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Break;on hiatus  作者:
マーティン公爵邸編
17/37

第十六話「悪魔の通る路」− Heaven City side –



目立つ桃色の髪をした若い男が、百周年の熱が全く冷め切らない街をあてもなく歩いていく。

ざわざわと喋り声で溢れる人ごみの中で、何の曲かも分からないメロディを口笛で吹きながら。

ふと男は夕暮れの空を見上げて、遠くからでもよく見える、もはやタワー顔負けの第一教会を眺めた。十二世紀後半から十五世紀にかけて西ヨーロッパで流行った、美しく煌びやかなゴシック建築。二十一世紀や二十二世紀に建てられた高層ビルが霞んでしまうほどの堂々たる佇まい。

本当に、歴史や流行というものは繰り返されるのだ。



「キャー!あれ、ダーテフェル様よ!!」

「ほんとだ!!ダーテ様ぁー!!」


時々聞こえる周囲からの黄色い歓声に答えながら、男は足を止めることなく繁華街や住宅街、大きな広場をただ歩いて回る。特別なことはしない。

付いてくる子供の頭を撫でたり、道端のお年寄りと世間話をしたり、若い子たちのノリにもたまに付き合ったりする。こういう散歩は、以前からよくしていた。

街を巡っていると、そのうち自分も街の一部と化し、街の変化が、生の鼓動が、細部まで肌で感じられるようになってくるのだ。


やっぱり、こうして街の中にいるのが一番落ち着くね。高いところはあまり好きじゃない。


今では''預言者''などという窮屈な立場を背負ってしまっているが、何の身分も持っていなかった頃はもっと自由に街を駆け回っていた。いわゆる''悪いこと''もたくさんしたし、それが純粋に楽しくて、何より性に合っていた。


人間を弄んだり、人間に振り回されたり……。

''主''には反抗してばかりだったし、アンジュとは''死ぬほど''仲が悪かったな。


そんな昔のこと、百年以上も前のことを思い返しながら、一人で地面に向かって笑い出しそうになる。



あの頃は若かった、なんて、柄にもなく思っていると、突然周りにいる子供のうちの一人が、男の腕にしがみついてきた。

子供には人気があるが、子供の方から預言者の自分に触れてくることは殆どない。

少し驚いた表情で下を見ると、栗色の髪が特徴的な少年が、僅かに怯えの混じった上目遣いで男を見上げていた。


「ダーテフェルさま、どうすれば、かみさまがみえるようになりますか?」


小学校に入っているか入っていないかぐらいの男の子が、舌たらずな声でそう尋ねてくる。

男はニコッと笑うと、「みたいのかい?」と聞き返した。幼い少年はこくりと頷く。


「はい。ぼくも、''かみのちから''がほしいです」

「へぇ」

その紫がかった大きな瞳に、男は興味深そうにニヤリと笑うと、子供と同じ目線になるまで(かが)んだ。


「神の力で、君は何をしたい?」

少年は暫くウーンと悩んでから、パッと顔を上げて言った。

「きょうかいのやくにたちたいです」

「敬虔だねぇ、いい子だ」


男が端正な笑みを浮かべて男の子の頭を撫でると、男の子も嬉しそうに笑った。それを見た周りの子供たちは、自分も自分もと頭を突き出してくる。

男はよしよしと他の子たちも撫でてやりながら、前にいる少年とまっすぐ目を合わせた。


「でも、それじゃダメなんだよ。それじゃ、''あの人からのギフト''は渡せない。残念だけどね」


男は笑顔のまま、どこか冷ややかな口調でそう言うと、すっくと立ち上がる。少年は男の腕から手を離さずに、「どうしてですか」と泣きそうになりながら聞いた。


「君はどうして教会の役に立ちたい?」

「え?」

聞き返されるとは思っていなかったのか、男の子は戸惑いながら小首をかしげる。


「逆に言うと、教会の役に立ったら、神の力を何にでも使って良いと思ってる?」

「だって、ママもパパも、きょうかいのためにいきなさいって……」


歩き出す男の歩幅に必死に合わせながら、少年は俯いて言葉を濁す。男から、さっきまでの陽気な雰囲気は無くなっていた。


「ママとパパの言うことだけ聞いていてもダメだよ。君は自分で、信じる道を探さなければいけない。何かに頼るなって意味じゃないよ?頼っても失敗してもいいから、君は君だけの真理を見つけないといけない」

「……なんのために、しんりを、みつけるのですか」

少年が半泣きでそう小さく呟く。


なんのために。


それを聞いて、男は少しの間考え込んだ。

ひどく不安そうな男の子の顔をちらりと見る。

どうしてこの子はこんなに一生懸命なのだろう。

本来、生きる意味など、考えもしない年齢なのに。

案外大人より子供の方が真理について真剣なのかもしれない。あるいは、真理を諦めた者を、いわゆる''大人''と呼ぶのか。


男は無表情になっていた顔に、また誰もが見惚れるような笑顔を貼り付けた。

そして腕にしがみつく少年を両手で抱えると、夕陽に向かってぐいっと持ち上げた。まだ軽いが確かにそこに存在する重量感に、男は顔を綻ばせた。


「君自身の幸せのためだよ。当たり前だろう?」


いきなり高く持ち上げられて、少年は目をパチクリさせるが、その瞳は、影にいるのにキラキラと輝いていた。


「何でもいい。君の信じるものを見つけて、そのために命をかける。それが世界で一番幸せなことだよ」

「しんじるものは、どうしたらみつかりますか」

少し食い気味に尋ねてくる少年に、男は目を細めて、躊躇うことなくはっきりと言った。


「君が本当に正しいと思うことを毎日毎日繰り返せば、自然とそれは見つけられる」


その言葉はまるで確約された予言のようだった。

そして少年を両手で掲げる男の笑顔は自然で、本当に心の底から楽しそうだった。

男は少年の目を見つめ、優しい声色で続ける。


「それでもし、結局君の見つけた信じるものが、他でもない我が主であったなら、また俺のところへ来なさい。その時は、腕なんかにしがみつかないでさ」


そう言って男は少年を地面に下ろすと、返事も待たずに次は角を曲がって路地裏の方へと足早に歩き出す。

その動作に迷いはなかったし、容赦もなかった。


「ありがとうございます!ダーテフェルさま!」


その背中に、まだ幼い子供の声が投げられる。

今にも泣き出しそうな、でも力強い声。

もう追いかけてこない気配に、男は振り返らずに、片手を上げてひらひらと振った。

周りにいた他の子供たちも、もう夜が近いからか、路地裏には行きたくないからか、それぞれ別のところへ駆けていく。



「さあ、子供は家に帰ってお眠り。ここからは、闇に紛れて''悪魔''が近づく、夜の時間」


派手な桃色の髪をした男は、嘲笑うようにそう呟いた。




ダーテフェル。

百年以上も前に、彼が彼の主から与えられた名前だ。

ヘブンシティの住民は、彼を、ヘブンシティに舞い降りた神の使いであり、預言者であり、アモル教布教に尽力した者の一人だと認識している。


彼が彼の主から与えられた力は、【生の力】。

【生の力】とは、人間に奇跡を与えられる力である。

同時に、主から与えられた仕事は、新たに生まれてくる子供たちの中から宝石(ジュエル)を与える者を選ぶこと。

極稀に、例外的にすでにこの世に誕生した人間に後天的に宝石を与える場合もあるが、それはあくまで例外で、だいたいは胎児の時点で、''選ばれし子供たち''は選抜される。

預言者ダーテフェル自ら、ヘブンシティ内全ての妊婦の元を何らかの形で訪問し、''宝石を与えるべき子供''を探すのだが、その判断材料はほぼ直感らしく、ヘブンシティに生まれる子供全員にその可能性があるという。


もちろんヘブンシティの住民は、この男、【ついなる預言者】のうちの一人が、そんな役目を背負っていることなど知らない。彼らはあくまで''選ばれし子供たち''は神が直接選んでいると思っているのだ。



ダーテフェルは、住み慣れたこの街に浮かぶ、見慣れた空を愛おしげに見上げた。

太陽はいつだって東から西へ。朝も昼も夜も、誰にだって無差別に、無慈悲に訪れる。こんな当たり前の(ことわり)が、もどかしいほどに儚く美しい。

硬い膜に閉じ込められた、自分には狭すぎる空白。窮屈で、今にも破って飛び出してしまいたくなるのに、嫌いにはなれない。なれるはずがない。''あの人''が守った、愛した街だ。



ヘブンシティ。新たなる神の都市。


アモル教会は、そこを覆う巨大な膜を創造した神を崇拝し、そしてその膜自体も、我々を守る天授の防壁として神聖視している。

アモル教会の考え方は、膜に閉じ込められた多くの者を救ったかもしれない。いや、救ったから、政府からこれだけ贔屓されるほどの権力を持ってしまったのだろう。今や、ヘブンシティ内の政治も経済も、アモル教会、預言者アモル抜きでは行えない。

アモル教会が三十年ほど前に現れた新興宗教に過ぎないといえども、預言者アモル自身はそれまでにたくさんの活躍を残してきたのだ。


アモルは天才だった。完璧な頭脳と計算力、卓越した判断力、そして天賦のカリスマ性を持ってあらゆる政治的問題、経済的問題を解決してきた。新たな議会の創設、新たな法律の提案、ヘブンシティ内だけでいかに食物を、水を、電気を賄うのか。貧しい者への援助から富裕層へのサービスまで。

アモルが手を加えたものは全て、奇跡といえるほどに(ことごと)くうまくいった。まるでそれは、本当に、神に導かれているかのように。


しかし、預言者アモルの実態を知る者は非常に少ない。というのも、アモルという人物は、政治経済に関しても教会に関しても、自ら直接信徒や国民の前に出て指導することはせず、必ず自身に仕える二人の預言者を通して、神からの御言(みことば)を伝えるからだ。

預言者アモルの素顔を知るのは、その二人の預言者と、アモル協会の会長であるアカウロだけ。

それでも、その隠された正体は、むしろ預言者アモルに神秘さと神聖さを持たせて、ヘブンシティの住民からの信頼は厚くなるばかりだった。



夕日も届かない路地裏を進みながら、男はたった一人の妹のことを考えていた。最近、いやここ百年くらい、彼女のことが頭の大半を占めている。

そのことに気づいて、男は心底鬱陶しそうに眉根を寄せた。険しい顔をしていても余りある美しさに、女性が見たら思わず嘆息しただろうが、夕暮れの人気のない道には子猫の一匹もいない。


「子供には、優しいんだね」


人の気配すらしなかった道端で、いきなり真上から聞き慣れた声が降ってきた。

男は特に驚くこともなく、仰々しい仕草で両手を広げた。


「子供には?心外だな、俺は青年にも中年にも、少子高齢化の最中でさえ、ご老人にも優しい」

「いいや、自覚はないかもしれないけれど、ダーテは案外子供に甘い。君の仕事柄、子供に関わることが多いから、感情移入するのは分かるけど。アモルや僕にも、それくらい優しければ良いのに」


音もなく隣に現れた黒髪の中性的な男に、ダーテはニヤリと笑った。


「おや、嫉妬かな?嬉しいね」

「でもダーテは、子供が苦手みたいにも見える」

「ほお、よく分かってるじゃないか。俺は年下はあまり好かない。頼りになる年上か同い年の方が断然タイプだ」

「……そうなのか?」


少し困惑した表情をする黒髪の男に、ダーテはやれやれと肩をすくめた。


「冗談だよ。第一、今じゃ俺より年上のヤツなんて、この街にはいないぞ。アンジュ、お前は相変わらず通じないヤツだな」

「なんだ、なら良かった」

アンジュは安心したようにため息を漏らす。

「何が?」

「何でも。ところでダーテ、僕は君に相談があるんだけど」

「相談?珍しいね、お前に悩みなんて繊細なものが存在していたとは……」

「一人で外に出たいんだ」


アンジュがきっぱりとそう言うと、ダーテは一瞬目を見開いた。が、すぐに悪巧みをする子供のように口角を上げる。


「ああ、''あの二人''のことか?」

「そう。''ジャパムス''に予言しといたとはいえ、やっぱり少し心配だから」

「じゃあ、俺も行こう。何も一人で行くことはない。ちょうど外の様子も気になってきた頃だ」

アンジュは首を横に振った。

「君は今回はここにいて欲しい。アモルから目を離すのは賢明じゃないし、君がそばにいてやるのが彼女にとって一番の支えになる」

「……たとえ仮に万一そうだとしても、俺はお前と一緒に行く。アモルが心配なのは分かるが、あれももう子供じゃないんだし、何より主の言葉を忘れたわけじゃないだろう。俺たちは、俺たちだけは内と外で離れるべきじゃない」


ダーテが厳しい口調で説得するが、アンジュもそう簡単に折れない。慎重に言葉を選びながら、はっきりと言い返す。


「ダーテ、君の言うことは最もだよ。だけど、今回だけは一人で行かせてもらう。アモルはもう子供じゃなくても僕らの妹だし、主は確かに『いつも二人で行動しなさい』と言われたけど、主の言葉をそのままの意味で捉えることがどれほど愚かなことか、君が一番よく理解しているだろう」


アンジュの真剣な眼差しに、ダーテは動揺を隠すように空の方へ顔を向けた。紫の雲の中で、白い月が爛々と輝いている。


「頑固だな、アンジュ様は」

ダーテは苦笑しながらそう呟いた。

アンジュは道の壁に剥き出しになっているパイプを、そっと人差し指でなぞった。


「それに、ダーテは''始末''を終えたばかりなんだろう?暫くはここから離れるべきじゃない」

「ああ、大きな''手術''だったよ。昨日消えた人間は、全員行方不明か反逆罪で処刑ってことで表向きは処理してあるし、今や死体も証拠も無い上に機密事項ゆえ調査禁止にまでしておいたから、何も問題はないと思うけどね」

「第一教会……協会本部は?」

アンジュが恐る恐るそう尋ねると、ダーテは何食わぬ顔で、頭の後ろで腕を組んでみせる。

「一夜にして教会内ほとんどの非正規会員が''無くなった''んだ。会長のアカウロは新規雇用で大忙しだろうよ。ま、他の教会から()り合せた幹部は残っているし、本部に出世したいヤツなんて大勢いるから、そんな苦労はしてないだろうけど」

「……例の子は?新しく第八の代表になった子」


やや諦めの混じった目で、アンジュはダーテを見る。

ダーテは白い薄手のコートを涼しい風にはためかせながら、はてと首を傾げた。


「何て名前だったか。えーと、レハルじゃなくてレハミでもなくて、レハムだっけ」

「そう、レハム。その子、''現場''を見たんだろう?君にしては相当な不手際だよ」


ダーテは忌々しそうに顔をしかめる。


「まったくだ。まさか最後の足掻きに救援要請をされるとは。律儀に駆けつけたレハム君は''俺が殺した本部の非正規会員および科学者の死体''を見ているし、地下通路であの二人にも遭遇している。おかげで''記憶操作''なんて慣れないものをする羽目になった」


「……そもそも記憶操作は使わないっていうルールだったはずだけど」とアンジュがダーテのすぐ隣まで詰め寄るが、ダーテはお構いなしに暗い道を颯爽と歩いて行く。


「今回は例外だ。殺すよりはいいだろ?死ぬには惜しい人材だから、見たこと全部忘れることで生かしてやったんだ」

「……この世に惜しくない人材なんていないよ。誰かを犠牲にするやり方はやっぱり良くない」

ダーテは小さく鼻で笑った。

「綺麗事だね」

「それに記憶操作も完璧じゃない。失った記憶を何かの拍子に思い出したらどうする?」


抑揚のない声でアンジュがそう聞くと、ダーテは軽くアンジュの艶やかな黒髪をつまんだ。


「その時はお前だ。そういうルールだろ?」

「こういう時だけ、ルールとか言って。君のしわ寄せは毎回僕に来るんだからな」

「分かってるって。お前にはいつも感謝してる。アンジュ、何ならお前が街に残ってればいい。外へは俺が一人で行ってくるから」


ダーテはムスッとするアンジュを宥めるように、そう言った。対してアンジュは大きくため息を吐く。


「ダメだよ。……君、''向こうの人たち''からは、ちょっと嫌われてる気がする」

アンジュが少し躊躇いがちに言うのに対し、ダーテは平然とケラケラ笑った。

「気がするんじゃなくて、実際嫌われてるんだ。しかも''ちょっと''どころじゃない。当たり前だろ?悪魔だし」

「自覚しているなら、今回は僕に任せてよ。そんなに長居するつもりでもないし、僕一人で何とかなる。アモルのことにしろ街のことにしろ、君はここにいるべきだ」


アンジュはダーテの左胸に、ポンと手を置いた。

ダーテはその華奢な手を、複雑そうな顔で見つめる。

一瞬の沈黙が二人の間を過ぎ去るのと同時に、狭い路地に涼しい夜風が吹いてきた。

ダーテは何か言いたそうに口を開いたが、結局飲み込んで、いつものようにニヤリと笑った。


「お前と違って、人間には人気者だし?」

「そう、僕と違って人気者だし、アモルからも好かれてる」

「そうだろうか」

「そうだよ、彼女、君のこといつも尊敬してる」


アンジュは、表情の乏しい顔に微かな笑みを浮かべてみせた。ダーテはくつくつと笑って、ご機嫌そうにアンジュの肩に手を回す。


「アモルはまさに主の娘だ。姿を現さずとも、人間からは全知全能と崇め奉られるところは、まさしく神といったところか」

「それって嫌味?」

「まさか。でも、何にせよ近いうちにアモルとはちゃんと話さないといけない。昨日はめでたい日だったから、あまり込み入った話をしなかったが」

アンジュはキョトンと首をかしげた。

「話って、何の話をするつもり?」

「科学の再復興と芸術の推奨についてだ」

ダーテの靴の下で、地面に落ちていた木の枝がパキリパキリと音を立てた。

アンジュは納得げに頷く。

「ああ、アモルはその点に関しては異常に頑固だからね。信仰の邪魔になるって」



「科学や芸術によって信仰から離れる信徒など、もとよりいないのと同じだ。宗教は決して弱者の集まりではない。むしろ科学や芸術を通して真理を探究する者にこそ、必要な場だ。現に、科学が発達していた百年前にだって、宗教はあった」



アンジュは下を向いて、思案するように何度か瞬きをした。黒い髪に純黒の睫毛、真っ黒な服、やがて完全に夜になれば、その輪郭も失われるだろう。

彼はダーテの顔を見て、ゆっくりと口を開く。


「当時の宗教は、科学ほど栄えていなかったけどね。ダーテ、彼女の言うことも一理あるよ。科学がこれ以上発達して、''膜''や''アモル''の正体が完全に解明されれば、信徒が減る可能性は大いにある」

「一理あっても二里あっても、それが我が主の願いだとは思えない。あの人は、科学を自分だけのものにしようなんてみじんも思ってなかったはずだ」


そうキッパリと断言するダーテに、アンジュは少し困ったように笑った。


「そうだね。君の言う通りだ」

「お前は、アモルを甘やかしすぎなんだよ」

「君だって、何やかんや甘やかしてるくせに。それに、アモルにも信念がある。それは尊重しないと」


ダーテは一瞬、顔をこわばらせた。

そして、影になってよく見えないアンジュの横顔に、目を凝らす。


「それが、間違った信念だったとしても?」

「間違っているかどうかは、最後まで分からない。何にせよ、僕らの役目はあくまで彼女を支えることだ」

「よくそう割り切れるな」

「割り切れてるわけじゃないよ。覚悟は、しているだけ」


アンジュはそこでピタリと止まった。

いつの間にか、薄暗い細道から騒がしい大通りの手前まで来ていた。すっかり空も深い藍に染まっている。


「ここまでだね。君と一緒にいると、長い時間も路地もあっという間だ」


アンジュは穏やかな声音でそう言った。

道の向こうから零れるイルミネーションの光を背に、ダーテはアンジュを振り返る。


「いつ、外へ出る?」

「すぐに。しばらく、君の顔を見れないと思うと、淋しいな」

「……お前は素直でいいよ」


ダーテは少し悲しそうに笑うと、アンジュに背を向けて、通りに溢れかえる人の群れへ悠々と進んでいく。

アンジュは黙ってそれを見届ける。

数歩歩いたところで、ダーテはまたアンジュの方を振り返った。

その顔は、苦しみと幸せで矛盾していた。


「この街は、狭いわりにずいぶん居心地がいい。膜なんてなかった、百年前よりずっと。おかしいよね」


薄紅の短い髪が、路地に吹くそよ風に揺れる。

アンジュは言葉に詰まったまま、ダーテをただ見つめ返した。ダーテは明るい声で続ける。


「俺が暮らしやすいってことは、どういうことか、分かるよね?外もいいけど、内のこともちゃんと考えておけよ。じゃないと、思わぬ所で足をすくわれるぜ」


夜闇の中でも輝きを失わない青い双眸が、アンジュをしっかりと見据えた。その視線の先にあるアンジュの両眼も、澄んだ水面のように青く光っている。

元々顔のパーツは似ている二人だが、こうやって顔を見合わせると、髪以外はまるで瓜二つだった。


人々のざわめきが遠く聞こえる。

アンジュは低い声で、「……肝に命じておく。街を、アモルを頼んだ」とだけ言うと、くるりと元来た路地裏の方へ足を運んだ。

やがて暗闇に紛れて、その姿は見えなくなる。

孤独な静寂が戻ってくる。


ダーテは、アンジュの行く先を思った。

すると、必然的に''あの二人''のことが脳裏をよぎった。自分が選んだ、二人の子供。

ちゃんと、生きていればいいけど。いや、生きていてもらわないと困る、か。


ダーテは、星のきらめく夜空に向かって呟いた。


「……出ていったんじゃない。君たちは''出された''んだよ。その小さな背中じゃ背負いきれないほどの、''使命''を背負って」


その独り言に答えるように、都会の明かりに負けない一番星が、遥か上空で僅かに震えた。


''あの二人''が何を得て、何を失うのか。


悪魔は愉快そうに、でもやはりどこか寂しそうに笑いながら、眠らない夜の街へ溶け込んでいく。






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