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チーズケーキ ~Ange(天使)~

「加奈子先輩……実家に戻るって、本当ですか?」

 大学四年の夏、キャンパスの芝生でひとり本を読んでいた私にそう問いかけたのは、ほとんど話したことのないゼミの後輩だった。

「えぇと、田中君だっけ?」

「……田辺です。田辺徹」

 彼の落胆っぷりが大袈裟で、私は思わず笑ってしまった。ポンポン、と横を叩いて彼を芝生に座らせる。そして親しい友人にだけ伝えておいた情報を彼にも話した。

 私の実家は苔が生えそうな古臭い家で、娘は父の所有物でしかない。私は大学を卒業すると同時に、顔も知らない父の腹心に嫁がされると決まっているのだ、と……。

「俺、加奈子先輩が就職活動しないのは、てっきり院に行くからだと思ってました」

 抱えた膝に向かい、彼はポツリと呟く。半袖のTシャツに洗いざらしのジーンズ。やや伸びた前髪の奥に黒いフレームの眼鏡。真夏だというのに涼やかな切れ長の目をした彼は、激情を堪えるように俯き唇を噛む。その横顔は確かに私の苦手な『男』なのに……私は少し見とれた。

 だから、つい言ってしまった。彼の耳元に唇を寄せて。

「本当はね、どこか遠くに逃げちゃうつもりなの。皆には内緒ね?」

 生真面目で可愛い後輩に抱いてしまった、ちょっとした悪戯心。この一言が、私たちの運命を変えた。

 まんまと共犯者に仕立て上げられた彼は、私に父から逃れるための大きな武器をくれた。それが新しい名前。私は『田辺加奈子』として、彼の部屋に匿われることになった――


 ◆


「ごめん加奈子、遅くなって。これお土産」

 彼はダイニングテーブルに小さな紙袋を置き、夕食の皿を手にキッチンへ向かった。レンジの稼働音が、冷え切ったリビングに虫の羽音のように響く。私は暖房の温度を数度上げ、かじかむ指先を口元に当てた。

「……帰って来ないかと思った」

 解き放った醜い言葉は、彼の背中には届かずに消える。

 昨夜は酷い喧嘩をした。それでも彼は私への気遣いを忘れない。「遅くなる」と一報を入れ、贈り物まで用意してくれた。こんな女のために馬鹿なひと……そう自嘲しながら、私は小さな白い箱を開いた。

 現れたのは、彼の握り拳ほど大きな純白の塊。表面を覆うガーゼを剥がしたとき初めて、それがレアチーズケーキと分かった。フォークを入れると雲のようにふんわりと軽く、中から深紅のベリーソースが溢れ出る。

「……美味しい」

 思わず感嘆の声が漏れた。正面に腰かけた彼が、ぎこちなく微笑みかけてくる。眼鏡をかけ直し、短く刈り上げた後ろ髪を掻く癖は……何かを取り繕うときのもの。

「それ、『天使アンジュ』って言うんだ」

 ――天使。

 その一言が強烈な嫌味となり胸に突き刺さった。爽やかなチーズムースが、一気に味気ない物体へと変わる。

「美味しかった、ごちそうさま」

「加奈子」

 呼び止める声を振り切り、私は洗面所へ向かった。冷水で顔を洗い波立った心を冷やす。

 真綿のように白く柔らかな形と〝天使〟のネーミングから、私は『子ども』を連想した。

 昨夜の喧嘩の理由はそれだった。

『――結婚しよう、加奈子。誰も知らない街で、俺と一緒に暮らそう』

 そのとき彼は二十歳、私は二十二歳だった。傲慢な父の支配下でもがき苦しんでいた私に、彼は新しい名前と自由をくれた。大学を中退し、駆け落ちして十五年。和解の糸口さえ掴めないまま、先日父は亡くなった。葬式には行かずに挨拶は電報で済ませた。

 私だって、あの男が居なくなれば、何かが変わると思っていた。

 私は男が怖かった。

 薄暗い部屋で男にのしかかられると、心が幼い少女に還る。父から受けた数々の暴力を思い出し、どうしても身が竦んでしまう。

 ただ彼は名義上の旦那であり、感謝もしているから、強く目を閉じて行為を我慢する。そんな夜を重ねるたびに優しい彼は深く傷ついて……いつしか彼は私を求めなくなり、単なる同居人として暮らしてきた十五年。

 このまま二人で、穏やかに年を重ねて行くのだと思っていた。

 なのに昨夜、彼は切羽詰まったような顔で告げた。「子どもが欲しい」と。その説得は明け方まで続いた。

「……もういい、分かった。加奈子は俺と『家族』になるつもりがないんだ」

「私は徹のために毎日家事をしてるでしょう?」

「そんなことを言ってるんじゃない!」

 珍しく声を荒げ、次の瞬間には目を伏せて「ごめん」と謝る。でも怯えた私は、伸ばされた彼の手を強く振り払った。彼は「頭を冷やす」と北風の吹きつけるベランダへ行き、そのまま朝を迎え会社へ出かけた。

 私は初めて、彼を見送らなかった。


 ◆


「ごめん加奈子、遅くなって……加奈子?」

「……ああ、うん。うたた寝してたみたい」

 ダイニングテーブルに突っ伏していた私は、身体を起こし目元を擦った。強すぎた冷房のせいか、指先が芯から冷え切っている。おかげでなんだか嫌な夢を見てしまった。

 忘れたくても忘れられない、あの夜。

 あの喧嘩をしてから二年半もの月日が流れた。どんなに季節が変わっても、この部屋には北風が吹き続けている。

 私たちを繋ぎとめたのは、天使という名のチーズケーキだ。毎週飽きもせず買ってくる彼と、飽きもせず「美味しい」と食べる私。感情の薄い私も、その時だけは心から微笑むことができる。

 彼の視線から少しずつ熱が失われていくことも、彼の身体に纏わりつく甘い香りにも、気付かないふりをして。

「……あのさ、加奈子」

「何?」

「今日、チーズケーキは無いんだ」

 Yシャツのネクタイも緩めず、彼は直立不動で私を見つめた。苦しげに眉根を寄せ、胸ポケットから一枚の紙を取り出す。透けるほど薄いその紙を見て、私は息を呑んだ。

「ごめん、もう加奈子にしてやれることは何も無い……他に、幸せにしたい人ができた」

 一言一言、区切るように伝える言葉が、私の固く閉ざされた心を強引に開いていく。彼は最後にもう一度「ごめん」と言って踵を返した。バタンと玄関のドアが閉まる。

 静寂の中、私はその紙をぐしゃぐしゃに握りしめた。とめどなく涙を流していた。

 幼い少女の私が、私の唇を動かす。醜くしゃくりあげながら。

「ごめんなさい……私あなたを愛せなかった」

 初めて解き放った懺悔の言葉は、彼には届かず暗闇に消えた。



『嘘』


断った恋蒼く

涙いつか忘れ

名は遠退き


貶した僅かな嘘

嘘促す私


嘆きの音離れず

分かつ痛みなく

おあいこだった


(たったこいあおく

なみだいつかわすれ

なはとおのき

けなしたわずかなうそ

うそうながすわたし

なげきのおとはなれず

わかついたみなく

おあいこだった)

初めての試みとして『回文付小説』を作ってみました。普段単品で回文ばかりを作っているのですが、やはりその奥にある『物語』への想像が膨らんでいくことがあります。今後も何か閃いたら回文とセットでアップするかもです。

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