月夜語り
――以上、全国の天気をお伝えしました。さて、今日は九月三十日、中秋の名月です。テレビの前の皆さんも、今夜はお団子を食べながらお月見なんていかがでしょうか。この後は七時から全国のニュースをお届けします――
テレビのスイッチを切ると、家の中が急に静けさに覆われたように感じる。田舎町の夜は早い。まだ七時だというのに、町はもう眠る準備に入ったかのようだ。
俺が子供の頃はもっと活気があったように思う。いや、そもそもその時はまだこの家に家族で住んでいたからか。
二年前、余生を海外で過ごすと言う両親から家を譲り受けたので、今この家に住んでいるのは俺一人。そりゃあ静かにもなるわけだ。
居間の電気を消す。月の光が射し込んでくる。なるほど、いい月夜だ。さて、仕事仕事、と居間を出ると、玄関から呼び鈴の音がする。
「よお、久瀬。元気だったか」
近所の酒屋の息子、幼馴染の美崎だった。首元の緩いTシャツにジーンズ、スニーカーという出で立ちは中学生の頃から変わらない。こうして玄関でこいつを迎えるのも何度目か。
「元気も何も、おととい会ったばかりだろう」
「まあまあ。お前ひきこもりだし、幼馴染としては久瀬くんのことが心配なんよ」 飄々と、軽薄そうに喋るのも昔から変わらない。
「ったく、三十前の男をつかまえて。……で、今日はなんだ」
美崎は右手の一升瓶を掲げてみせると、歯を見せて笑う。
「月見するぞ。うまい酒持ってきてやったから」
まだ仕事が残ってるんだが、という俺の抗議を却下して台所に日本酒の瓶を置くと、美崎はさっさと縁側に陣取った。
俺は軽くため息をついて台所に立つ。こいつは基本的に俺の都合を考えない。徳利に酒を注ぎ、二人分の猪口と一緒に縁側に持って行く。
美崎は縁側にあぐらをかいて月を見上げている。その背中は中高生の頃に比べるとずっと大人らしく、しっかりしたものになっているが、月明かりに照らされた表情はきっとあの頃のままなんだろう。徳利と猪口を並べると、俺も美崎の隣に座る。
美崎が猪口の片方を手に取ったので、俺は徳利を傾けて酒を注ぐ。今度は美崎が俺の猪口に酒を注ぐ。ガラスの器が透明な液体で満たされ、俺達二人は無言で酒を口に含む。
芳醇な香りが口の中を満たす。熟成された米の甘みが染み渡る。甘い、が、決して尾を引かない。それでいて、爽やかな後味が口の中に残る。
「美味いな、これ」言い方はくさいかもしれないが、月に合う。
美崎は当然、というように鼻を鳴らす。
「だろ? 蔵元のおっちゃんも今年は自信作だって。やっぱ東北の酒はうまいよなー」
自分の好きなものについて話すときの無邪気な顔はあの頃のままだ。ここまで嬉しそうにされるとこちらもつられて嬉しくなってしまう。
「……何にやにやしてんだよ」美崎が怪訝な顔でこちらを見ている。
「いや……なんでもない」
「なんだよ、言えよ」
「いいから。こっち見てないで月見ろ、月」
なんなんだよ、と渋々視線を上に向ける。その瞳が一瞬、月光で煌めいた気がした。
「――最近店の方はどうなんだ」
「どうもこうも。ま、ぼちぼちかなあ。あー……でも今度駅前にでっかいスーパーできるらしいからな。どうなることやら」
からになった猪口をこちらに突き出すので、徳利から注いでやる。
「久瀬はどうなんだよ、『でざいなー』のお仕事の方は」
「俺は、まあ、最近は本の装丁とか色々とやってるよ。小さい仕事ばっかだから数こなしてなんぼだけど」
俺は大学を卒業してすぐに東京のデザイン事務所に就職したのだが、色々あって、二年前に独立してこの町に戻ってきた。
独立した当初は全然仕事が来なくて、本当にどうしようと思ったものだ。
「そうかー、大変なんだな、『でざいなー』も」
うんうん、と一人で勝手に頷いている。何度か説明しているのだが、多分こいつは俺の仕事を正確には理解していない。
「でもよ。いくら家でできる仕事だからって、たまには外出ろよ。不健康だろ」
「いいだろ、別に。お前は俺の母親か?」
美崎はちらっとこちらを見ると、
「ちげーよ。母親じゃなくて、幼馴染。ガキの頃からの友達として、久瀬くんのことが心配だって言ってんじゃん」
ニッと笑うと、ちょっとトイレ借りるわと言って席を立つ。
足下気をつけろよ、と俺はその背中に呼びかける。美崎は居間を抜けて、暗がりの中を歩いていく。
友達、ね。まあそうなるか。お前とは物心ついたときから一緒なんだし。幼馴染、だ。
でも俺はそんなお前のことが好きなんだが。
はっきり意識し始めたのは高校生の頃だったか。ずっと一緒に過ごしてきた幼馴染に対して、俺は友情というだけでは割り切れない感情を抱くようになっていた。
もちろんその頃には、自分の嗜好が少数派に属するものだということは理解していた。誰にも、――もちろん美崎には――、明かすつもりはなかった。
ゆっくりと流れてきた雲が、月をぼんやり陰らせる。
――なあ、美崎。
お前の微妙に赤みがかったくせっ毛とか、無駄にでかくてきらきらした眼とか、軽薄そうに見えて実は芯のしっかりしているとことか。
気づいたらなんもかんも好きになってたんだよ。お前との友情を俺は勝手にこじらせて、片思いにしてしまったんだ。
お前が楽しそうに彼女の話をしているとき、俺がどんな気持ちだったか、想像できるか。
「久瀬は彼女作んねえの」ってお前に聞かれて、ただ曖昧に笑っていた俺の気持ちが。
アルコールが回ってきたのか、頬が少し熱くなってきた。秋の風がひんやりとして気持ちがいい。
ま、もし美崎に気づかれていたら軽く五回は死ねるな。
ごろんと仰向けになって目を閉じる。
「まったく、いい大人が何してんだか」
「――何が?」
いつの間にか美崎がトイレから戻ってきていたらしい。上から俺の顔を覗き込んでいる。
「なんでもない、お前には関係ない話だ」体を起こして、猪口を手に取る。先ほどの雲はまたどこかに流れて、再び満月がその姿を余すところなく見せている。
「なんだよー、気になるじゃねーか」
美崎は俺の隣に座ると、縁側の方に足をぶらぶらさせる。少しすねているようにも見える横顔が、青白く照らされている。
「そういえば、日本では月の模様をウサギの餅つきに喩えたりするが、他の国では違うものに喩えるらしいな」
話をそらすように、以前テレビで観た話題を振る。
「へー、違うものってどんな?」
「吠えているライオンとか、大きなはさみを持ったカニとか。あと、薪を担ぐ男、女の横顔なんてのもあるらしいな」
チラッと観ただけだっただが、確かこんなところだったような気がする。
「女の横顔ねー、なんかロマンチックじゃん」
まあ俺には見えねーけどと言いつつも、美崎は色々と見方を変えて月を眺めている。
時間が経つにつれて、酒を口に運ぶ回数が少なくなってくる。俺も美崎も別に酒に強いというわけではない。いつも、二人ともほどほどに飲んで、ほどほどに酔っぱらう。酒が入ると陽気になるという性質でもないので、自然と口数も減ってくる。
鳴きはじめたばかりの虫の音が、微かに聞こえてくる。
視線を下げて足をぶらぶらさせていた美崎が、ゆっくりと口を開いた。
「俺さ、結婚することになったわ」
決して大きな声ではない、ぼそっとした言葉なのに、頭の奥まではっきりと聞こえた。結婚?
「え……。いつ、つか誰と」
俺の声が震えているのに美崎は気づいただろうか。
美崎は、足の先に視線を落としたまま、なんだか他人事のように答える。
「や、まだ日にちは決まってないけど。近い内に、かな。誰っつっても久瀬にはわからないよ。お見合いだから」
お見合い、か。どうやら冗談ではないのだなと、重たい感情が胸の中に生まれる。が、
「お見合い? お前、そんなに結婚したかったのか」動揺を気取られないように、わざとちゃかして問いかける。美崎はこちらを向いて笑いかけるが、すぐに視線を前に戻す。
「そういうわけじゃねーけどさ。……親父の腰も全然よくならねーし。俺もいい年だし、そろそろ店の方に本腰入れなきゃなと。ま、色々あって、さ」
どう返せばいいのかわからずに黙ってしまった俺に、美崎は繕ったような笑顔を見せる。
「いや! なんか仕方なくみたいに聞こえるかもしんないけど、別に全然そんなことないから! 相手の子もめっちゃいい子だし、しっかりしてて、ほんと俺にはもったいないくらいっていうか」繕った笑いはだんだんと照れ笑いに変わっていく。
勝手に顔を赤くしている美崎に、まだ中身が残っている猪口を渡す。
「わかったわかった、のろけ話はまた今度ゆっくり聞いてやるから。ほら、お前も持って」自分の猪口に酒を注ぐと、少し高く揚げる。「では、幼馴染の結婚を祝して、乾杯」
勝手にまくしたてると、器の中身を一気に飲み干す。喉の奥がしびれて、一瞬頭の中に靄がかかったような心地になる。美崎も照れながら残っていた酒を飲み干す。これでいい。友人の結婚を祝う振る舞いとしては、これで間違いはないだろう。
美崎が結婚。
幸せな家庭を築いている姿が、容易に想像できた。美崎の傍には、しっかり者で気立てのいい奥さんと、腕白でやたらと元気のいい子供たちがいる。そんな光景が簡単に浮かんできた。
こいつには、それがお似合いなんだろう。
体の真ん中が締め付けられたような気がしたが、周りに靄をかけて、無理やりぼんやりさせる。
また、月に雲がかかった。すぐ横にいるのに、美崎がどんな顔をしているのかわからない。
「正直、結婚するっつってもなあ。よくわかんねえよ。今まで通りあの家で暮らすわけだし、なんか、あんまり変わるって感じはしないんだよな」
暗闇の中だと、人の声は一層澄んで聞こえる気がする。気がする、だけだが。
「変わるよ。結婚って、人生を共有する相手ができるってことだろ。環境だって変わるし、きっと、お前自身も変わっていく」
そして、こうやって俺の家に来ることもだんだん少なくなってくるんだろうな。
美崎は俺の顔をじっと見ると、「そういうもんかねー」と言って後ろに寝転んだ。
月の光が、幽かに射し込んできた。そろそろ雲が晴れそうだ。
「なあ、久瀬」
「なんだ」視線は前に向けたまま、答える。
「俺らってかれこれ二十年以上の付き合いじゃん」
「そうだな」
夜の闇に吐き出される言葉は、後ろにいる美崎に届いているのだろうか。
「変わんねえよな。ずっとこんな感じで、さ」
雲が、晴れた。青白い光が、自分の体を透き通らせていくような、そんな気がした。
「俺さ、お前と一緒にいるこの感じ、すっげー好きでさ。なんか……よくわかんねえけど、うん、好きなんだよ」
美崎の声だけが後ろから聞こえてくる。
「何だ急に。何の話だ」
「いや、別に。なんつーか、この感じが死ぬまで続かねーかなとか思ったりしてさ。んー……よくわかんねえけど」
後ろから、適当に投げつけられる言葉。きっと何も考えないで、思ったことをそのまま言っているんだろう。
「なんなんだろうな。俺はもうすぐ結婚するってのに、お前と一緒にいるのが楽しくて仕方ないっつーか、さ」
美崎は、どんな顔をしているんだろう。きっと、ただ楽しくて仕方ないという顔だろうか。わかっている、別に深い意図があるわけじゃない。こいつはただただ楽しいというだけなんだ。
でも、そんなこと。わかっているのに、ほんの少しでも期待してしまう自分がいる。
心の中に無理やりかけた靄が、一瞬だけ晴れたような気がした。
今だけは、俺の顔を見てほしくない。
「なあ美崎。もしも俺が――」
「んー」
女だったらよかったんだろうか、なんて。
「…………いや、なんでもない」
「んだよー、お前ってそういうとこあるよな。勝手に一人で納得してるっていうかさあ」
「ふ、いいんだよ。これから結婚するお前に言っても仕方ないことだ」
というか、そういう問題じゃないんだよな。
振り返って、晴れやかに笑ってみせる。眠たげな美崎の目では、俺の顔に僅かに混じった諦めには気づかなかっただろう。
すっかり夜も更けてきたが、月は変わらずに煌々と光を落としている。緩やかに吹く風は、もう秋の風だ。
「なあ、美崎。覚えてるか、高校二年のときのクリスマス」
「んん……クリスマス?」
背中から、今にも眠ってしまいそうなもごもごした返事が返ってくる。
「クリスマスなのに俺、風邪ひいて寝込んでて。親は仕事だったから家に一人で。ついてないなーと思ってたら、お前が彼女とのデートすっぽかして家に来てさ」
「……そんなこともあったっけ……」
「俺がいくら『大丈夫だから彼女のとこ行けよ、絶対怒ってるだろ』っつっても、お前は『いい、今日は久瀬のところにいる』の一点張りだったな。……そんで結局彼女にはフラれて、おまけに俺の風邪もうつって、さ。半分笑い話だよな、ほんと」
あのときの美崎の、鼻水でぐしゃぐしゃになった泣き顔は今でも思い出せる。
「……まあ、嬉しかったけどな」
ぽつり、と呟く。さすがに今のは聞こえなかっただろうと思っていると、後ろからすーすーと寝息が聞こえてきた。
足を投げ出して寝ている美崎を居間まで引きずってくると、俺は傍らに腰を下ろす。あとで毛布でも持ってきてやるか。
少し熱を持った息を吐き出し、夜空に目をやる。
「月、きれいだな」
猪口に半分以上残っていた酒を一息に飲み干す。
むせ返るような香りが口の中に広がり、やがて消えた。




