妖狐の愛
目に映るもの全て、美味しそうか不味そうかの二択で区別していた。美味しそうであれば喰い、不味そうであれば殺した。その区別は己の嗅覚と種による勘で行っていたが、外れたことはなかった。故に、新たな選択肢を創ろうとは思わなかった。
だが、これは。
今迄は一刻もあれば区別していた。その筈だった。しかし、一夜経った今でも“ソレ”は我の後を付いて来ている。
“ソレ”は、人の子どもだった。
“ソレ”は、人に在らざる色を身に宿した子どもだった。
何かーーその、人在らざる色ーーに魅入るというのは。
生まれて幾星霜、初めての体験だった。
どさっ
「……」
一昼夜経っても我は区別出来ていなかった。“ソレ”が此処に棄てられた原因であろう色は美味しそうだと思ったが、骨と皮ばかりの身体は不味そうだとも思った。
「……」
“ソレ”は人だ。人が月明りもない夜闇の中、森を歩くのは困難だろう。今も出張った根に足を取られ、膝から瞳の色に似た雫を流していた。にも関わらず、何故“ソレ”は歩みを止めないのか。
「……」
此れでは今夜も寝所で眠ることは出来ないだろう。仕様がないので又、適当な木の根元に寝転び夜を明かすことにした。
目を閉じ気配だけで“ソレ”の様子を窺えば、ほっと息を吐いて十尺程離れた所に腰を下ろしていた。
どさっ
「……」
二回目の月を見送った後、我は“選択しない”選択をしたのだと認めた。そして、それは不味そうだと思った身体を美味しそうにするための選択なのだと考えたのだ。
「……」
目の前には人の子どもが両手でも抱えきれない程の果物が転がっている。“ソレ”は呆然と瞳を見開いていた。その瞳の色をした果物を一つ、口に入れた。嗚呼、美味しいなあ。
「……」
“ソレ”は我が呑み込むのを見た後、喰う以外のこと全てを忘れたかのように食べた。無我夢中で食べた。脇目もふらず食べた。そうして、満足したのか、静かに眠りに落ちた。濡れていた顔を舐めれば、薄い血の味がした。
閉じられた色を想い、ごくりと唾を呑み込んだ。喰べ頃は何時になるのか。退屈な時間から暫しのお別れだ。
どさっ
「……」
あれから何百という夜を過ごし、“ソレ”は喰べ頃へと近付いていた。その間は我にとっては瞬きする様な時の流れでも“ソレ”にとっては長い時が流れていた様だった。
「今日は鹿を狩れたんだ。リゥリン様も食べる?」
“ソレ”は既に我が餌を与えずとも自力で餌を確保する様になっていた。いくら血を流しても、それでも“ソレ”は生にしがみつくかの様に日々を必死に生きていた。
「……」
“ソレ”は我が反応しなくても笑っていた。呆れたことだ。我が己を殺せるものだと知りながら交流をとろうなど。だが、これはこれで嫌な感じがしないのだから困る。
“ソレ”が喰べ頃となるのは次の満月の夜。それまでは精々甘受してやろう。
どさっ
「……」
我は。我は。我は。我は。我は。我は。我は。我は。我は。我は。我は。我は。我は。我は。我は。我は。我は。わたし、は、
「はっ、ぅ、リゥ、リンさ、ま」
以前に鹿を狩った時の傷なのだろう。血の匂いがしていた。そして、それは三回月を見送っても纏わり付いていた。脆弱な人の子の身体では恢復できなかったのだろう。
「……」
漂う芳醇な血の匂いに釣れられたのか。辺りには獣の気配がしていた。我が喰べた後のお零れを狙っている小物等。
しかし、ざり、と土を踏みしめる足音が聞こえた。距離を詰めるような。飛び出すタイミングを計っているかのような。ーーーまさか、小物如きが我の獲物を横取りしよう、と?
ちりん
「……」
辺りは血の海だった。濃密な獣の血の匂いが充満し、けれどそれに釣れられ寄ってくるものはもういない。この森には、我だけ。他は肉を好まない更に小さな獣のみ。もう、何も我の邪魔は出来ない。
「……リ、リンさ、……」
“ソレ”は、もう死に体だった。溢れていた生気も、その生にしがみついていた熱も、鈴の音の様な声も、花の様なあの笑顔も、我に向けられていたそれらはもうすぐ失くなる。
「 … … … 」
たべて、と“ソレ”は云った。声無き声で“ソレ”は云った。我が初めて魅入ったその瞳の色を、人に在らざる色を輝かせて云った。月明かりを反射させきらきらとしたその瞳はとても瑞々しく、我の好物の様だった。
木々の屋根が消失した今、月明かりを遮るものは何も無かった。我は通力で“ソレ”の身体を浮かし、眼前に立たせた。美しい、と思ったのは初めてだった。
鈴が鳴る。鈴が鳴る。鈴が鳴る。鈴が鳴る。鈴が鳴る。鈴が鳴る。鈴が鳴る。鈴が鳴る。鈴が鳴る。
九本ある尾の内の一つが、鈴の音を鳴らしながら“ソレ”の心の臓を貫いた。
ちりりん
「……ツォメイ?」
我の尾は九つ。しかし尾に付いている鈴は八つ。もう一つの鈴は我の好物に与えた。そして、それは唯の鈴では無くなった。命となったのだ、好物の。
「ツォメイ?」
好物にあげた鈴は我のと違う音色を奏でる。それが楽しくて愉しくて仕様がない。それが嬉しくて、そのような感情は初めてで、何とも面映ゆい。
「〜〜っ、ツォメイは止めてくださいと言ったでしょう! 紅月です、リゥリン様!」
「なにゆえ? ツォメイの何処が気に入らぬのだ」
「何処が、気に入らないですって!? 気に入らないに決まってる! 俺は男だ! 何が嬉しくて苺と同じ名前を受け入れられると言うのか!」
「無論、我の好物が苺だからだ。嬉しかろう? 嗚呼、その瞳は本に苺の様だなあ」
紅くて、瑞々しくて、苺の様な瞳。きっと人には血の様に視えたのだろう。だが、これの何処が血の様だと云うのか。只の液体にこれ程の煌めきはないと云うのに。人の目は節穴に違いない。
「なあ、ツォメイ。もう一度、我の名を呼んでおくれ」
「なっ、そっ、その様な声は卑怯です! 俺は怒ってるんですよ! ……リゥリン、様」
「もう一度」
「リゥリン様」
「もう一度」
「九鈴様! もうっ、何なんですか一体!」
頬を膨らませる我の好物は知らないに違いない。その名を呼ばれる度に我の心に変化を齎らしていることに。
目に映るもの全て、美味しそうか不味そうかの二択で区別していた。
だが、いまは。
更に二択、嬉しいか嬉しくないかが加わっている。
その心の主語に好物が、と付くことは何にも明かさぬ我だけの秘密だ。
愛の芽は、未だ芽吹いたばかり。
次話は9日22時に投稿予定です。
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