇りを汚すような真似、するはずがない。分かってる。……なのに、馬鹿よね、私、いつか迎えに来てくれるかもって、心のどこかで期待して、もうこんなに時が経ってしまって……」


ナツは言葉に詰まった。

今朝彼女を見た後にウォルカから王女だと聞いた時、何かあるとは思っていたが、まさかここまで深いわけがあるとは思わなかった。

ずっと強気だった少女の目から、ぽたりと雫が落ちて闇に消えていくのを見て、ナツはまたどうしようもなく胸が痛くなった。


「やっぱり、帰りたい?」

「ええ。私の弱さゆえに、敵国に人質に捕らえられてこのザマ。王家の恥よ。これ以上、家族の迷惑にはなりたくない。だから帰りたい」


何も寄せ付けないような、厳しい眼差し。

少女は一呼吸置いてから、また口を開いた。


「けど、本当は、よく分からないの。自分がどうしたいのか。レイフィアやマーティンは悪い奴じゃない。ゾイクは下品で馬鹿だし、ジールは鈍臭いけど、あの子たちも悪い子たちじゃないわ。地下帝国の外にも平穏はあって、色んな種族が手を取り合って生きている。その事実を知ってしまった今、あの城に帰っても、私がここで感じた楽しさや幸せは、あそこにあるのかしら……」


少女は夜空の遠いところをじっと見つめる。

ナツは何も言えずに、ただ沈黙を守った。

閑散とした荒野は、虚無のように闇に沈んでいる。


「あなたは、どう?」

いきなり問いかけられて、ナツは目を瞬かせた。

「僕?」

「そう。人間の国から出てきて、この屋敷に連れてこられたのでしょう。帰りたいとは思わないの?」


「僕は……」


ナツはしばらく考え込んだ。

少し思案するには長すぎるくらいの時間が経った後、それにしてはあっさりとした口調でナツは答えた。


「帰りたいとは、思わないかな」

「なぜ?」

不可解な顔をする少女に、ナツは下を見たままゆっくりと口を開いた。

今は亡き、大切な人たちのことが、頭の中を駆け巡る。


「僕には、もう、帰る場所がないから。たぶん」

「そうなの……」


つられて少女も下を向くが、すぐに勢いよく顔を上げた。そして納得げに頷く。


「だからね」

「え?」

「私がこんなにお喋りになってしまうのは、あなたと私が似ているからね。きっと」

「似てるのかな」

ナツはピンとこない顔をしているが、少女はなぜか確信を持って「ええ、似てる」と断言した。

「でも、久しぶりにこんなに喋ってから、なんだか口が疲れてきたみたい」

そう言われて、ナツも時間のことを思い出す。少し歩くだけのつもりが、かなりの長話をしてしまった。


「そうだね。じゃあ、そろそろ僕も戻ろうかな」


ナツが少女の隣から少し離れると、少女はナツの腕をそっと握った。氷のような冷たい体温が、ナツの腕に伝わる。


「名前、何ていったかしら」


ナツは愛想良く笑って答えた。


「ナツだよ。君はツクヨミ……さん、だよね?」

「ツクヨミでいいわよ。ねえナツ、私ね」


黒い髪の隙間から、絹のように滑らかな肌が覗く。

ツクヨミはナツに顔を近づけて、薄い唇で囁いた。


「全てが悪い夢ならいいのに、と思うことがあるわ」


儚い響きを伴った声は、涙のように夜闇に吸い込まれていく。

これは本音なのだろうか、それとも冗談なのだろうか。


「……僕も、時々そう思うよ」


ナツはそう言ってまた笑うと、「おやすみ」と残してバルコニーから出ようとした。

しかし、ツクヨミはまだナツから手を離さない。

目を合わせたまま、ぼそりと呟く。


「吸血鬼が」


「?」

さっきまでと声色が違うツクヨミに、ナツは首をかしげる。


「我が種族が、エルフより少し優勢なのは、最強の【切り札】があるからなのよ。もしあなたがどうしても勝たなきゃいけない戦いにあった時、私を頼りなさい」


ツクヨミは穏やかに、しかしどこか残酷な微笑を浮かべた。

ナツは純粋に疑問を持つ。


「どうして、僕にそこまで優しくしてくれるの?」


「言ったでしょ。特別よ。あなたと私は似てる。でも出来れば、今夜聞いたことは全部、夢だったと思って忘れてしまいなさい。悪い夢だったと思って、ね」


「でも、ツクヨ、ミ……」


言いかけて、口が回らなくなる。

なぜか、意識がだんだんと遠のいていく。

星に満ちた夜空を背に、ツクヨミが悪戯好きな子供のように笑っているのが見えた。

さっきはあれほど眠れなかったのに、今度は急に強烈な睡魔に襲われて、その笑顔も徐々に霞んでいく。

虚ろな視界の中、やはり最後に残ったのは、何かを思い出させるような、闇にも紛れぬあの赤い双眸だった。


口は笑っているのに、悲しそうな目。

彼女は、きっと苦しんでいる。


そう思いながらも、自分の意思とは関係なく、世界は次の舞台へと暗転していった。









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