二人
「まだ眠っていたのか」
呆れたような声に、私は顔を上げた。
狭い視界から、光が差し込む。
「もう三日ほど、同じ体勢で眠っていたぞ。死んだのかと思っていた」
彼の言葉に、私は驚いた。
人間は半日も眠らないはずだ。私はいつも、そんなに眠っていたのか…。
もしかして、あの時も、そうだったんじゃないか。
女の子は、私が起きないことを死んだと判断し、村に出た?
あの時、胸に抱いていた白い着物は…私の死装束か?
…何だ、そんなことか。
そんなことも、私は知らなかったのか。
「ははっ」
気付けば、嘲笑が漏れていた。
「何千年と変わらず、私は自分のことを知らないな」
そして、”友達”の行動の意味も。
今更知ったって、もうどうしようもないのに。
顔を上げると、彼は驚いた顔をしていた。
「お前…言葉を話せたのか…」
「話せないと誰が言った?」
彼は、私の隣に座った。
しかし、本は開かない。
「話しかけても、言葉を返さなかっただろう」
「返したくなかったから返さなかっただけだ」
「何故、今は話している?」
「そろそろ声を出さないと二度と声が出なくなるようにでも思ったんじゃないか、多分」
「…なるほど」
適当に理由を言えば、彼は神妙な顔で頷いてフッと笑った。
彼の笑った顔を近くで見たのは、初めてだった。
「まさか、意思の疎通ができるとは思わなかったな。僕は誠一郎というんだ。君は?」
聞かれて、答えに詰まる。
「…私は、自分のことに関しては、ほとんど知らない」
私の言葉に、誠一郎は少し眉を寄せた。
「自分以外については何でも知っている、と?」
「そうだ。君の着ているそれは”着物”だということも、この木が”桜”だということも知っているよ」
「そんなこと、知っていて当然だ」
誠一郎はそう言うが、誰にも教えられることなくそれらを知っているのは、本当に”当然”だろうか。
「じゃあ、僕の問いにも答えられるのか」
「僕の問い?」
「人は、何のために生きているのか」
いつか聞いた問いだ。
私は頷く。
「私は知っている」
「本当か!答えは何…」
「でも、教えない」
私の発言を非難するように、誠一郎は私を見る。
「それは、”答えることが出来ない”という風に受け取れるが」
「違う」
「それなら、どうして」
私は、はっきりと答えた。
「その答えは自分で見つけなければ、面白くないからだ。他者の答えに当てはめられた、つまらない人生を送りたいのか?」
その答えに誠一郎は目を丸くしてから、声を上げて笑った。
「それは御免だ。なるほど、良い言い訳を思い付いたな」
本当のところ、この問いに、答えは存在しなかった。
人によって異なるからだろう。
だが、”答えはない”という答えを知っているので、嘘は言っていない。
誠一郎は、少し悔しそうに付け足した。
「そして、その狐面の下では、したり顔で笑っているんだろう?」
「何故わかった」
面を押さえると、誠一郎はまた笑った。
「そういえば、何故、狐面を付けているんだ?」
誠一郎の疑問の答えを、私は知っている。
だから、答えた。
「私が、化け物だからだ」
誠一郎は、今度は笑わずに首を傾げた。
「何故、化け物なんだ?」
「誠一郎には、私の髪の色が見えないのか?」
私の質問に、誠一郎は私の髪を一房すくった。
「白い」
じっくりと確認したその答えに頷く。
「そう。そして、面に隠れて見えないだろうけど、私の瞳は赤いんだ」
「…だから?」
「人間には、理解できないだろう?」
「そうだな。少なくとも、僕には理解できない」
誠一郎の同意を受けて、私は続けた。
「人間は、自分たちの理解できない生き物のことを”化け物”と呼ぶ。だから、私は化け物だ」
誠一郎は、まだ首を縦には振らない。
「私自身にも私のことは分からないんだ。化け物と呼ばれる条件は満たしている」
「…確かに、君の外見は珍しい」
私を真っ直ぐ見たまま、誠一郎は言った。
「でも、だから何だと言うんだ?」
私が何かを言う前に、誠一郎は続けた。
「知っているか、化け物というのは、蔑みの意が込められた言葉だ」
「知っている」
「そして、君にそれは当てはまらない」
「それは知らなかった。何でそう思う?」
私の問いに、彼は答えた。
「僕が、君を理解したからだ」
「…は?」
私にも理解できない私を、どうやって理解したというんだ。
どうやって、何を、知ったと。
「君は、面白い」
「……」
自信満々な答えに、私は言葉を失った。
「まず、この桜の木の上にいたことが面白い。そして、無言だったのに急に口が達者になったのも面白い」
私の沈黙をどう取ったのか、誠一郎は続ける。
「君が面白いと、僕は知っている。だから、僕にとって君は”化け物”じゃない。何か間違っているか?」
私は、笑った。
「ははっ。誠一郎のほうが面白いと思うが、それも間違っていない考え方かもしれないな」
「あ、今、もうひとつ知った」
「何を?」
私が聞くと、誠一郎は迷いなく答えた。
「君は、嘘が下手だ」
「はは、何を…」
大きく温かい誠一郎の手が、私の手を握った。
「僕は少し眠る」
誠一郎は唐突に、太い幹に体を預けた。
「それと、僕は眠りが深い」
それだけ言うと、誠一郎は目を閉じた。
…その言葉が嘘だと、私は知っていた。
誠一郎が元から眠ってなんていないことも、私は知っていた。
でも、こんなに不器用で優しい嘘を、私は知らない。
目頭が熱くなるこの感覚を、私は知らない。
面を少し傾けて、頬を拭う。
それは、白でも赤でもない、透明な涙だった。
”僕にとって君は”化け物”じゃない”
その言葉には、想像以上に衝撃を与えられたようだ。
今、流している涙は、きっと悲しみや苦しみの涙ではない。
この熱い涙は、幸せや喜びの欠片なのだと思う。
隣で下手な寝たふりをする誠一郎の手を握り返して、私はただ静かに涙を流した。
この日、”一人と一人”は”二人”になった。