チーズケーキ ~diable(悪魔)~
「おーい真希ー。来たぞー」
野太い声と共に、玄関のドアが閉まる音が響いた。私は慌てて鏡をチェック。パールピンクの口紅を引き、乱れた髪をバレッタで留め直す。その間に、彼は通路を兼ねる手狭なキッチンに立ち止まる。手土産のケーキ二箱のうち一つを冷蔵庫に仕舞うのだ。
『パティスリー・ラヴィアンローズ』の存在は私が教えた。
「麹町に美味しいケーキ屋さんがあるの。特に悪魔っていうチョコケーキが有名で」
すると彼は嬉々として店へ行き、私が大好きなチョコケーキと、大嫌いなチーズケーキを買ってきた。チーズケーキは冷蔵庫へ入れたままで、その夜は二人でチョコケーキを食べる。
二年半、毎週飽きずにその行為を続けるから、私の対応も手慣れたものだ。冷蔵庫の中には一箱分のスペースを作ってあるし、テーブルには二人分のケーキ皿を置いておく。ダージリンの茶葉を入れたティーポットへ湯を注ぎ、砂時計を返す。
居間に来た彼は背広を脱ぎ捨て、ソファの隣にドスンと腰かけた。軽くおめかしした私に気付くこともなく、いつも通りに。
「あー、今日も暑かったなぁ」
「お疲れ様。シャワー浴びる?」
「いや、後でいい。それより腹減ったからこれ食おう」
そう言って乱暴に紙箱を開ける、ごつごつした指が好きだと思う。外回りのせいで日に焼けた肌と、ワックスで整えた短い黒髪。顔立ちは平凡だけれど、切れ長の目と細い黒フレームの眼鏡はちょっと知的。時折見せる優しげな笑顔もいい。三十代半ばを超えたのに、若さを失わない引き締まった身体も。
砂時計の砂がさらさらと落ちていく間に、私は一つ一つ彼への想いを確認していく。
一番好きなところは、やっぱり目に見えない部分だ。彼はとても優しい。常に相手を喜ばせようと気を使う。だから会社でも家庭でも……“それ以外の場所”でも上手く行く。
硝子の中を滑り落ちていた青い砂が動きを止めた。私は紅茶を注ぎ、彼のカップに角砂糖を一つ落とした。自分の方にはスライスしたレモンを。
「何だよ、砂糖入れないのか?」
「うん、いいの」
「珍しいな、いつもなら三つは放り込むのに。ダイエットでも始めたのか?」
先週ここに来た時「少し太ったんじゃないか?」とからかったことを思い出しているのだろう。バツが悪そうに後ろ頭を掻いている。私は甘くない紅茶を一口啜り、問いかけた。
「徹さんは、私が太ったら嫌いになる?」
「どんなに太っても真希は可愛いよ」
返事は分かっていた。カマをかけただけだ。それなのに私は嬉しくて泣きたくなる。
可愛いと言われるたび、彼と出会った日を思い出す。三年前、彼の会社に事務職として派遣された日の朝。おずおずと頭を下げるショートヘアの私を、課長席の彼は呆けたように見つめた。そして「ずいぶん可愛い子が入ったなぁ。学生さん?」と、フロア全体に響いてしまう大声で言った。私は「確かに童顔だけど、二十四ですから!」とむきになって言い返した。
楽しい時間はあっという間に過ぎた。半年が経ち、私は契約更新を断った。
そのまま消えようとしたのに、彼はこの部屋へやってきた。狭い玄関先で、まるで高校生みたいに頬を紅潮させて「一目惚れだった」と告げた。
それから二年半、私は彼を受け入れてきた。ちゃんとした食事を用意し、彼の遅い帰りを待つひとが居ると知りながら。
「どうした、何だか元気ないな。ケーキ食べないのか?」
「ううん、食べるよ」
だけど……。
「今日はチーズケーキが食べたい」
常に涼やかな彼の目が、一瞬見開かれた。
定例の『勉強会』がある夜は、遅くなる罪滅ぼしにチーズケーキを買って帰る。その約束を破れば、精神的に脆いという“彼女”がどうなることか……。
それでも彼は直ぐに頷いた。
「いいよ」
珍しく我侭を言う私の前髪を、仔猫を扱うようにくしゃくしゃと撫でる。私は目を伏せて、温かな手のひらを受け止める。
「でもお前、チーズ嫌いじゃなかったのか?」
「嫌いだよ、私は。だけどね……」
呟きながら、私はゆったりとしたワンピースの腹部を撫でた。敏い彼にはそのしぐさだけで伝わったかもしれない。思わずクスリと笑みが零れる。
この先どんなに私が太っても、彼は可愛いと言ってくれるだろう。そして来年の夏……彼はきっと喜んでくれるはず。
私は彼をソファに残してキッチンへ。冷蔵庫のドアを開き、淡い光に照らされる小箱に微笑みかけた。
これからは、私がチーズケーキを食べる番。
『愛人』
影となり 言えないカルマ 酔った肌 強まる腕 鋭利な棘か
(かげとなり いえないかるま よったはだ つよまるかいな えいりなとげか)