第一話「日常の終幕」
その日、僕は初めて世界を見た。
時代は変わっていく。
緩やかに、目にも留まらぬ速さで。
人類は時代に沿って更なる進化を遂げ、その進化は既に超自然的な能力にまで至っていた。
現在は西暦2217年、春。
人類の最終進化形態と言われる超能力者達が蔓延るようになった世の中で、ちょうど百年前、日本の首都、東京に突如巨大な【膜】が姿を現した。
膜は曇り一つない透明で、あらゆるものを反射しながら、遥か上空から地面にかけて綺麗な半円を描いていた。そしてそれは、あらゆる生物、風、音、電波までもを遮って、すっぽりと東京を包み込んだ。
よって必然的に東京は閉鎖的な空間と化し、外部との連絡が一切途絶えてしまった。
閉じ込められた人々は、悲しみ、嘆き、絶望さえした。何が起こったのか理解出来るはずもなく、ただ途方にくれる日々が続いた。
しかし、数年も経てば、都市内だけでの政治、企業、自給自足の運営が活発に始まり、生活に余裕が出来ると、人々は手のひらを返したように膜のことを、天授の防壁【ヘブンセントバリア】と呼び、その内側の東京という街を、新たなる神の都市【ヘブンシティ】と呼び、讃えるようになった。
そして長い年月を経て、人々は膜の内側では気温が快適に保たれており、天災地変も起こることがなく、何の不自由もないことを知った。すると彼らは、讃えるだけではなく、膜を信仰対象にし、崇めるようにさえなった。
その果て、膜の出現からちょうど百年経った現在。
ヘブンシティを治めているのは、三十年ほど前に誕生したとある新興宗教【アモル教】だった。
アモル教とは、アモルという預言者が「ヘブンセントバリアは終末から我々を救う為に神が与えてくださった大いなる宝であり、もしその心意に背き、膜の外に出れば、其の者は獰猛で邪悪な人外に惨殺されるだろう」という教えを説いた宗教だ。
現在では、街の九割がアモル教の信徒である。
アモル教が人気である理由の殆どは、教祖預言者アモルが建てた、【アモル協会】にある。
協会とは、【神の力】を授かった【選ばれし子供たち】によって結成された組織で、超能力を持った犯罪者や暴力団、異教徒の反乱を阻止したりする役目がある。
超能力者をなかなか抑止できない警察に代わって、協会はヘブンセントバリア付近を警護し、ヘブンシティの住民の安全を守っているため、膜内では正しくヒーロー扱いなのだ。
逆に、アモル教に入っていない所謂異教徒は(その殆どが科学者なのだが)、嫌われ、迫害される。
少数の者たちは、多数の者たちに淘汰される。
人類史においては、よくあるパターンだ。
残酷にも、あまりにありふれている。
そして、他でもないこの僕も、淘汰される側の人間だった。
ーーーーーーー
目が醒めると、視界は真っ暗だった。
両腕の感覚が麻痺して動かせない。
ああ、あのまま寝てしまったのか。
言葉に出来ない倦怠感で頭が重い。
しばらく身動きがとれず、五分ほど経ってようやく体を起こせた瞬間、部屋のドアが勢いよく開かれた。
「ナツ!もう、また机の上で寝たの?寝る時はちゃんとベッドで寝なさい」
「クーナか……」
「お姉ちゃん、でしょ。母さんが、ご飯できたって」
言われてみれば、開いたドアから何だかいい匂いがする。
机の上に散らばったノートや本を急いで片付ける。
カーテンの隙間から差し込む眩しい光に、思わず目を細めた。
「また徹夜したの?まだ高校生なんだから、父さんの真似事も程々にしなさいよ」
「クーナこそ、目の下にクマができてるよ」
クーナはパッと細い指で目元を押さえる。
「えっ、うそ。化粧で隠せるかしら」
「さぁ、どうだろう。遅くまで何してたの?」
「うーん。一言で言えば、細胞の研究ってとこ」
「古いね」
「よく言われる」
クーナは肩をすくめてみせた。
窓の外からチュンチュンという鳥の鳴き声が聞こえる。
二人で最近の生物学業界の衰退について、殊更難しそうな具合で喋りながら階段を降りると、リビングのテーブルにはもう食事が並んでいた。
母さんは、どこかへ出かける支度をしている。
ナツは席に座って、顔をしかめた。
「さすがに、朝からオムライスはちょっとキツい気がする」
「何言ってるの、もう昼よ」
母さんは呆れ顔でそう言った。
時計を見ると、現在の時刻は11時50分。なるほど、もう昼だ。
「父さんは?」
「もうお仕事に出かけたわ。お弁当忘れて行っちゃったから、今から届けてくるわね」
「僕が行こうか?」
「ナツは研究所に行きたいだけでしょう。そういうことは、朝早くに起きてから言いなさい。あと、代わりに夜ご飯の買い物行っといてね」
「……ハイ」
ナツの父親は有名な研究家で、ヘブンシティ内では有数の大きな研究所を持っている。
と言っても、ここでは科学の研究はあまり推奨されていないので、補助金などは出ず、研究費用は全て自腹。
なのでうちは決して裕福ではなく、両親の共働きで何とか生計が成り立っている状態。
母さんが家から出て行くと、僕はテレビのリモコンで午後のニュースをつけた。母さんは食事中にテレビをつけるのを嫌がるので、今だけだ。
朝ごはんのような昼ごはんを食べながら、アナウンサーのハキハキとした声に耳を傾ける。
『今から、ヘブンセントバリアを崇拝するアモル教の三月九日の儀式を中継でお送りします。なお、三月九日の儀式とは、恵みのある春を神に感謝するという……』
「アモル教ね」
クーナは隣で不機嫌そうに肘をついた。
「気に入らない?」
僕は炒飯とケチャップの付いた卵を器用に重ねてスプーンですくう。
「宗教なんて、科学的じゃないわ。私、非科学的なものは信じないことにしてるの」
「今時そんなこと言ってると、友達出来ないよ」
「いいのよ、別に。表面上の友達なんて、いらないもの。……ナツはどうなの?」
「何が?」
「アモル教とか宗教のこと。どう思うの?」
ナツは少しの間逡巡してから口を開いた。
「うーん。宗教も理にかなっている所は多くあるし、科学が全てなわけじゃない。僕はそれも、一つの考え方だと思ってるよ」
「じゃあアモル教が街を支配してる現状を、受け入れてるってこと?」
クーナは納得のいかない顔でコップにお茶を注いだ。
ナツは苦笑いをする。
「クーナは、ただ宗教を批判したいだけでしょ」
「ねぇ、ナツ」
「何、クーナ?」
始めにケチャップの刺激が、そして次にふわりと柔らかい卵が、舌の上でトロトロと溶ける。
「神様って、いると思う?」
「分からない」
「どっちかって、言ったら?」
「いない」
「ふーん……」
僕がこうやって自分の考えを即答できるのは、そういうことをよく考えるからだった。
でも結局のところ、神の存在の有無なんて、僕みたいなのが考えたところで分かるものではなかった。
うん。それにしても母さんの作ったオムライスはいつ食べても美味しい。
「クーナは、神様は絶対にいないって思ってるんだろ」
僕がそう言うと、クーナは軽く笑った。
「もちろん。神様なんて、人間の勝手な妄想よ」
「どうしてそう思うの?」
「だって、神様なんて皆見たことないでしょ。見たこともないものを信じるなんて、現実的じゃない」
ナツは、カチャリとスプーンを皿の上に置いた。
「……目に見えるものが全てじゃない。クーナは火星をその目で見たことはないと思うけど、火星の存在を疑っちゃいないだろう?空気なんかもそうだ。目には見えないけど、ちゃんとそこに存在している」
クーナは嫌そうな表情で言った。
「そんな論理、認められないわね。天体は望遠鏡を通せば誰でも見ることができる。空想と一緒にしないでちょうだい。それに、それ、シモンの受け売りでしょ。まだあの子とつるんでるの?」
「シモンは、いいヤツだよ」
「でも、どこの子かも分からないんでしょ?随分と影響受けてるみたいだけど」
「そうかな」
ナツはオムライスを食べ終わって、もう冷めてしまったコーヒーに口をつける。
「そうよ。ナツ、昔はそんなこと言わなかったのに」
クーナの言い方に、ナツは少しムッとする。
「クーナは、もう少し周りも見るべきなんだよ。そうじゃなくてもうちの家は白い目で見られてるのに」
「ほら、またそんなこと言う。そうやって、ナツもアモル教に入るつもり?」
「そんなこと一言も言ってないだろ。何怒ってるの」
ナツがそう問いかけると、いつも強気なクーナの目が、一瞬怯えるように陰った。
「怒ってない。ただ怖いのよ。この前、唯一アモル教じゃなかった友達が、遂に入信したって。このままじゃ、生活するのにも困るからって……。そんなのおかしいわよ」
「大丈夫だよ。僕が、クーナたちを置いて入信したりするはずないだろ」
クーナはナツの声が聞こえているのか聞こえていないのか、首を横に振る。
「神様なんているわけない」
「クーナ」
クーナは曇りのない瞳で、ナツを見つめた。
「だって、ナツもそう思うでしょう?みんな、ヘブンセントバリアの中で、おかしくなってるんだわ」
「……」
みんながおかしくなっているのか、僕たちがおかしくなっているのか。
ナツが黙り込んでしまうと、再び女性アナウンサーの高い声が耳に入ってきた。
『次のニュースは、池袋駅近くで起きた通り魔事件です。犯人は未成年の超能力者で、未だに逃走を続けています。アモル協会が対処していますが、心当たりのある方は、至急……』
「嫌なニュースね。でも超能力者だって、きっとすぐに実態が科学的に解明される」
クーナはそう言うと、リモコンでテレビのチャンネルを変えた。この時間帯は、面白そうな番組などやっていない。
「そう信じたいね」
ナツは食器を洗って片付けると、洗濯・乾燥機能が付いたクローゼットからシワ一つ無い上着を取ってそのまま羽織った。
「どこか出かけるの?」
「聞いただろ。母さんの代わりに、買い物に行くの」
「知ってる?ヘブンセントバリアが出現してから今日でちょうど百年目とかなんとかで、街は今お祭り騒ぎなのよ」
クーナはうんざりとした顔をしてみせる。
「だからって、行かないわけにもいかないだろ。何か買って来て欲しいものある?」
ナツは玄関に向かって歩きながら、夕食は何にしようかと頭を捻る。
味噌汁、野菜炒め、煮魚、あ、シチューでもいいかもしれない。
「特に無いけど、気をつけてね。今はどこも馬鹿みたいに物騒だから」
「分かった、分かった」
僕は適当に相槌を打つ。
「……私も、付いて行こうかな」
「いいよ、クーナは。学校の週末課題がまだ終わってないんでしょう?それに、そのクマは人に見せられないよ」
「そうなのよねえ」
クーナは恨めしそうに、目の下を人差し指で抑える。
「大丈夫だって。買い物したらすぐに帰ってくるし」
発売されたばかりの最新モデルのシューズを履いて、扉を開ける。
空は雲一つ無いいい天気で、辺りは暖かい春の気配に満ち溢れていた。
後ろからクーナの声が聞こえる。
「ナツ、寄り道したらダメよ。変な人について行ってもダメ!」
五つ離れているとはいえ、十八歳になる男子高校生に言ってるとはとても思えないような言い草に、ナツは笑って「ハイハイ」と返事をした。
街は確かに、今までに無いお祭り騒ぎだった。
至る所に''100''という数字が描かれ、色とりどりの風船を無料で配っている人や、通りで屋台を開いている人、仮装している人たちもいた。
「これじゃ、夏祭り以上の盛り上がりだな」
周囲を見回しながら、ナツは小さく呟く。
年に一度、旧東京都であるヘブンシティでは、街全体をあげて七月の下旬頃に夏祭りをするという慣習が五十年ほど前から続いていて、毎年それこそ屋台を開いたり花火大会をしたりと、老若男女問わずとても盛り上がるのだ。
しかし、このヘブンセントバリア百周年の騒ぎは、間違いなくそれ以上だった。
走り回る子供たちを掻き分けて、ナツは行きつけの市場を探した。
高層ビル並みに高いスーパーやデパートが立ち並ぶ中で、ナツの家の近所では毎日ささやかな市場が開かれている。魚も野菜も果物も、新鮮で安いのが売りだ。
ナツは何を買おうか未だに悩みながら歩みを進めるが、いつも市場がある場所に市場は無かった。
そこには手作りのクッキーを配る女の人と、写真を撮り合う仮装した男女がいるだけだった。
……今日はさすがにやってないか。
仕方ないので一番手近なデパートに入ろうと、ナツが後ろを振り返った時だった。
「お、やっぱりナツだ」
「シモン」
まさしく、噂をすれば何とやらだ。
そこにいたのは、この街では目立つ銀髪青眼の青年。右目に眼帯をしていて、黒のパーカーにブルーのジーンズを履いている。
シモンはナツの一つ年上で、中学校からの友達であり、アモル協会の孤児院で育った孤児だ。
そして、彼も''選ばれし子供たち''のうちの一人で、アモル協会に所属している。
しかし他の信徒とは違って、所謂''異端者''を差別したりしない。中学時代、信徒でないが故に学校で浮いていたナツに、シモンは自分から声をかけたのだ。
もうかれこれ五年以上の付き合いになるが、それでも彼にはまだまだ謎が多い。
隠しもせず視線を投げつけてくるナツに、シモンはふっと笑った。
「休日の買い物か?」
「そうだよ。夕飯のおつかい」
「平和だな。でも、今日お前に会えて良かった」
「?」
ナツは首をかしげる。
髪を太陽に煌めかせながら、シモンは近づいてくる。
「どこに行くんだ?」
「近場のデパート。今日はここの市場がやってないみたいだから」
「ああ、なるほど」とシモンは頷いた。
「君は?」
「俺は、本当は協会からの要請でこの辺の治安を見てたんだけど、暇だし、ついて行くよ」
シモンのような協会に所属する''選ばれし子供たち''は、超能力者たちの違法行為から地域の安全を守るのが仕事なのだが、シモンは時々それをサボることがあるようだ。
「大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。俺一人抜けたぐらいじゃどうにもならないから。それにしても、今時まだ市場に行ってる高校生なんて、世界でお前くらいだろうよ」
ケラケラと笑うシモンに、ナツも笑いかえす。
「どうかな、僕ら、世界を見たことなんてないじゃないか」
「……そうだな」
シモンは急に真顔に戻る。そして何か言いたそうに口を動かしたが、結局何も言わずにまた微笑を浮かべた。
「デパートで何を買うんだ?」
「うーん。和食かシチューか迷ってるんだよね」
「俺はシチューの方が好きだな」
「あはは、別にシモンに食べさせるわけじゃないけどね」
歩きながら、眼帯に隠れていない片目がナツを見る。
真っ青な空に、一人浮かんでいるようだった。
「夕食は、ナツが作るのか?」
「まあ、そうだね。うちは両親どっちも帰ってくるの夜遅いし、姉はあてにならないから」
「へぇ。お前の姉貴って、このご時世に、科学主義を白昼堂々語る問題児だろう?」
「弟としては勘弁してほしい限りだよ」
やれやれと肩をすくめる僕に、シモンは目を細めた。
「良いじゃん、ああいうの。俺はむしろ清々しくて好きだけど」
「そう?」
「ああ。他力本願な信仰よりは、余程マシだろう」
そう言うシモンの瞳は、どこか冷めた色をしていた。
二人でデパートに入り、野菜コーナーに向かう。
中は人が多く、それぞれが思い思いの食材を買い求めていた。デパートでも''百周年''の文字がやたらと強調されているが、百周年セールなのはラッキーだった。
少し肌寒い野菜コーナーでは、衛生管理の行き届いたガラスの中で、青々とした野菜が鎮座している。
「シモンは料理とかするの?」
「何だ、急に」
「いや、ちょっと気になって」
シモンのエプロン姿など、なかなか想像できない。
「そんなしないな。飯は協会の食堂で食べるから、作る必要がない」
「いいなあ」
「そんなにいいもんじゃないぞ。シチューを作ってくれるわけでもないからな。お、白菜?」
「うん。白菜と人参とジャガイモを買う」
「いいね」
何が良かったのか、シモンは満足げな顔をした。
ナツは結局シチューの材料を買って、ついでに冷蔵庫に無かった卵と野菜ジュースを買った。セールの割引で余ったお金は、使わずに財布にしまっておく。
その後はシモンと世間話をしながらデパートを歩き回り、外に出る頃には既に午後五時を回っていた。
大きなビニール袋を片手に、ナツは帰路につこうと改めてシモンの方を振り返る。
「ご飯の準備もあるし、僕はもう帰るけど、シモンは何かある?」
「……そうだな。ちょっと話がある」
「話?」
「こっちに来い」
人気のない路地裏に行き、シモンはマンションの壁にもたれかかった。ナツも隣に立つ。
もう辺りは夕暮れで、何もかもが太陽に赤く染まっていた。
「どうしたの?」
「膜の外に出る方法がある、と、いつかお前に言ったのを覚えているな?」
突然切り出したシモンに、ナツは目をパチクリさせた。
もちろん、覚えているには覚えている。
中学校の頃から、シモンは時々外の世界についての話をしたし、出る方法もあるにはあると言っていた。
ナツは紫がかった空を見ながら頷く。
「うん。でも、実行するのはほぼ不可能なんでしょう?」
「ああ、そうだ。でも、今夜だけは別だ」
「今夜?」
「アモル協会の幹部共は、街はずれでヘブンセントバリア創立の三月九日の儀式を夜までやっている。おまけに都市は百周年の大賑わい、治安維持や見回りで協会の各支部内は今殆どすっからかんなんだよ」
「つまり?」
「つまり、''膜外に繋がる通路''にたどり着く確率も、常時よりは何倍も上がるということだ」
「でも、そもそもそんな通路本当に存在するの?一般的によくある、ただの伝説だよ」
膜に覆われたこの街から、出る方法があるというのは、昔からよく物語になったり噂になったりした。それは現実的であったり空想的であったり、はたまた宗教的であったりしたが、その噂のどれもが事実だと証明されたことはなかった。
「分からない。ただ、協会本部の地下にあるという説が有力で、俺は直感でそこに賭けているだけだ」
「じゃあ、君は今夜、膜外に出る作戦を、実行するってこと?」
「そういうこと」
あっさりと肯定するシモンに、ナツは少し面食らった。
「失敗したらどうするの?」
「どうするも何も。協会の教えに背くことになるんだ。バレれば、協会の本部で裁判にかけられて牢屋に入れられるか殺されるかだろうよ」
「嘘でしょう?」
「嘘じゃないさ。現に協会に殺された奴も、いない訳じゃない」
そんな話、ナツは聞いたことが無いが、内部の人間であるシモンがそう言うなら恐らくそうなのだろう。
「どうして、膜の外に出るのに、そこまでする?」
「どうしてって。お前なら分かるだろ?外に出たいって言ってたじゃないか。俺も、こんな狭い街の中で一生を終えるつもりはない」
「だからって、今、命までかける必要があるのか?君は決断をはやまっているのかもしれない」
「ナツ、俺たちには時間が無い。大学に行って大人になれば、俺たちを縛るものももっと増える。あっという間に、人は動けなくなるんだぞ」
「だけど……」
「それに、俺は世界を見なければいけない。''本当の''世界を。あの人たちが信じていることが、果たして真実なのか、贋物なのか、命を懸けてでも知りたいんだよ」
そう言うシモンの目は真剣そのもので、真っ直ぐで、もう何を言っても止められないとナツは悟った。
ビルの隙間から溢れた黄金色の光が、目に眩しい。
「……僕は行けない」
目を逸らし、ナツは小さな声で言った。
「何故?いつか一緒にここを出ようって、約束してただろ」
「だって、家族がいる」
「……ああ。そうだな、お前には家族がいたな」
憂いの混じった表情で、シモンは微笑んだ。
そしてナツの髪に手を伸ばす。
「お前は幸せだよ、ナツ。今夜、俺は死に向かい、お前は家でシチューを食べるんだ」
「ふざけるなよ。僕はそんなつもりで言ったんじゃない」
「わかってるよ。俺もふざけて言ったつもりはない」
太陽は沈み、街が薄暗くなると同時に、通り中に飾られたイルミネーションが輝き出す。シモンは腕時計に目をやった。
「お別れの時間だ、ナツ」
「シモン。僕は、何て言ったらいいか分からない」
「何も言わなくていいさ」
不安げな表情のナツに、シモンはカラコロと笑った。
「大丈夫。今夜、俺は死に向かうが、決して生も手放さない。俺は生きても死んでも、ここを出て外の世界に行く。そしてまた、ここに戻ってくる」
「シモンは生きてるね」
ナツは拳をギュッと握りしめた。
「お前も生きてる」
シモンの声は穏やかで優しかった。
「そうだといいな」
「元気でな」
「君もね」
背を向けて賑やかな通りへ歩いて行くシモンに、ナツは声をかけることも出来ず、ただ見えなくなるまで、その後姿をじっと見つめ続けた。