桜
「少しの間、ここに来ることが出来なくなる」
ある日、誠一郎は別れを告げた。
「…何?」
私が聞くと、誠一郎は俯いた。
「明日、医者に診てもらうが、自分のことは自分が一番知っている。僕は…」
それを、私は何故か”知っていた”。
誠一郎は顔をあげた。
その顔は笑っている。
「大丈夫だ。心配するな」
私は、知った。
誠一郎も、嘘が下手だということを。
「何が…大丈夫なんだ…?」
でも、私は誠一郎ほど優しくないから、あの日のように目をつむってやれない。
眠ったふりなど、してやるものか。
私は声が震えないように、大きく息を吸って叫んだ。
「本当に大丈夫なら、誠一郎は何故泣いているんだ!」
誠一郎は悲しそうに顔を歪めて笑うと、静かな声色で言った。
「…僕は泣いていない。本当に、少しの間なんだ」
嘘だ。
知っているんだ、私は。
誠一郎が泣いていることも、…彼の死期が近いことも、彼がそれに気付いていることも。
自分のこと以外なら全て、嫌になるくらい”知っている”んだ。
「…またな」
そんな悲しそうな顔で、分かりやすい嘘を吐くな。
曖昧な嘘を吐くぐらいなら、完璧に騙しきれ。
「…かないで…っ」
涙が溢れると共に、声が揺れる。
私は誠一郎の背を追って、叫んだ。
「いくなあああああっ!」
誠一郎が振り返る。
その顔は泣いていて、少しホッとした。
苦痛に歪んだ泣き顔で、私を抱き寄せる誠一郎。
「僕だっていきたくない!」
強く強く、抱きすくめられる。
「でも君はこれからも何千年と生きるんだっ!たった数ヶ月、隣に居た男のことなんて…っ君はすぐに忘れられるはずだろう…」
私は大きく左右に首を振る。
「誠一郎のことを、忘れられるわけがない…っ!」
私の答えに、誠一郎はさらに強く私を抱きしめる。
苦しいくらいに。痛いくらいに。
…お願い、どうか、このまま離さないで…。
不意に、”誠一郎との時間がずっと続いてほしい”と願ったことを思い出した。
あの感情の名は、もう知っている。
あれは、この温かい感情は、”愛情”だ。
何かを愛しいと想う、大切にしたいと願う、感情だ。
誠一郎は、静かに私を離した。
「それでも、忘れるんだ」
彼は、もう振り返らない。
強がった背中を見て、私はそう悟った。
その姿が完全に見えなくなってから、私はその場に崩れ落ちた。
「いやああぁあぁあああぁぁああっ!」
不安定に揺れる、擦り切れたような甲高い声。
やはり、”化け物”は私だったようだ。
でも…たとえ、私が”化け物”だろうと、何だろうと。
私には誠一郎しかいない。
それを、私は知っている。
誠一郎が去ってから、私は抜け殻になった。
声を上げて泣くわけでも、怒りに震えるわけでもなく、ただ勝手に過ぎ去る日々。
そして、ついに今日。”きた”と感じた。
今日、離れたところにいる誠一郎が、息絶える。
私は、それを知った。
それを知って、私はどうすればいいのか。それは知らない。
しかし、私は立ち上がって、太い幹に手を触れた。
死の訪れを覆すことは出来ない。
でも、悪あがきくらいしても良いはずだ。
―――――桜よ、咲け―――――
まだ桜が咲くには早い時期に、私の触れているその一本だけ、薄桃色の桜が咲く。
私は、さらに祈る。
―――――命を枯らすほどに、咲き誇れ―――――
誠一郎のくれた、この浴衣のような薄桃色が、美しく咲き乱れる。
私は、さらに祈る。
―――――桜よ、私の想いを乗せて、彼の元へ飛んでゆけ―――――
私は祈る。ただ、祈る。命を削るほどに、祈る。
誠一郎の元へ、この美しい桜の花びらが届きますように。
薄桃色のそれを見て、私と過ごした日々を思い出してくれますように。
「…やはり身勝手な願いばかりだな」
そんな身勝手な願いを乗せて、花びらは一斉に飛び立つ。
その鮮やかな光景を見届け、私は地面に倒れた。
この力は、他人のために使わなくてはいけない力だった。
私利私欲のために、使っていけない。
それを、私は何となく知っていた。
だから、使わないようにしていたのに。
私は、優しい誠一郎のせいで、わがままになってしまったようだ。
暗くなってゆく視界に、私は先が永くないことを知った。
―――――ずっと、君に、伝えたいことがあったんだ。
もう、伝えることは出来ないけれど、私は遠く離れた誠一郎を想う。
大好きな、大好きな大好きな大好きな大好きな誠一郎へ。
私の手があるのは、君と手を繋ぐためだった。
私の足があるのは、君の隣を歩くためだった。
私の声があるのは、君と話をするためだった。
私の耳があるのは、君の声を聴くためだった。
私の目があるのは、君の笑顔を見るためだった。
私に”愛情”というものを教えてくれたのは、君だった。
私に”本当の笑顔”を教えてくれたのは、君だった。
そして、私は”化け物じゃない”と教えてくれたのも、君だった。
色んなものをくれた君に、私は何も返すことが出来なかった。
でも、私はひとつだけ、何よりも大きなものを持っている。
それは”君への愛”だ。
膨大な量の無意味な知識なんかより、優しく温かい”感情”が、君に送れる唯一のものだ。
でも…もう逢えないから、渡すことすら出来ないな。
ふと思い出した。
桜の花言葉は、”私を忘れないで”。
身勝手な私にお似合いな、とても押しつけがましい最期の願いだった―――――。




