第十話「我が家へようこそ(1)」
厳かな雰囲気のある屋敷の庭には、色とりどりの花が咲き乱れていて、真ん中に一つ綺麗な噴水があった。
付近にはこの屋敷以外何も無く、ただ夜空に陰った野原が続くだけで、ここだけどこかから切り取って貼り付けたかのような違和感が漂っていた。
「このお屋敷は、ウォルカさんのものなんですか?」
「正真正銘、ウォルカ・マーティン公爵の屋敷だ。変なことはせずに大人しく付いて来いよ。少しでも何かやらかしたら、即刻追い出すからな」
そう念を押してから、ウォルカはアーチ状の門をくぐって庭の中の道を進んでいく。
辺りは薄暗かったが、道の所々に立てられた松明が行く手を照らしてくれた。
シモンは周りを注意深く眺めながら、楽しそうに笑う。
「まさか吸血鬼の屋敷にお邪魔できるとはな」
ナツもつられて笑った。
「そうだね。お化けとか出ないといいけど」
「おや、幽霊とか信じるタイプじゃないだろ?」
シモンがニヤニヤと笑うと、ナツは恥ずかしそうに下を向いた。
「今でもまだ心のどこかで、全て信じられないと思ってるよ」
「……そう簡単に、人間変われないってことだ」
「そうだね」
庭の小道を抜けて、緩やかな白い階段を登り、木製の重そうな扉の前に立つと、ウォルカは二人の方を向いて小さく笑った。
「ようこそ、我が家へ。先に言った通り、ここには俺の他に四人のガキがいるが、もう夜も遅い。明日紹介するから、今日は部屋に入ったら無駄話せずにさっさと寝るんだな」
「どうしてウォルカさんは、僕たちに親切にしてくれるんですか?それに、レイフィアさんも」
ナツはずっと疑問に思っていたことを口に出す。シモンも興味深そうにウォルカの赤い瞳を見た。
「さっきも言ったが、俺たちの入ってるジャパムスという組織は、比較的人間に友好的な団体だ。どうしてジャパムスに入ってるのかは、それぞれに違った理由がある。もちろん俺にも、レイフィアにも」
「ウォルカさんの理由は何なんですか?」
「お前が知る必要はねえ」
ウォルカの表情に暗い影が過ったのを、シモンは黙ったまま片目で見つめる。
ウォルカは重たい扉を片手で開けて、二人を中へ招き入れた。
少し埃っぽい広間は、しんと静まり返っていて、三人が歩く足音だけが辺りに響く。
ウォルカは歩きながら屋敷の大体の間取りを説明する。
「お前たちは二階の一番奥にある部屋を使ってもらう。風呂やトイレ、ベッドはついてるし、二人で使うには広すぎるくらいの部屋だから、不自由は無いはずだ」
それを聞いて、シモンは声を出して笑った。
いつにも増して、今日はよく笑うみたいだ。
「こっちは野宿覚悟だったんだ。不自由なんてあるはずない」
「それもそうだな。せいぜい感謝して使えよ」
「ありがとうございます」
ナツはウォルカに改めてペコリとお辞儀をする。
「シモン、だっけか?」
「いえ、シモンはこっちで、僕はナツです」
「ああ、お前がナツか。お前は、その謙虚さをこれからも大事にすることだ」
「え?あ、はい」
「最近のガキには少ねえんだよ。慎ましいヤツがなあ」
ウォルカは嫌なことを思い出したのか、顔をしかめる。
「はぁ……」
ナツはよく分からず首をかしげた。
「さあ着いた。ここがお前らの部屋だ。自由に使っていいが、物を壊したり汚したりはするなよ。何か必要なものがあれば、明日紹介する使用人に言え」
「分かった」とシモンが頷く。
「部屋にある時計は今一時ぐらいだろうが、明日九時には準備を済ませて下に降りてこい。一階の食堂で朝食をとるから」
「はい」とナツ。
「じゃ、これここの鍵。一つしかないから無くすなよ」
ウォルカはナツに小さな鍵を手渡すと、あくびをしながらまた長い廊下を戻っていった。
廊下の窓を見やると、空にオーロラのようなものが見えた。月のない夜空で、唯一の光源となっている。
ナツが扉の鍵穴に鍵を差し込んでくるりと回すと、カチャリ、と音を立てて扉は開いた。
「お邪魔します……」
ナツは中に入って部屋の明かりをつける。
中の空気は冷たく新鮮だった。無駄な家具はなくスッキリしていて、確かに二人部屋にしては広い。お風呂とトイレもちゃんと別室だし、誰も使っていないはずなのに、清掃も行き届いている。
「中世のヨーロッパ風なのが流行りなのかなあ」
ナツはアンティーク調のソファに座りながら、そう呟く。
横を見ると、シモンは早速蛇口をひねって、水が出るかを確かめていた。水(あるいはそう見えるもの)はちゃんと管から滞りなく流れ出ている。
「でも遠くに現代的な高層ビルも見えたから、まあ人の好みだろう」
「人外の好み、ね。それにしても、美味しいお茶に、こんないい部屋までもらっていいのかな」
ナツはソファにゴロンと寝転んだ。
「確かに人異和解派なんてものがあるとは、予想外だったな。まあ、まだそれも本当かどうか信用出来ないわけだが」
シモンは、今度は部屋にあった暖炉を点検している。
「用心に越したことはないけど、こんなに良くしてもらってるんだから、失礼はないようにしなくちゃ」
「俺はそんなに育ちがよくないもんでね」
暖炉に火をつけたいのか、シモンはマッチを擦っているがなかなかうまくいかない。
「そうだ、酸素が無いんだった」
そう呟くと、シモンは仕方なくマッチを置いて、何も言わずに部屋から出ていった。
僕は追おうかどうか迷ったが、体が重くて言うことを聞かない。
暫くすると、シモンは何事も無かったかのように戻ってきて、何処かから取ってきた松明の火を暖炉の薪に移した。
酸素がないにも関わらず、炎は赤々とよく燃える。
何故かなんて、考えるのはもうとっくにやめていた。
部屋には二つ大きな窓があって外がよく見えるが、見えるものといったら屋敷の外の庭か、はるか遠くの都市ぐらいだった。
手持ち無沙汰に、星が無数に散らばる夜空をボーッと見上げる。
「何だか、自分の世界が壊れていくよ」
ナツが微かな声で言葉を零す。
シモンはリュックの中を整理する手を止めた。
「ぶっ壊すために、出てきたんだろ」
ナツはどこか寂しそうに笑う。
「そうだけど、何だろう。僕の神様が、死んでいくみたいだ」
シモンは立ち上がって、ソファに横になっているナツを見下ろした。
その目はどこか冷たかった。
「神なんて、お前、信じてなかったんじゃないのか?」
「科学は、信じてたよ」
「今は信じてないと」
「こんな世界を見せられたら、そりゃね」
少し自嘲気味に笑うナツを見て、シモンもくすりと笑った。
「ざまあ見ろ、だな」
「まったくだよ」
「でも、お前が科学を殺す必要なんか無いんだぜ」
「別に僕は科学を殺してないよ。勝手に死んでいくんだ」
「いいや、お前が殺してるんだよ」
シモンはいきなりソファに膝をつくと、ナツの首を抑えた。ナツは驚いて目を瞬かせる。
「お前が信じていたいと思うなら、それは神でいられる。決して死にはしない」
蒼い隻眼の中に、チラチラと光る星が見える。美しくも、儚いような。
僕がじっと見つめ返すと、シモンは首から手を離した。
「シモン、大丈夫だよ。たとえ僕の神が死んだとしても、僕は何ともないから。ただ、少し変わるだけ」
「どうかな。人間は脆い」
「君は、神を信じているんだろう?」
「半分信じている。そして半分信じられなくなったから、ここにいる。俺は俺しか信じてない。だから、ここで自分の目で全てを見る。それはナツ、お前も一緒だろ?」
「うん。真実を見たいっていう気持ちは変わってないし、これからも変わらないよ」
''膜''の中にいた頃を思い返しながら、ナツは力強くそう言った。家族のことが脳裏によぎる。
「それなら、いいんだけどな」
彼の瞳から星が消えて、シモンは荷物の整理に戻った。
胸の中で何かがぐるぐるとするのを感じる。
ナツは自分の片腕で目を覆った。
これからずっと、こんな気持ちを背負っていかなくちゃいけないのかな。
「何があったのか、詳しくは聞かない。大方察しがつくしな。でも、お前が、お前の姉貴に負い目を感じる必要は無い。彼女は、きっとお前に自由を望んだはずだ」
シモンはナツに背を向けたままそう言った。
「すごいね。心が読めるんだ」
ナツがそう返すと、シモンは黙々と持ってきた本を棚に並べるだけで何も言わなかった。
その言葉で、僕の胸がどれだけ軽くなったか。
ずっと肩に乗っていた重荷が漸く取れて、胸に立ち込めていた靄は晴れて、幾らか僕は前向きになれたのだ。
そんなナツの心を知ってか知らずか、シモンはナツの方を向き直って可笑しそうに笑った。
「とはいえ、結局お前とここまで来ることになるとはね」
「嫌だった?」
「まさか。一緒に旅をするのに、お前以上はいない。だから誘ったんだ」
シモンはナツの体に白い毛布を投げかける。
ナツは寝転がったまま、暖炉に揺らめく真っ赤な炎を眺めた。その温もりに、自然と瞼が落ちてくる。
ーー絶対に忘れない。
忘れることなんて、出来るわけがない。
たくさんの大切なものを失って、途方もなく大きなものを得た、今日という日を。
そして、完全に消えるはずもない、この行き場のないどうしようもない思いを、僕は一生涯、胸の内に持ち続けなければいけない。
あの美しくも感動的でもない光景は、最後のクーナの顔は、死ぬまでこの目に焼き付いたままなのだ。
僕の世界が壊れていく。
音も立てずに、最後には跡形もなく。
やがて、生まれ変わった世界で、僕は生きていけるのだろうか。
果てしない不安の中で、僕は安らかな眠りにつく。