3-02 Air
彼女が目を覚ました時、視界はぼんやりと緑に染まっていた。
「ここは……?」
よく見ると、視界の緑は、液体だった。
「目を覚ましたようだね、イシュクリミア」
その声を聴いて、彼女はそちらのほうを向いた。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
白衣を着たその男は笑みを浮かべてイシュクリミアを見つめていた。
「あなたは……誰?」
「私は君の生みの親だよ。とはいえ、君は人間とは違う別の存在であるがね」
「ええと……つまり、どういうこと?」
「ここで長々と話す必要もないだろう。まずは君をそこから出してあげよう。そして検査をしなければならない。話はそれからだ」
そういって。
白衣を着た男は手元に持っているボタンを押した。
それと同時に緑色の液体は抜き取られていく。息はポンプを通してできていたが、水が減っていくにつれて直接空気を吸うことが出来る。
液体がなくなると、後ろでガタン、という音が聞こえた。彼女が振り返ると、そこには穴が開いていた。少なくとも先ほどまでは開いておらず、液体が無くなっていくタイミングで自動的に開かれるものだった。
「さあ、出ておいで。イシュクリミア」
「イシュ……クリミア?」
「君の名前だよ、イシュクリミア」
科学者は笑みを浮かべる。イシュクリミアがイシュクリミアの名前を忘れているということ、それは即ち、記憶の消去に成功していることを意味していた。彼らにとって最高の結末と言えるだろう。そうして後は戦乙女としてのプログラムをインストールしなおせば良いのだから。
そう思いながら、科学者はイシュクリミアに語り掛ける。
あくまでもその口調は優しく。
その口調として――相手に敵であると悟られないように。
「……私の名前。イシュクリミア」
こくり、と。
科学者は静かに頷いた。
「そうだ。君の名前はイシュクリミア。空のバケモノを倒すべく、我々と契約している」
「契約。空のバケモノ」
「そうだ。空のバケモノは」
科学者は頭上を指さし、
「遥か彼方、空の向こうに居る」
笑みを浮かべてこう言った。
対してイシュクリミアはその言葉を聞いてもなおも言葉の意味が理解できなかったようで、ただ微笑んでいるだけだった。
科学者はそれを見て罪悪感がわっと浮かび上がる。
彼女は今までの記憶を覚えていない。それは即ち、これから彼女が戦場に駆り出される存在であるということしか脳内に入っていないことになるし、それ以外の記憶は一切覚えていないということになる。
はっきり言って、残酷である。
残酷ではあるかもしれないが、これが科学者の仕事だった。
否定できないことかもしれないが、その可能性たるものは災難たるものであるといえるだろう。結局、科学者は科学者の仕事をしなければならないし、戦乙女は空のバケモノを倒すために空を飛ばねばならない。そういう風に人間と契約を交わしたのだから。恨むのならば、祖先を恨むしかない。現実を恨んだところで、何も変わらない。
それぞれの役職に課せられた仕事をこなすだけでいい。
裏を返せばそれぞれの役職に課せられた仕事すらこなせなければ、あっという間に世界の最底辺。そこから這い上がるには、並大抵の努力では戻ることは出来ないだろう。
だからこそ人々はそれぞれの役職に課せられた仕事をこなさなければならないし、それに不満を抱くこともない。正確に言えば、不満を表に出せばそれだけで『制裁』の対象となる。
制裁を受けたくないから、人々は仕方なくその役職に課せられた仕事をこなさなければならない。
「……、」
科学者はイシュクリミアを見て無言のまま頷くと、そのまま外に出て行った。
もう彼女を見つめたくない、と思っていたかどうかは定かではなかったが。
◇◇◇
三日も経過すると彼女の知能は回復し、戦闘以外のことは忘れたものと認定された。
そのためにもプログラムを書き直し、再び戦闘プログラムを組み込んだ。
そうして彼女は再び戦乙女として、戦場へと足を運ぶため、リブートへの準備が進められていた。
……はずだった。
◇◇◇
仮眠をとっていた科学者がサイレンの音で目を覚ましたのは明け方のことだった。
「いったい何が起きたというのだ!」
「ご報告いたします!」
科学者が部屋を出ようとしたタイミングで、ノックもせずに助手が部屋へ飛び込んできた。
本来ならばノックをしない助手を責めるところであったかもしれないが、今の彼にはそれよりも騒がしい現状がどういう理由であるか――それを解決したかった。
「実験体『Air』が、脱走しました」
震えた身体で、彼はそう言い放った。
実験体、Air。
それはイシュクリミア、その本人だった。




