デンジャーマークと少女
健一が自己の意識を取り戻したのは、丁度生肉に食らいついて引き千切り、肉を咀嚼している途中だった。
「ぐおっ! ペッペッ!!」
口の中に広がる生臭い血の匂いと生肉の味に思わず悲鳴をあげて咀嚼していた肉を吐き出す。
だがどれだけ唾を吐いた所で口の中の血生臭さは取れないし、口の周囲はオオカミの血でベトベトだ。
「はぁっ、はぁっ。ちくしょう、何で俺はこんなもん食ってたんだ……」
自我の希薄な間に生肉を食らっていた事実に唖然としつつ、健一は周囲を見渡す。
そこには既に喰らいつくされたオオカミの死体が二つ、転がっていた。
二体分も既に喰らい尽くしていた事に驚きを覚え、しかも自分の身体には特に何の問題も発生していなさそうな事にも驚く。
むしろ以前よりも快調な気さえしている。
こんな野生の生肉など食べたら数分で腹を下してもおかしくないのに、それどころか快調だ。
一体どういう事なんだ、と考え、ハッとして自身の持つ端末をポケットから取り出す。
端末を起動させ、その中にあるアプリケーション「ステータス」を立ち上げた。
「……レベルが、増えてる」
それもほんの少しの増加という訳では無い。
健一のレベルの初期値は歳と同じで18だったのが、現在確認したら143と大幅に上昇していたのだ。
「こいつらが、それだけヤバイ奴らだったって事か?」
周囲に散らばる死体を眺めながら、小さく呟く。
このオオカミ達は樹海の広域に生息している、樹海では下から数えた方が早いレベルの所有者である。
単体ではこの森では生きて行けず、オオカミの特性も相まって三匹以上の群れで常に行動する。そうしなければ他のモンスター達の格好の餌食となってしまうからだ。
だがこの厳しい樹海の環境で生存してきただけあり、そのレベルは外部に生息する同等のオオカミと比べても頭抜けている。
そのレベルを倒すことで獲得した健一の身体が、急激なレベルの増加に対応する為に変質を始めた事で強い痛みを覚え、変質させる為のエネルギーを得るために自我を失う程の飢餓感を覚えさせていたのを健一は知らない。
「まぁ、とにかく今は……身体をどうにかしないと、な」
そういう健一の腕や口周りは血だらけであり、格好を気にせず齧り付いていたものだから脛や膝は土まみれである。
これでは正直、自分と同じような境遇の誰かに出会った時に逃げられかねない。
出来れば川か湖にでも行って、服を洗いたいものだと健一は考え、行動を開始した。
この世界への対応を行ったという「地図」アプリケーションを立ち上げ、まずは自分の現在地を確認する。
今居るのはほぼ樹海のど真ん中であり、北の方向に山、東には山から続く崖が広がっているようだ。
その山伝いに川があるのを確認すると、健一は一路東へと進路を取り、川へと向かった。
もちろん、オオカミを撃退した黄金色の槍を携えて。
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途中何度か危険な気配を遠目で確認した健一は、細々と迂回しつつ、やっと川へと辿り着いた。
川と言うより森の木々の合間に存在する沢が近いが、間違いなく水が流れているのを確認してホッと息を吐く。
周囲に危険な気配も感じられず、水は澄み切っている。これならば水浴びぐらいしても問題はあるまい。
健一はそう思うと服を脱いで全裸となり沢の水を全身に浴びた。
沢の水はそこまで冷たい訳ではなく、どちらかと言うと温めの水だが、今の健一には程々に調度良い。
思う存分水を頭から被り、口や手に付着した血の塊を落として、沢の水で口を濯ぐ。
少なくともこれで見た目の部分は何とかなりそうだなと思いつつ、脱ぎ捨てた服も一緒に洗う。
とは言えYシャツは水に濡らしてゴシゴシ擦るだけだし、スラックスも同様に土を払ってから土で汚れた部分をもみ洗いするだけだ。
洗剤なども存在しない現状ではこすり洗い程度の事しか出来ないが、それでもしないよりはマシだろうという判断である。
そうして洗った衣服を適当の木にかけて干す。
現在の湿っぽくも無く、少し温かい程度の樹海の気温であれば、すぐにでも乾きそうだと思いつつ、健一は槍を片手にふぅ、と沢の脇に腰掛けた。
本当なら川で魚などの食料を確保したい所だが、残念ながら魚の生息しない沢であった。
だが水が確保できるのは有難いというのが正直な所だ。
これで少なくとも何も食わずとも一週間程は生きていける。
そう思うと今はまだ、これで十分だな、と健一は沢を見つめながら思った。
そうして数時間、健一は周囲を警戒しながら干してある洗濯物を確認しつつ、周辺の探索を行う。
木々は何も実をつけては居ないが、根本にはいくつかのキノコを発見した。
だがそのいずれも、煌々と輝く黄色いエクスクラメーションが張り付いている。
恐らくはこれは毒キノコなんだろうなと理解しながら、自分の能力の便利さに感謝さえした。
なるほど、危険を知らせるデンジャーマークと言った所で、健一にとって危険性の高いものをこうして教えてくれる能力はこの危険しかない場所では身を守るのには便利だ。
だが危険が分かるというのもそれはそれで問題があるな、と考える。
危険があると分かっていて、その先の道へと進めるか。進まなければ何かを得られない状態なのに、危険があるからと進まない選択を、健一は今までしてきたのだ。
危険に自ら飛び込むような勇気など、健一は持ちあわせては居ない。先のオオカミの件だって、逃げ切れないから倒しただけである。
逃げ切れるような状況だったら、迷わず逃げている。
そんな逃げ腰の自分を自覚しつつ、それでも健一はそれで良いと思っている。臆病なぐらいがこの島では丁度良いのだ、お陰で現在まで生きていられている。
だから、今のまま臆病でもみっともなくてもいいから、生き延びて、何とかこの島から脱出しよう。
健一はそれを新たに誓うと、洗濯物に手を伸ばした。
洗濯物が既に乾いているのを確認すると、袖を通して改めて着る。
洗剤も使わずただの擦り洗いだけなので未だ汚れははっきりと残ってはいるが、それでも何も着ていないよりはマシだろう。
健一はそう思う事にして、夕食を探す事にした。
時刻は既に夕暮れ時。樹海での2日目の夜が、また訪れようとしていた。
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日が完全に落ちる前に木の実の成る木を確保し、そこを食事場件寝床にしようとしていた時、騒がしい声が聞こえてきた。
『やぁやぁ「地獄に一番近い島」の皆さん、お元気ですか? 本日も数が減っているようですが』
上空に浮かぶ兎の男を確認し、健一はため息をつきながら果実を食べる。
相変わらず渋みが強いが、食えるだけマシというものだろう。
そう思いながら健一は浮かぶ兎の男を見つめていた。
『おっと、ここで一つ情報をお伝えしましょう。いよいよ二日目にして、この島で5番目の犠牲者が出そうです』
恭しく頭を垂れながらそう告げる兎の男の言葉に、また悪趣味な話だと呆れる。
分かっているのなら救いの手でも差し伸べてやればいいのに、それをしないこの兎の男は間違いなく自分達を弄んで楽しんでいる糞野郎だ。
『さて、それでは状況を見てみましょうか。ぽちっとな』
ボタンなど無いのに空間を指で押す仕草をする。
すると、今まで写っていた兎の男の姿が掻き消え、樹海の風景が映し出された。
そしてその映像は、その身の丈には不釣り合いな武骨なリュックサックを背負い走る一人の少女と、それを追うオオカミの群れの姿。
『はぁっ、はぁっ、だ、誰か! なんで私が、こんな目にっ!』
必死に逃げる少女は涙を浮かべながら叫んでいる。
その叫びに思わず持っていた果実を握りしめている自分を感じて、一旦肩の力を抜く。
その少女の叫びは、健一の感情と同じだった。
何故、こんな目に。
この島に降り立った人間は全てそう思っている事だろう。
そして同士の姿をこのように見せつけられて、健一の胸中は怒りで一杯になっている。
それからも少女は叫び続け、助けを求めている。
段々とオオカミに追い詰められていく少女の姿に最後が近い事を確信していると、ツイッと少女の映像が兎の男へと切り替わった。
『さぁ、少女が今まさに、グレイウルフの群れに追い詰められようとしています。この窮地に対し、私は一つ提案をしましょう。地獄に一番近い島の諸君の中で、ヒーローになれるチャンスを与えましょう』
兎の男がそう言うと同時に、ポケットの中にあるデバイスが震えて何かの情報の着信を知らせる。
健一がデバイスを確認すると、地図アプリケーションが立ち上がり、樹海の中にピンが立った。
「……くそったれ、そういう事かよ」
要するに、助けるのなら、助けろという事だ。
このピンの位置が先ほどの少女の位置で、地図アプリケーションは自分の現在地からの距離を正確に算出している。
健一からの位置はそれ程離れていない事も、一つ問題である。
助けに行こうと思えば行けない距離ではない。だが、助けに行くメリットは? 俺が助ける意味はあるのか?
こうして地図で表示されているのなら誰かが助けてくれるかもしれないと思いつつ、でも誰も助けてくれなかったらあの少女は間違いなく死ぬ。
だが助けに行くなら、間違いなく危険へと飛び込む事になる。
「くそっ、ふざけんな! 他人の生き死にを人に見せつけるんじゃねぇ!」
兎の男の所業に腹を立たせたがそれで何か解決する訳でも無い。
感情的には助けたい。この地に降りて初めて見た生きている他人、そこに特別な感情が無い訳ではない。
だが助けに行ってどうする? その後も行動を共にするのか?
そう考えると踏ん切りがつかない。
この状況で複数人で行動するには当然メリットもあるし、デメリットもある。
一人ならば対処可能な問題でも、二人、先ほどの少女のような『足手まとい』が居る場合、戦闘などが発生した時、問題になる可能性が高い。
そこを含めて、自分はあの少女を助けたいのか。
自問自答を繰り返しながら、健一の身体は既に動き始めていた。
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